20代編4
目覚めはいつものように訪れ、目覚まし時計の鳴る二分前にそのスイッチを切った。重たい身体をベッドから起こし、ふらふらとキッチンに向かう。身体は重いのに胃の中は空っぽで、力が出なかった。昨夜は結局何も口に入らなかった。 シリアルをお気に入りのボウルに入れたが、そこに牛乳を注ごうとして手が動かない。空腹なのに食欲が湧かない。 冬花は椅子に腰掛け、ダイニングテーブルに突っ伏した。ヤカンを火にかけるかすかな音だけがした。外は曇りで、朝からひどく静かに感じた。むなしい静けさだ。 しゅんしゅん沸く音にようやく起き上がり、コーヒーを淹れる。 一口、ブラックで。 それから砂糖を入れた。 それから牛乳を少し注いだ。 ようやく優しい味になり、溜息をついてそれを飲み干した。 シリアルの朝食も食べることができた。一口二口が口の中に入れば後は簡単だった。健全な空腹が蘇り、小さなボウル一杯をぺろりと食べた。 身体が普通に動き始める。今日も大学に行って、それから父の病院へ。検査の説明は一緒に聞く必要があるだろう。大人しく休んでくれているだろうか。何の用意もなかったからベッドの上で退屈しているかもしれない。本当は寝ていてほしいのだけれど、本くらいは持って行こうか。 今日の予定を考えながら使った食器を洗う。 エプロンで手を拭うと、テーブルの上にぽつんと残ったものが目についた。コーヒーに入れたスティックシュガーの空袋だ。冬花は何気なくそれをつまみ上げ、ゴミ箱の蓋を開けた。 ゴミ箱一杯のバラの花を見た瞬間、膝から力が抜けた。 キッチンの床にぺたりと座り込み冬花は泣いた。最初、大粒の涙がぽろりとこぼれて、それに驚く間もなく喉からは泣き声の最初の声の引きつりが漏れた。後は立て続けにこぼれる涙と抑えようのない声で、子どものように泣いた。 半時間ほど泣いたり泣き止んだりを繰り返し、ようやく気持ちが静まった。ぼんやりしているが、自分の身体に自分の心が戻ってきたような心地がした。 手のひらも胸元も涙で汚れていたので、服を脱いで、シャワーを浴びた。 着替えた頃には大学も始まる時間だった。すっかり遅くなってしまったが、冬花は慌てもせず、いつものように化粧し、バッグの中身を確かめ、火の元をチェックしてから部屋を出る。 少し遅い朝が、いつものように広がっていた。空は曇りだが、大きい通りには忙しない車の音。バス停へ向かって歩くサラリーマンや自転車の姿。マンションの七階から見下ろす、いつもの風景。 当たり前の景色の中にないものを思う。十七の夏からその姿は消えていたのに、本当に失われたのはこの朝からなのだと冬花は思った。本を閉じるように胸の奥に残る彼の横顔を消し、エレベーターに乗り込んだ。 荷物を一つ多く持って大学に行く。帰りは病院に寄って新しい下着とパジャマ、タオルを棚に仕舞い、空になったバッグに洗濯物を詰める。いまだに仕事に戻ることを許されない父と一時間ほど喋って、夕食の時間に合わせて用意していた弁当を一緒に食べ、バイバイと手を振って病院を出る。 帰宅すると今日の分を洗濯機にかけ、ベランダで乾いた父の洗濯物にアイロンをあてる。たとえパジャマでも、冬花はそうした。父には皺のない服を着てほしかった。 しかしパジャマにアイロンをかけていると時々無性に悲しくなって、俯いて顔を覆ってしまうのだった。 その夕も、暗くなった窓にカーテンをかけようとして急な寂しさに襲われた。今でも孤独はひやりと冬花の手足を冷えさせる。 バッグの中で華やかなメロディを奏でる携帯電話が冬花を現実に引き戻した。パジャマはまだアイロン台の上だったし、バッグの口もだらしなく開いたままだった。 着信は根気強く冬花を待ってくれた。 『冬っぺ』 電話の向こうから聞こえてきた声がクーラーに凍えそうになっていた冬花の心をとかす。 守君、と溜息をつくように名前を呼んだ。 『ちょっと時間遅いけどさ、夕飯一緒に食べないか?』 帰宅してからもコーヒー一杯で済ませていた冬花は、嬉しい、と二つ返事を返す。 高いところには連れて行けなくて悪い、と円堂は冬花をラーメン屋に誘った。 セットで注文すると炒飯が入りきれなくて、半分を円堂に食べてもらう。円堂はもやしを増量したラーメンを食べていたのに、冬花の差し出した皿もきれいに平らげた。 円堂は空いた皿をどかし、水を一口飲み干した。冬花も自然と座り直し、水を一口、それから紙ナプキンで唇を拭った。 冬っぺ、と呼びかけ円堂の丸い瞳が正面から見据える。 「不動とは、ちゃんと別れたのか?」 「…どうして?」 冬花は微笑む。次に、私たちはあの時に終わったのよ、という科白が頭に浮かんだ。高校の時、不動と付き合っていたことは円堂も知っている。冬花が自分から話したのだ。 二十歳を過ぎた今では隔たれた思い出だった。先日の不動との再会までに冬花にはいくつもの出来事が起きていた。大学受験も、円堂との関係も。そして今、父の病が見つかり慌ただしい日々の中で不動は再び日本を去ったのだ。 私たちはあの時に終わったのよ、十七歳の夏に。ちゃんと別れたのか、だなんてまるでやましいことがあるみたい…。 その一連の科白は冬花の口をついて出なかった。 かつて冬花は不動とのことを円堂に話したが、しかしそれを失恋したとか別れたとか表現したことは一度もなかったのだった。だが、だとしてもそれは繰り返されてきた言葉だった。不動の横顔を思い出すたびに冬花は本を閉じるようにその面影を瞼の裏から消していた。そして実はその言葉にならぬ呟きで思い出に蓋をしてきたのだ。 私たちはあの時に終わったのよ。 不動が言葉にしたことが、今冬花の胸の中で意識されなかった何百回という呟きをあらわにした。それはそのまま悲しみとなって冬花の表情に表れた。微笑みが消え、彼女は目を伏せようとした。しかし円堂の瞳は真っ直ぐに冬花を見つめ、それを許さなかった。 「もう、日本にはいないわ。スペインに帰ったんですもの」 ようやく絞り出した言葉に円堂は首を振る。 「不動がどこにいるかは関係ない。冬っぺ、よく聞いてくれ。俺は冬っぺと結婚したいと思ってる。だから、訊いてるんだ」 結婚という言葉はちっとも不思議ではなかった。いつかこんな瞬間がくると思っていた。だが、その前に不動の名前を持ち出すのは反則だ。 「だって…」 唇が震えそうになるのを軽く噛んで抑え、冬花は溜息をついた。 「もうずっと日本にいなかったのよ」 「心の中には?」 私たちはあの時に終わっていた。十七の夏、部室の隅で。誰にも触れさせたことのない胸に彼の顔を押しつけながら、彼を赦すと繰り返して。 不動が空港から電話をかけたときでさえ、既に終わっていた! 「もう…終わった話だわ」 「結婚したいと思ってる、真剣に」 円堂は言った。冬花のぶれそうになる視線は再びしっかりと捕らえられる。 「好きだから結婚したい。それで人生のパートナーになってほしい。俺はもう豪炎寺や鬼道みたいにピッチでボールは蹴らない。でもサッカーを続けていくことに決めたんだ。そこに一緒にいてほしい」 思いの外強い言葉と笑わない瞳が冬花に正面から対していた。 「久遠監督にも挨拶に行く。両親にも紹介する。来年卒業だろ? そしたら籍入れて式を挙げよう。不動とのことが終わったら、ちゃんとプロポーズするから。今度は場所も考える」 「場所なんて…」 「俺だって場所くらい考えるさ。ちゃんと結婚できて、子どもが生まれたら、プロポーズのことも話してやらなくちゃいけないんだから」 冬花はようやく目を伏せ、分かった、電話する、と言った。 一人乗ったバスは乗客も少なく、マンションの林立する手前の大通りで停まった。降りた瞬間、冷房で冷やされた肌がむっとした熱気に包まれた。じめりとしている。雨でも降り出しそうだ。 バス停には一人の人影があった。バスはなおも停車していたが、その人影が乗る様子はなかった。バスが走り去ってから、冬花はその人影に何気なく視線をやり、あ、と小さく呟いた。 「久遠さん」 基山ヒロトが微笑みを浮かべて佇んでいる。 「待ってたんだ、帰ってくるの」 「お久しぶりです…」 「話したいことがあるんだけど」 冬花がマンションへ案内しようとする前に、ヒロトはにこっと笑って別の道を指した。 「少し歩こうか」 マンションに囲まれた公園は木々に囲まれており鬱蒼として見えた。それが急に拓けたのは中央に噴水があるからで、明かりに照らされたそれは人のいないこの時間にも絶えず水を噴き上げては水盤の上に落とす。波がちらちらと銀色に光る。 ヒロトは噴水の前まで来ると、それを見上げて何でもないことのように言った。 「守と、デート?」 ああ、と思い、冬花はそれを表に出すまいと努めた。優しげに発せられるヒロトの声は、しかし真逆の冷たいものを冬花の背に感じさせた。 冬花は何も答えず、ヒロトの次の言葉を待った。 ヒロトは不意に振り返ると浮かべていた笑みを消した。この時の為に本来用意されていた厳しい目つきが冬花を見た。顔にはほとんど表情はなく、噴水の明かりに青白く照らされていた。 「受け取りなよ」 白い封筒が差し出された。 「スペイン行きのチケットと小切手だ。これを持って今すぐ不動明王の所に行けばいい」 父が、という言い訳はすぐに打ち消した。 冬花は、ラーメン屋での円堂のように、ヒロトを正面から見つめた。感情が地鳴りのようにヒロトの奥底から響いていた。しかしあくまでも表情は冷たいままだった。 冬花はその封筒を受け取った。未来を乗せているはずのそれは呆気ないほど軽く、また薄かった。チケットと小切手。たった二枚の紙切れで、未来を一から真っ白に塗り替えることができる。 マンションの間を吹き抜けた風が公園までやってきて、噴水の水を飛ばした。雨のような音を立てて水滴が軌跡を外れ、降った。 冬花は手の中の封筒を真ん中から二つに裂いた。 それから破ったものを重ね、更に二度まで細かく裂き、両手のひらから離した。ふく風が千切れた紙切れを吹き飛ばした。いくつかが水盤の上に落ち、インクを滲ませた。 「私は守君と結婚します。だから、これはいりません」 冬花は静かに言い切った。 目の前のヒロトの顔は一瞬蒼褪め、それから白い肌に静脈の浮き上がるのが分かった。それほどまでに噴水を照らす照明は明るかった。 ふと、唇が歪んだ。 「僕はね、自分が女であったらと思ったことは一度もない。守の隣にいる時でさえ、一度だってね」 大きく呼吸し、背を向ける。 「これからも、僕なりの関係で守とは付き合っていくつもりだよ」 しかし冬花は最後まで何も答えなかった。 自分の心臓の音を聞きながら、マンションへ帰った。 帰ってすぐに円堂に電話をかけた。 円堂はすぐさまマンションまでやってきて、玄関先で冬花の手を握り締めプロポーズの言葉を口にした。 力強く、あたたかな腕が冬花の身体を抱きしめた。 冬花は自分の心臓の音が円堂の心臓の音にかき消され、彼の心臓の音を自分の心臓の音として聞きながら、安心と安堵に抱かれ目を閉じた。
2011.4.5
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