20代編3







 朱鷺色の空が街を覆っていた。空気は湿って柔らかく、かすかに花の香りがした。それは目の前の男が慣れぬもののように手からぶら下げている花束から香ってくるものだった。
 影のない景色の中に不動は立っていた。
 冬花はドアを開けた格好のまま、呆然とその姿を眺めた。現実には短い、ほんの数秒の出来事だったが、彼女はもう長い間そうしているかのように感じた。
 背はあの頃とそこまで変わらないだろうか。いや、高くなった。あの頃とはまた別の人間を見ているかのようだ。体つきも、それからバラの花束という芸当も。
 左耳には空の淡い光を映すピアスがあった。三つ数えられたそれはすぐ目の前にあるかのように冬花には見える。ピアスの穴。金属の針、曲線の光沢。
 相手もまた自分をまじまじと見つめているようだった。裸足のまま踏み出した足。汗に濡れた服。慌てて病院に向かう際、荒く結った髪や、ほつれ毛の落ちるうなじ。
 視線が合う。 声は喉の奥でつかえた。冬花はわずかに開いた唇から息を吐いた。
 動いたのは不動だった。彼は提げていた花束を抱え直した。
「久しぶり」
「ええ…」
「監督は?」
 不動から国際電話のかかってきた夜や、今日の午後の出来事が慌ただしく頭の中を駆けめぐる。混沌としたそれらは出口に殺到してはつかえ結局、あ、と小さな声だけが漏れた。
「お父さん、病院で…」
「病院?」
 初耳だというような不動の顔に冬花が驚く。
 もう半歩踏み出し、辺りをうかがった。人の姿はなかったが、通路の奥でエレベーターが昇ってくるのが見えた。
「…入って」
 不動は素直にその言葉に従った。
 リビングまで案内したところで、病院に行った時のままものが散らかっているのと、慌てて取り込んだ洗濯物が小山になっているのが目に入り、ごめんなさい、と言いながら不動の隣をぱっと離れた。
「散らかりっぱなしで…」
「病院?」
「…どうぞ、かけて」
 散らかっていたものや洗濯物を隣室に押し込んで、もう一度、ごめんなさい、と呟いた。
 黙ってコーヒーを淹れる間、不動は話しかけてこなかった。冬花はインスタントコーヒーの壜を握って、時を計っていた。今考える時間を得た方がいいのか、それともインスタントコーヒーでさっさと追い出すべきなのか。
 トレイにコーヒーを載せてリビングに戻ると、ソファに腰掛けた不動が身体を斜めにしてベランダの向こうを眺めていた。ピンク色の空と、その色の染み込んでしまった風景。
「ごめんなさい」
 冬花はトレイを片手で持ち、不動の後ろ姿を見つめたまま壁に手を這わせる。
「電気も点けなくて」
「いい」
 不動が振り向いた。
「長居はしない」
 コーヒーを置くと、不動は小さな声でありがとうと言った。目の前の男が見知らぬ人間に見えて頭がぼんやりしてしまう。
 バラの花束が差し出された。
 冬花は受け取りはしたものの、手の中に抱えたそれをじっと見下ろし動けなかった。香りが先ほどよりも強く包み込む。
「監督には礼を言いに来た、こないだの。手土産と思ったんだけどよ、あんたら親子がアルコール好きかどうかも知らねえし、思いつくものがなくて。で、どうせあんたとも久しぶりに会うだろうと思って」
「バラ…」
「花が嫌いで見たくもないって奴は滅多にいないだろ」
「ありがとう」
 ようやくその一言が出た。
「お父さん、このところ具合が悪くって…。検査入院したの」
「こないだは元気そうだった」
「FFIの時の響木さんもそう。監督っていうのは、選手の前で弱いところを見せたくないのね、やっぱり」
「面会はできるのか」
「知らないふりをしてあげてください」
 そうか…、と呟き不動はコーヒーを飲んだ。
 冬花が自分のコーヒーに少し口をつけカップを置いたところで不動は立ち上がった。
「悪かった、忙しい時に」
「こちらこそ、ごめんなさい」
「さっきから謝ってばっかりだな」
 不動がちょっと笑うので、冬花も笑みを返した。
「監督には感謝してるって伝えてくれ。皮肉じゃねえって」
「ええ」
「俺が言うよりも娘のあんたに頼んだ方が信頼されるかもな」
「そんなこと…」
「今日なら監督にも、それにあんたもいるかと思って来たんだけど。円堂からメールが来たぜ。鬼道クン、俺のメアド勝手に教えてやがんの」
「守君から」
「週末忙しいんだろ、監督も入院じゃ大変だな」
 既に不動は靴を履こうとしていた。
「不動君」
 強く、呼んだ。
 不動は靴に足を突っ込もうとして止まり、ゆっくりと振り返った。
「私…守君と……」
「知ってる」
 いつもの皮肉な笑みではなかった。声そのものも硬く、事実を端的に吐き出したように聞こえた。
「私…」
 冬花はバラの花束を握り締める。
 一歩近づく。
 不動は一瞬の抑制の後、軽く冬花の肩に手をかけた。
 恐れるように瞼を閉じた。その先の光景を見ることを冬花は恐れた。
 廊下の暗がりの中で不動はどんな表情をしていたのだろうか。しかし触れる唇は優しく、一度そっと押しつけられて、離れた。
「あの時は悪かった」
 低い声が言った。
「お前が泣くのばっかり思い出した」
 花束が手から離れた。床に落ちたそれを、恐らくお互いに一歩ずつは踏みつけただろう。裸足の足の裏に、花弁を踏みつける柔らかな感触があった。
 冬花は不動の首に両手をまわし、離さなかった。十七の夏、インターハイ優勝の後部室で交わしたキスのように、離れる時間が惜しく、とにかく触れていたかった。不動の腕は力強く自分の腰を抱いていた。時々、押される力に、後頭部が壁にぶつかった。
「不動君…」
 声が震えているのが分かった。それでも言葉を、声を出さずにはいられない衝動が冬花を捕らえていた。
「私、あの時…」
「お前が赦してくれた」
「一度だけ…」
 冬花はつかえる声をどうにか押し出す。
「ねえ、この一度だけで私たち、あの時のことを…」
「お前が赦してくれたんだ」
「清算、できるの」
「冬花!」
 強く肩を掴まれた。不動の目は恐くはなかった。ただその表情はひどく苦しげに歪められていた。
「あれで終わったんだよ、俺たちは」
 冬花の喉からは音を立てて息が漏れる。
「あれからお前に何があったか知らねえよ。円堂の話は俺も驚いた。でも、お前も驚くぜ? 俺は今、男と一緒に暮らしてる。お前も昔、話は聞いただろ。デモーニオ・ストラーダ、影山が探してきたニセ鬼道だよ」
「不動君…?」
「男とよろしくやってる訳」
 な、気持ち悪いだろ、と不動のよく見せる皮肉めいた笑いが浮かぶ。
「だから、さっきのは悪かったな」
「嘘、でしょう?」
「何なら触ってみるか。悪いけどお前の手じゃ勃ちゃしないぜ」
 平手を不動は避けなかった。
 乾いた音の後、冬花は自分のしたことが信じられず、勢いでわずかに逸れた不動の顔と自分の手を見つめた。
 暗がりの中で不動はにやにやと嗤っていた。それは嘲笑だった。
「…出て行って、ください」
 声の震えを抑え、冬花はようやく言った。
「お望み通り」
 不動の湿った囁き声が耳元を掠める。冬花はじっと足下を見つめ動かなかった。
 靴が玄関のコンクリートで擦れるかすかな音。
 ドアが開く。外から入り込む光は、先ほどの輝きを失っている。足下には不動の影の先が伸びていた。もう少しで裸足の指先に触れるそれはひどく現実的で、暗く冷たかった。
 不動は何も言わずドアを閉めた。
 ドアが閉まった後も冬花は泣かなかった。涙もこぼさなかった。ただ心臓の鼓動がおさまるまで佇んだ。
 溜息でなく、ただ息を一つ吐くと冬花はしゃがみ込んだ。踏みしだかれたバラを拾って、台所のゴミ箱に捨てた。花に罪はない。それは分かっていた。しかし踏みしだかれた赤い花弁は、もはや枯れたものと同じだった。
 足の裏が痛んだ。冬花は片足立ちで明かりを点け床に座ると、刺さった棘をピンセットで抜いた。
 ベランダの向こうの空は夏の宵の、鮮やかな紺青が広がっていた。



2011.4.1