20代編2
夜も遅い時間の電話だった。 冬花は何故か何も考えずに受話器を取った。 それは今日の心配事が一段落した後のことだったからかもしれない。大学を休んで父の病院について行き、揃って帰宅したのは夕方過ぎだった。それから食事の用意、風呂と済ませて、ようやく洗濯まで終わったところだ。 リビングが洗濯物でいっぱいになってしまうのは、梅雨時では仕方がない。父もキッチンに避難してきていて、帰りに買った本を読んでいた。 電話は3コール目に入っていた。冬花は、はいはい、と返事しながら洗濯かごを置きぱたぱたと電話に近寄った。 「もしもし」 受話器の向こうには不思議な静けさが満ちていた。 『……久遠道也は』 遠くからその声が届いた瞬間、誰の声なのか冬花にはすぐに分かった。背筋に痺れが生まれ、手が冷たくなる。 ぎゅっと受話器を握りしめ、落ち着いて言った。 「どなたですか」 沈黙は距離的なものだろうか。遠い静けさが互いの受話器の間を流れる。 『不動、明王』 相手に名前を呼ばれる前に耳から受話器を外した。 「お父さん」 振り返ると、父は既に本から顔を上げこちらを向いていた。 「国際電話」 冬花は子機を差し出し、リビングに戻った。もう洗濯ものは全て干し終えていたが、改めて一枚一枚のしわを伸ばすように触った。 父から呼ばれた時は夢から覚めたような心地だった。 「…コーヒーを淹れてくれ」 電話はキッチンテーブルの上で沈黙していた。 冬花は電話を元の場所に戻すとコンロに向かった。ポットがもう空だったのでヤカンで湯を沸かした。 コーヒーを淹れながら不意に思い出し 「眠れる?」 と尋ねた。 「休養が必要だって…」 「長期的な休養だ」 「長期だって毎日の連続だわ」 それでも淹れたコーヒーを出した。 久遠は一口飲み、低い溜息をついた。 「どんな電話だったの?」 さりげなく尋ねたが、父はこちらをじっと見つめた。揺れぬよう努める内心を悟られぬよう、冬花は自分のコーヒーに口をつけた。 「向こうの知己が現場を引退するらしい」 「スペインの、あのチームに?」 久遠は頷いた。 イナズマジャパン初代監督を務めた後、久遠はあまり派手な舞台には出ないものの、若手選手の育成に尽力してきた。自分が関わった選手たちの未来だけでなく、FFIで知り合った各国との人脈も活かし、ネットワークを広げている。 だから当時直接の対戦はなかったスペインにも知り合いがいることは驚くことではなかったが、いつもメールを主な通信手段にする父が電話でその報せを聞くのは常にないことだったし、それを伝えてきたのが本人ではなく不動明王だということに冬花は不思議を感じずにはいられない。 「不動は」 父の声に冬花はハッとした。 「今年の夏は帰国するそうだ」 「…そう」 努めて気に掛けないようにしていたが、不動の帰国は冬花の知る限り初めてのことだ。 「会って話をしたいと言われた。来るか?」 待つような視線を横顔に感じて、冬花はなんとか微笑を浮かべ振り向いた。 「…どうして?」 本当に不思議そうな声で答える。それが自分にもあまりに突き放して聞こえたので、言葉を継いだ。 「スペインリーグだって真面目に見てないんだもの。話が合わないわ」 父が先に就寝した。 冬花は洗濯物の並ぶリビングに除湿をかけ、もう一度キッチンに戻った。シンクにコーヒーカップが二つ。底に茶色の輪が残っている。 ぼんやりした手つきで水を流し洗い物の隣に並べたが、水道から水は流れっぱなしで冬花はそこに両手を浸したまま、目を瞑った。 今でも胸に痛みが起こる、これが想いの深さなのか、女としての性格なのか彼女には判断がつかなかった。 会うのを反射的に拒んだのは、不動がスペインに発つ直前の記憶が一気に思い出されたからだ。彼とは一年以上、それなりに心は穏やかで満ち足りた日々を過ごしたというのに、今不動と言って思い出すのは十七の夏だ。 夏の匂いのこもった部室の空気が鼻を掠める。既に初心でもないのに、あの時不動に胸を触られたことを思い出すと切なくなるものを感じる。流水の冷たさで心を引き留めておかないと、記憶の中に陥りそうで恐ろしい。それでも記憶が溢れ出るのを止められない。 不動、明王。 遠くから響いた冷たい声は自分の名を呼ばなかった。冬花が呼ばせなかったが、相手も久しぶりの言葉一つかけるではなかった。 ああ、それよりも先に自分が知らぬふりをしたのだ。 水を止めた。このまま流していると水音に甘えて泣き出しそうだった。蛍光灯の下で濡れた両手を見下ろし冬花は、破れてもなお終幕の降りない恋を思った。 父の外出先にいつも注意している訳ではないから、既に父と不動が会っていたことにも、まして不動が帰国していたことにも気づかなかった。 「昨日、会った」 出し抜けに言われたが、冬花には父が誰のことを言っているのかすぐに分かった。 そう、と軽く返事をしてベランダの洗濯物を取り込んだ。数日前に梅雨が明け、今日も気持ちのよい夏空が広がっていた。干したのは午後になってからだが、もう十分乾いている。 「愛媛には数日しか戻らないそうだ。今週はずっと東京にいると言っていた」 ふうん、とかそういう返事を返して、よそよそしくするでもなく、話題を変えるでもなく、父の話すにまかせる。しかし父も無口な人だから、知り得た事実を述べた後は黙ってしまった。 夜、意外なところからも不動帰国の話は入った。携帯電話に入ったメールは円堂からで、彼は鬼道から話を聞いたらしい。ごく素直に「またサッカーしたいな!」と書かれていて、冬花は「そうだね」という短い返事の後に笑顔の絵文字をつけて返信した。 自分が男に生まれてサッカー選手だったら、というのは何度か考えたことのある夢想だった。それならば高校で再会してから不動がスペインへ行くまでも、いや行った後だって友情を繋げられただろう。 今フィジカルコーチを目指して大学で学んでいるのはマネージャーとしての仕事が面白く、やり甲斐もあると冬花自身が感じたその延長線上にあるが、例えばここで一人前のフィジコになったとしてスペインに渡って不動に会いに行くとは考えたことがなかった。大学進学に関して冬花は、不動の思い出と自分の人生を分けて考えることができた。それに、円堂守がいた。 祖父の円堂大介が海外へ渡ったのは魔手から逃げるためだったが、円堂は自ら進んで海を越えた。 時々あの特徴的な字で絵葉書が届いて、異なる空の下でも彼が元気なのだと知ることができたのだけれども、円堂は日本を飛び出した時と同じくらい唐突に冬花の目の前に現れた。十代最後の春のことだ。 以降、付き合っている。 先日不動のことを終幕の降りない恋だと思ったのは、あまりにも彼との思い出が強烈であるが故の感傷なのだろう。実際、円堂からのメールを見ると微笑みが浮かんでくるし、不動が今東京にいてそれに円堂が会いたいと素朴な言葉を漏らすのも痛みや心の揺らぎをもたらさなかった。 思い立って円堂に電話をかける。 「メール見たわ。昨日はお父さんが会ったんですって」 『へえ。冬っぺは?』 「私、大学に行ってたし」 嘘ではない。 「守君は?」 『鬼道が週末にもう一度会うって言うから一緒に会うよ。冬っぺも来ないか?』 「えーっと、週末…」 ベッドに転がり、スケジュール帳を探すような間を作る。 「あ、駄目。ボランティアの予定が入ってる」 『そっかー、残念だな』 円堂の声には屈託がなく、冬花は嘘をついた罪悪感よりも彼の声の明るさやあたたかさに救われる気持ちでその声に身を委ねた。 急に蒸し暑くなり、冬花が妙な胸騒ぎに講義中に携帯電話を覗くと父の携帯から何度も着信があった。最新の着信履歴は病院からだった。サイレントにしていたので気づかなかったのだ。 父が倒れた。 急に気温が上がったのに身体がついていかなかったらしい。ベッドの上で目は覚ましていたが、顔が青かった。 医師は、言い方は悪いがいい機会だ、と言ってそのまま検査入院させた。病院と自宅マンションを往復して着替えや必要な品を届け、帰宅し息をつけたのは日没時だ。 夕立が止んで空全体がピンク色に染まっていた。夕焼けが雲と空に呑まれてコンクリートとアスファルトの街にも染み渡る。全てのものが手触り優しく見え、冬花は汗に濡れた服を着替えることも思わず、しばらくリビングからベランダの向こうを眺めていた。 チャイムが鳴った。 現実的な音ではなかった。遠い彼方から響くような、膜を通して聞くような音だった。 冬花は開いたドアを振り返り、一足早い廊下の夕闇の向こうに目をこらした。そんな自分の仕草さえ現実的には感じられなかった。 裸足の足が廊下を踏む。足の甲にわずかにサンダルの跡が残っている。そのことを、見下ろしてもいないのに気づく。 玄関のドアに両手を添え、魚眼レンズから外を見た。 バラの花束を提げた不動が立っている。 「夢かもしれないわ」 遠い場所で自分の声が呟いた。
2011.3.30
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