20代編1
手の下に柔らかな胸の感触がある。身体が熱く、頭の中が真っ白になった。 甘い香りが全身を包んでいた。 懐かしい幸福感と共に、不動は白い胸に顔をうずめた。 汗ばんだ胸。頬にレースの感触がある。 今度こそ本当に彼女を手に入れたのだろうか。 半ば期待し、半ば恐れながら顔を上げると、冬花が柔らかく微笑んでいる。 「赦すわ」 冬花は囁く。 その声に誘われるように胸にキスを落とした。 が、その瞬間、あの泣き声が頭上から聞こえてきて、血管に冷たい水を流し込まれたような感覚が走り抜ける。 不動は顔を歪めた。 目を覚ませ、いつもの夢だ。 こうなると冬花を泣きやませる術を、不動は持っていない。 魂だけ先に目覚めたように身体が重い。悪態を吐きながら起きようとすると腰に絡みつく腕が邪魔した。 「おい」 不動は背中に寄り添う身体を踵で蹴った。 「起きろ」 「早いよ」 「どけ、重い」 いつもなら大して重くもない腕だが、今は煩わしい。掴んでどかそうとすると、腕はするりと不動の下半身に絡みつき品なく笑った。 「今日も元気だ」 「うるせ。死ね」 しかし手が下着の中に入り込んでくるのは抗わない。その方が簡単だったのだ。 身体だけが先行して昂る。手指の動きは繊細で、男の手というより優しげに不動を撫でた。夢のあわいから抜けきれない身体に引きずられ自分の心まで勘違いをしそうになる。 「おい」 ぞんざいに呼んで身体を起こし、相手を腕の下に敷いた。 「おはよう、アキオ」 淡いブラウンの瞳が自分を見上げる。 デモーニオ・ストラーダは濡れた指で不動の頬に触れようとした。不動はそれをベッドの上にぬい留め、相手の下着をずらす。 「待てよ、練習に響く。口でしてやるから…」 言いかけるデモーニオの口をキスで塞ぐ。 散々蹂躙した後、浅く息をつくのを見下ろし唇を舐め、野獣的な笑みを浮かべた。 「足閉じてろ」 デモーニオ・ストラーダ。 チームメイト、兼ルームメイト。 恋人ではない。 思ってもみなかった再会は、がむしゃらに過ぎたスペインに渡っての最初の一年が終わる頃の話だ。 リーグ開幕前の七月、不動をこの異国の地まで連れてきたスカウトマンが新たな戦力として連れてきたのがデモーニオだった。 今でも鬼道とどこか似通った風采の彼に不動は驚いたが、あちら側はもちろんこのチームに不動明王がいることは存じていたらしい。久しぶり、と手を差し出された。 「よう、ニセ鬼道」 相応しいとは思えない軽口は思わず不動の口をつき、デモーニオは一瞬目つきを鋭くした。握手に意図的な力がこもった。 「あの時は世話になったな」 しかしデモーニオはそう言うと、もう笑顔を取り戻し、これからよろしく、と不動の肩を叩いた。 知り合いも増えてきたとは言え、見知った顔に会うのは不動もそれなりに懐かしくて、その夜早速デモーニオのアパートに押しかけた。彼の部屋は隣の地区だった。夕飯と一緒に話を聞くと、家賃は不動の部屋と同額だがどうみてもこちらの部屋の方が良い。 それからちょくちょく入り浸るようになり、最終的には住み着いた。 ちなみにデモーニオは不動が自分のアパートを引き払ってきたと報告すると、こんな反応を見せた。 「え? まだだったのか?」 そして鼻で笑ったのだ。 「トロいな」 不動は黙ってテーブルの下でデモーニオの足を蹴った。 セックスをするようになったのはいつからだったか。 その頃にはデモーニオを見ても鬼道を思い出すこともなく、彼を個人として見ることができるようになっていた。いっそ、鬼道という引っかかりがあれば、こんな関係にはならなかったかもしれない。 喧嘩がきっかけだった。 お互いストレスの少ない同居生活を進めるためにもプライベートには干渉しないという不文律が存在していたが、不動が部屋に女を連れ込んだ何度目かにデモーニオは堪えかねたとばかり怒りだし、女を放り出して不動と掴み合いの喧嘩をした。 翌朝にはお互い裸で一つのベッドで目が覚めた。 興奮の延長線上に発生したものであれ意外と相性がよかったので、不動は以来女遊びを控えて、大体デモーニオを相手にしている。 デモーニオがあっさり女役を引き受けたことに関しては追求したことはない。 お互い気分が合えばどちらかのベッドに裸で飛び込むし、デモーニオが嫌がればしつこくはせず街に出る。逆にデモーニオがその気になって不動が断ったことはないが。 だから今朝のそれは少々強引だった。デモーニオはスイッチを入れられてしまったのか、一緒に入ったシャワーの中でも何度もキスをねだった。不動はそれに応えながら頭の中にちらつく夢の残滓を追い出した。 「今日は先に帰っててくれ」 不動の髪をタオルで拭きながらデモーニオが言った。 「女か」 「お前じゃあるまいし。病院だ、馬鹿」 デモーニオはクラブでの管理とは別に、眼科の専門医にかかっている。 FFIの頃に受けた人体実験の副作用をデモーニオは一生背負うことになった。事件後、保護という扱いを受けた彼らは一人一人が精密検査を受けた。しかしデモーニオの受けた影響はチームメンバーの中では群を抜いている。 究極を目指し、オリジナルを超えようとしたのは影山の意志だったか、それとも自分のものだったのか、デモーニオはもう深くは考えていないらしい。 「力が欲しかったのは、ミスターKと一緒さ」 そして不動を見て笑う。 「サッカーをしたい気持ちはお前と同じ」 肉体を酷使さえしなければ日常生活を過ごすのに支障はないらしい。事実、最初はリハビリに勤しんでいた。それでも安穏とした人生を擲ってもサッカーをしたかった、とデモーニオは言う。選手生命が他よりも短いことは覚悟の上で、故郷を離れてボールを蹴る。 不動がちらりと振り向くと 「定期検診だ」 馬鹿、と付け加えて小さなキスが降った。 その年はカップ戦の決勝に絡めなかったので六月頭にはシーズンが終わってしまった。 それと同時に、内臓を悪くしていたスカウトマンの引退が知らされた。 小さなパーティーが催された。 アルコールは控えめのはずだったが、老スカウトマンは結局顔を真っ赤にさせてグラスの中身を乾す。おそらく楽しくなければ人生など意味がないと骨の髄から知っているのだろう。 不動はスカウトマンに引っ張られてきた中では一番古参の選手と話しながら飲んでいた。デモーニオは随分離れたところでイタリア系同士で話している。 大きく話の輪のできていたところが崩れ、スカウトマンが杖をつきながらやって来た。隣のベテランMFは両手を広げて老人を迎え両頬にキスをした。 二人が話しをするのを聞きながら不動は飲んでいたのだが、ふと気づくとテーブルにはスカウトマンと二人になっている。 「楽しんでるかね、ラッキーボーイ」 「あんたは楽しそうだ」 「サッカーと結婚してできた子ども達とパーティーをしている気分だ」 独身を貫いた男は言う。 「孫じゃねえの?」 不動が憎まれ口を叩くと、なるほど、と男は眉を上げた。 「お前やデモーニオは、もう孫かもしれんな」 では孫よ、とっておきの話をしてやろう、と手が招く。老いた男は不動よりもわずかに背が低い。不動はすこし背をかがめた。 老スカウトマンは秘密めかして言った。 「このチームが下位争いの泥沼で足掻いていた頃、私は各方面に手紙を出した。その時、お前を推薦してくれたのがクドウだったよ」 クドウ、という響きに一瞬冬花の顔が浮かんだ。 「イナズマジャパンの初代監督、久遠道也だ。お前はただのカンフル剤じゃない。チームの実力を見極め、更に高みを信じ、そこへ引き上げることのできる男だとね。彼はあの時既にお前のことを少年と呼ばなかった。一人の選手として扱っていたぞ」 不動が顔に驚きを貼り付けたままだからか、老スカウトマンは優しく不動の背中を叩いた。 「クドウには感謝するといい。勿論、その百倍、私に感謝してくれてもいいがね」 「…ムチャス・グラーシアス、おっさん」 その場を飛び出したくなるのを堪え、それを誤魔化すために不動は老人の背を抱き素直な感謝の言葉を口にした。 「デ・ナーダ、私の息子」 思わぬ涙声が耳に飛び込み、心はこの場に繋ぎとめられた。 帰宅すると部屋に飛び込み、翌朝まで出なかった。 不動は電話を目の前に睨みつけていた。 まさか自分と冬花を別れさせるために推薦した訳ではないだろう。監督の久遠道也という男はサッカーに関しては実にシビアで私情を挟む余地のない判断をする人間だったはずだ。 しかしその久遠道也が冬花の父親であるということは無視できない事実だった。 スペインへ渡ってからの日々は辛苦も多かれど、不動にとって充実していたし実りある日々だった。 サッカーがしたい。 もっと大舞台で、あの勝利を味わいたい。 その夢を現実に叶えるべく不動は自身にもチームにも要求し続けてきた。そう、久遠道也が見抜いた通りだ。 サッカー。 悔いはない。あの日の決断を悔いてはいない。冬花を泣かせたことさえ。 ノックの音。 デモーニオが小声で呼んでいる。誘われている。 しかし不動は沈黙を守ったまま、デモーニオの気配がドアの前から立ち去るのを待った。暗い部屋の中、ものの輪郭も見えず、手の中の携帯電話だけが確かな感触だった。
2011.3.29
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