高校編4







 夏の大会優勝後、ようやく冬花にキスをすることができた。
 二人きりの部室で抱きしめられるままに不動に身を委ねている冬花は優しく微笑んでいて、深い色をした瞳にも赤くなった頬にも全て光のようなものが満ちていた。それが喜びであり、自分が与え得たものだと自覚すると、不動はたまらず抱きしめる腕に力を込める。
 より密着した身体に心臓の鼓動が伝わった。
 汗の匂い、触れ合った皮膚の熱さ。
 もう、嫌か、とは尋ねなかった。冬花は自然と瞼を閉じ、不動もその頬に手を寄せて、落ち着いて間違えず彼女の唇に自分のそれを重ねることができた。鼻息が頬をくすぐる。それが耳に届くといやに恥ずかしくなってしまいまた唇を離すが、もう、少しの時間だって離れたくはなかった。
 二人は何度もキスを繰り返し、不動は柔らかな冬花の唇をそっと噛んで、今までに感じたことのない快楽に身を震わせた。冬花はなおのこと、震える吐息で不動の名前を呼んだ。
 部室を出るころには汗だくになってしまったが不快感はなかった。あるのは純粋な喜びと相手への愛しさだった。不動はとうとう手に入れたそれに、堪らず「好きだ」と囁いた。部室の扉を開けざまのことだった。
 後ろから冬花の手が伸びて扉を閉めると、彼女は自分から不動にキスをした。
「ありがとう」
 冬花は言った。
「私も大好きよ、不動君」
 もう一度抱きしめ、相手の頭に頬をすりつけた。
 冬花はもう一度囁いた。
「好き」
 それは不動の耳に直接吹き込まれ、不動の身体を内部から震わせた。
 だから思わず、不動は言ってしまったのだった。
「大切にする」
 唾を飲み込み、熱い息を吐く。
「お前のことは俺が守る」
 かつて何一つ守れず、関係を作り出すということを不得手としてきた不動にとって、それは決意ともいえる言葉だった。
 冬花はそれに応えるように不動の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
 インターハイの優勝。サッカーをする喜び。冬花。全てが不動の手の中にあった。彼は恐怖さえ感じなかった。自分が発した言葉は未来への道しるべだった。冬花をそこへ連れて行く。口にするのは恥ずかしいが、自分が切り開いた幸せな未来へ。
 若さ故とは思わなかった。誰しもそうだろう。若さとは、その時には気づかれないものである。
 不動には過去の傷があった。傷と、痛みと、暗い闇とを知るからこそ、今度こそ自分が好きになった相手を、意志をもって幸せにすると、できると信じたのだ。
 部室を出た二人は夏空の下を並んで歩いた。手の甲が触れ、指先が絡んだ。不動は冬花を見下ろし、冬花は不動を見上げた。二人は手を繋いだ。手を繋いだ不動が笑ったので、冬花もまるで泣き出しそうなくらい微笑んだ。

 オファーは、それから一週間と経たず不動の元へ届けられた。
 学長室に呼び出された不動は、今更後ろ暗いことはないがと思いつつも警戒しながらそこへ向かった。高校に入ってからの私生活は、それまでと比べて全く大人しいものだったが、今でも権威ある者の前に出る時は警戒心を持たずにはいられない。
 部屋には学長とサッカー部の顧問、監督、そして外国人が二人。
 背筋がびりりと痺れた。
 これはもしや、という予想は数分後には現実のものとなった。男はスペインからの使者だった。
 不動はひたすら沈黙し、大人達の言葉を聞いた。これが本当に現実的な話か。本当に不動の力が評価され、それを求められているということを納得するまで口を噤んでじっと聞き入った。
 返事はすぐにとは言われなかった。不動はまだ十七だ。独り暮らしにすっかり慣れてしまっているが、愛媛には両親もいるのである。まだ、自分の力で全てを決定することはできない、未成年。
 不動は内心で驚く。俺はまだ大人になっていなかったのか。
 学長室を辞しても、不動はこれが現実なのだと一歩一歩踏みしめるように歩いた。まるでどこかに落とし穴があるのではと疑うように。
 夏休み前でどこの教室からもはしゃいだ声が聞こえる。1組の教室の前を通ると誰かが教えたのか冬花が追いかけてきた。
「不動君」
 その声に不動は自分が抱えているもう一つの現実にようやく思い当たった。
「珍しいね、こっちに来るの」
 しかし不動は偶々学長室の帰りなのだと本当のことを言わなかった。
「顔、見に来た」
「ええー、本当?」
 冬花は恥ずかしそうに笑い、何の用?、とはにかみながら尋ねる。
「だから顔見に来ただけだって」
「えっ、本当にそれだけ?」
 スペインからの使者。自分の力が必要だと、相手は通訳が喋っている間もじっと不動の目を見つめていた。
 サッカー。サッカーがしたい。
 冬花の髪をちょっと撫でた。
「また帰りにな」
 うん、と可愛い返事。
 その後、不動は授業そっちのけで考え続けた。
 きっと、たった一人の渡欧になる。独りにはなれている。そこは問題ではない。問題なのは、ほんの一週間前、守ると誓った冬花のことだ。
 一緒に連れて行く…、というのはあまりにも夢見がちな空想だと不動にはよく解っていた。家族を持ち、それを守ることの厳しさを目の当たりにしてきたのだから。
 まして十七歳。
 結婚は、と考えてそういえば冬花は女だからもう結婚できる齢なのだと驚いた。大人になるのは女の方が早いのか。
 たとえ自分が結婚できる齢だったにしろ連れて行けるか、という話だった。
 不動は両親を思った。父は騙され借金を背負わされた弱い人間だと思ってきた。だから母は彼を否定したし、自分も家から離れていった。それでも父親は決して離婚しようとしなかったし、実質親の手を離れてしまった不動の父親であることを書類の上だけでもやめようとしなかった。
 俺の覚悟は、と不動は思う。
 俺はどうすることで冬花を守れるのだろうか。
 スペイン行きの話をすれば、冬花は最初きっと喜んでくれる。我がことのように喜んで、すごいと言って褒めてくれるだろう。それから不動が独り旅立つことを聞いて、どうするだろうか。
 行かないで、とか。不動は考えた。言わないんだろうな。人を困らせたりしない、冬花は。
 別れることになるのか、と思考を言葉にした瞬間、肉体的な痛みさえ感じた。固く目を閉じていると教師のチョークが飛んだ。それさえこそばゆく感じるほど、別れの痛みは心臓まで貫いた。
 それでも俺は。
 不動は目を開く。
 俺はサッカーがやりたい。

 二人きりの部室で正面から向かい合った。不動は学長室での話を淡々と伝えた。冬花は表情を変えず、不動の話を聞いていた。予想したように、はしゃいだり、手を叩いて喜ぶこともなかった。
 話し終えるとしんとした沈黙が部室に降りた。
 冬花は何も言わない。不動の顔をじっと見つめ、更に言葉を待っているようだった。
 波ガラスの向こうにはまだ明るい夏の夕暮れが広がっているはずだが、屋内の影は濃くなっていた。冬花の表情も濃い青の絵の具で描いたように暗い。唇が、開く。
「一緒に行こうって、言ってくれないの…?」
 その言葉に不動が面食らった。
 冬花は言葉を発するのと一緒に急に涙の盛り上がってきた目を伏せ、指で目尻を拭った。
「行っちゃうんでしょ、不動君」
「返事は…」
「でも、もう決めてるんでしょう?」
 冬花の瞳は不動を責めそうになるのを必死で堪えているように見えた。張りつめ、油断すると涙が溢れてくるのだった。
「連れて、って、お前……」
「現実的じゃないことくらい分かってる。でも、不動君ならそう言ってくれるんじゃないかって、私…」
 涙はとうとう目の縁から零れだし柔らかな頬を次々に伝い落ちた。
「…思ってて。そしたら、私、いっしょ、に……」
 それ以上言わせまいと不動が抱きしめようとするのを、冬花は腕を伸ばして突っぱねる。
「冬花…!」
「本当は、私っ」
 冬花は泣きながら言った。
「よかったねって、すごいねって言いたくて、不動君がサッカーできるの、自分のことみたいに喜びたいの。なのに、ワガママ、止まらなくて。だって、私……」
 両手を掴んで無理矢理抱き寄せるのを、冬花は最後まで抵抗した。キスも、固く唇を引き結び、歯をくいしばっていた。
 不動は噛みつくキスを首筋に移した。
 聞いたことのない掠れた声が冬花の口から漏れた。
 ぐっと押すと冬花の身体は簡単によろめいて壁際に追いつめられた。不動は両腕を押さえつけたまま冬花を見た。涙に濡れた瞳が不動を見上げた。そこにあるのは嫌悪ではなく深い哀しみだった。
 ブラウスの胸元に不動は噛みついた。引きちぎるとボタンが飛んで、床の上に跳ねた。
 胸元がはだけた瞬間、香りが不動を包み込んだ。それは脳を直接包み込むような匂いだった。
 影は濃くなっているのに、ブラジャーの縁取りのレースの模様もよく見えた。
 不動は自分の息が上がっているのに気づいた。それは冬花も同様だったが、彼女のそれは恐怖に根ざした、大声で泣き出す直前の息の引きつりに聞こえた。
 胸元に視線を落とし、唾を飲み込む。小さな胸の谷間。柔らかな曲線。かつて自分に多幸感を与えたそれ。
 冬花はもう動けないでいる。手には押し返すような力はほとんどなかった。
 冬花。
 甘い香り。
 ブラジャーのレース。
 わずかに汗ばんだ胸のふくらみ。
 不動がゆっくりと手を離すと、冬花が驚いたように目を見開いた。
 不動君、と掠れた声が呼んだ。
 答えずに立ち去ろうとした。不動の望みは冬花を守ることだったのだ。幸せな未来を築く力があるのならば、そこへ冬花を連れて行くことだったのだ。理性が勝ったのではなかった。冬花が好きだった。泣き顔を見たくないと思い、優しい笑顔と言葉を欲しいと思った。
 冬花を手に入れたい。ずっと、ずっと笑顔のまま。
 冷静に努めようと意識をして大きく息を吐き、不動は一歩冬花から離れた。
 小さな声がした。冬花の喉の奥から、悲鳴を閉じこめたような声だった。
 白い腕が真っ直ぐに伸びて不動の頭を掴まえた。あまりに素早い仕草だったので、不動は避ける間もなく冬花の手に捕まえられた。
 一際強く香りが脳に飛び込んだ。顔の正面に柔らかいものが触れていた。レースの感触も。
 冬花、と呼べたのは心の中だけだった。
 冬花は強い力で闇雲に、不動の顔を自分の胸に向かって押しつけていた。
 柔らかな感触。冬花の匂い。心臓の音がすぐ耳元で聞こえる。
「ふ、ふどう、くん…」
 冬花の震える声が言った。
「私、不動君のこと、全部、赦す…」
 腕に力がこもり、不動の顔はいっそう胸に押しつけられた。
「赦すわ…」
 泣いている。涙が頭の上に落ちる。
 不動は冬花の胸の上で震える熱い息を吐いた。キスをすると、また不動の頭を痺れさせる甘い声が冬花の唇から漏れた。

          *

 渡欧の荷物は多くなかった。サッカーボールと、両親が餞別にと送ってくれたノートパソコン。大きなものはそれだけだ。
 冬花は見送りに来なかった。
 どうしても顔が見たいと思った。駄目もとでマンションに電話をすると、呼び出し音に待たされた末に冬花が出た。
「どうしてもお前の顔、見たい」
『今更、甘えちゃって…』
 既に涙声の冬花が笑いながら言った。
『もう駄目。時間がないわ』
「冬花」
 不動は覚悟を決め、口を開く。
「俺は……」
『言わないで!』
 強く、冬花は言った。
『どんな言葉でも、もう聞きたくないの…。私は不動君が好きだから…すきだから……』
 搭乗案内のアナウンスが流れる。
 不動は軽く目を瞑り、呼吸を整えた。
 冬花の優しさに報い得るものを、彼は何も持たなかった。
 残されたのは、ただ一言だった。
「ありがとう」
 電話口の向こうで冬花の泣き崩れる声が聞こえ、通話は急に途切れた。
 不動にとってこれが日本で過ごした十代の最後の夏であり、またその後何年も聞くことのない冬花の声だった。それは泣き声で、不動はそれを何度も思い出すのだった。



2011.3.27