高校編3
陽は暖かだが、風も空気も冷たい。その下で待ち続けていた冬花の手指もすっかりひえてしまっている。 「おかえりなさい」 冬花は囁き、不動の頬に触れた。ひやりとしていた。 不動の頬には試合の火照りが残っていた。彼女はそのぬくもりを取り入れようとするかのように、不動の頬に手を当てたまま軽く目を伏せた。 「勝ったね」 「おう」 「勝つのも、当たり前じゃないんだわ…」 冬花は唇を震わせた。 試合中、キャプテンが負傷退場した。相手側はレッドカードで一発退場。以降のチームメイトの気迫には鬼気迫るものがあった。冷静さをもってそれを見ていた不動も、しかし同じピッチの上に立ってそれを止めることはできなかった。 逆転とダメ押しの二点を奪い取った。 それでもロッカールームには勝利の喜びではなく、妙に重苦しい空気が漂っていた。キャプテンはそのまま病院に運ばれた。足首にヒビが入っていると報せが入るまで、誰一人その場を動かなかった。 「どうしたの…?」 冬花が見上げている。 「どうって、他の奴らと変わんねーよ」 「ううん、不動君……」 何かを言おうとするので、不動は頬に触れている手を取り柔く握り締めた。 「ベスト8だ」 「うん…」 「優勝するぜ?」 「うん」 手を繋いで歩いた。 本当は手を繋ぎたくはなかった。冬花の手を握ると安心する。穢れのないものに触れられるようで、いつか彼女の胸の柔らかさに与えられた幸福感より一層明るくあたたかいものに包まれる。だからこそ、だ。 チームメイトが義憤に駆られる中、不動は醒めた目で目の前の状況と、自分の中に湧いた濁った共感を見ていた。 自分もやらないとは言い切れない。かつては躊躇いなく、やった。 冬花は時々思い出話をする。不動は決してそれをしない。愛媛でのこと、真・帝国学園のこと、どちらも話したくない。知られたくない。 不動のラフプレーくらい冬花はあのFFIから見て知っているはずだが、それでもなお不動の中にはそういう気持ちがあった。 手を繋いでいると、自分の中の黒い濁りが感染りそうな妄想に駆られる。冬花を汚したくない半面、彼女の優しさで包まれたい欲求もあった。甘えなど、自分には似つかわしくないと思いながら。 「冬花」 呼べば、冬花は微笑んで自分を見上げる。 「もう少し歩くか」 こっくり頷くので、いつものバス停を素通りして、並木の整備された郊外の道を歩いた。 名前を呼んだ瞬間の優しげな頬笑み。互いの、わずかな胸の高鳴り。 夏休みのデート以来、冬花にはそのように触れたことはない。水族館の帰りの出来事だって冬花からのプレゼントだったから、キスをした記憶と言えば盆休み前の、いかにもけだもの的なあれっきりということになる。それは不動にも苦い。 しかし、その記憶を塗り替えられるようなものができる自信はなくて、不動はタイミングを逃し続けている。 もう半年だって経とうというのに。 バス停二つ分を歩いた。 今日はもう疲れてるでしょう、と冬花から言った。 並んでバスを待った。すぐにやってきて、呆気ないほどだった。 冬花が、また明日、と言いながらバスのステップに足をかけようとするのを不動は黙って見ていた。すると冬花が振り向き、時々見せる無表情に近い、悲しそうにも見える顔をした。 彼女の手は真っ直ぐ伸びて不動の手を掴んだ。 手を引かれるままバスに乗り込み、黙って座っていた。冬花が手を離さないのを幸いに、不動は手を握られた。 結局、マンションに到着するまで手は繋がれたままだった。 さすがに、と思い不動は手を離した。そのことに少し驚いたように冬花が見た。 「…悪かったな」 「どうして? 私が連れて来ちゃったのに」 「悪ぃ」 不動は一歩下がる。 「柄にもねえことした」 「なぁに、それ」 「甘えた」 それを聞いた冬花はくすくすと笑う。 「甘えたうちに入らないわよ、不動君」 「どうだか」 背を向けようとしたが、ねえ、という言葉に立ち止まった。手を引かれた訳でもない。優しい、ねえ、の一言で足は止まったのだった。 冬花は微笑み、道を空けるようにしてマンションの自動ドアを示す。 「夕ご飯、食べていかない?」 一度も入ったことのない冬花の家。このマンションの何階にあるのかも不動は知らない。だが、確実なことが一つだけある。 「お前の親父は?」 「勿論帰ってくるわ。だから、私が用意するの」 「俺たちの関係、知ってるのかよ」 冬花は軽く首を振る。 「秘密」 「…んな、わざわざ危険な」 「不動君なら、お父さんだって知ってるし」 「感づくんじゃねえの?」 「ご飯…食べるだけだもの。何も悪いことはしないわ」 自分がするとは思っていないのか、と不動は冬花の不用心さに少し呆れもし、冬花はそれだけ自分を信頼しているのだろうとも思った。 夏休みのあれを忘れてしまったのだろうか。 まさか。 冬花はちょっと困ったような顔になり、不動の顔を覗き込んだ。 「しないわよね…?」 毒気が抜かれた。 「しない」 不動は渋々笑い、冬花の頭を撫でた。 約束通り、何もしなかった。 冬花が料理をする傍らで野菜の皮むきなどを手伝い、サラダにミニトマトが入れられるのを止められず攻防をしているところで久遠が帰宅して、珍客に目を丸くした。 イナズマジャパンの監督であった久遠道也とは久方ぶりの再会だったが、存外話題に事欠くでなく、話は冬の大会と今日の試合のことで途切れなく続いた。 帰宅する際、玄関先に見送りに来たのは冬花だけだった。 久遠は「気をつけて帰れ」と一言リビングから投げて寄越しただけだった。 「お父さん、嬉しかったのよ」 冬花は言う。 「どこが」 不動の記憶する限り、相も変わらずの無表情と言うか仏頂面だったが。 「久しぶりに自分の選手と会えたんだもの。あんなに饒舌になって…」 サッカーの話題だから弾んだのではなかったのか。 「また、一緒にご飯食べよう」 「どうだろうな」 「だって、食堂より美味しいでしょう?」 不意に静かになった。不動は玄関から一歩外に出、ありがとな、と俯き加減に言った。 「また、明日ね」 「おう」 「バイバイ」 冬花た小さく手を振る。不動も軽く手を挙げてそれに応えた。 エレベーターの扉が閉まり、壁にもたれかかった不動は大きく溜息を吐いた。 手の中に残った冬花のぬくもりを逃がすまいとするように、強く拳を握った。
2011.3.23
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