高校編2
デートというものを改めてしたことがなかった。 そもそも不動にはいちゃつくという意識があまりない。久遠冬花もあまりベタベタしてこないから、美味い弁当を一緒に食べて、部活で顔を合わせて、帰りはバス停まで送っていくという関係は不動にとっても気楽で、満足だった。なんなら弁当だけでも十分に満足だ。そりゃあ、キスやそれ以上の関係に進展するのなら不動にとってそれは大いに歓迎するところだったが、付き合い始めた初日に断念して以来、試そうとしたことはない。 例えばデートに行くとして、と不動は考える。ぶっちゃけた話、内容はこの毎日とほぼ変わらないだろう。場所が学外になるだけだ。デートの醍醐味だという手作り弁当は春からずっと、ほぼ毎日食べている。デート、つまり関係が進展する以外にない。 では、これは付き合っているということになっているのだろうか。 そうこうしている内に夏休みが始まった。 しかし自分はサッカーのため、冬花は課外授業のために登校するので一学期の延長のような日々が続いた。 夏の空は明るい。日は沈んでも、その光が屋根の上に残っている。 バス停までの短い距離を並んで歩いた。金曜日だった。この週末から盆休みを含んで、ようやく二週間の休暇に入る。チームメイトの中にも大きなバッグを抱えて駅行きのバスに乗る者が多かった。しかし不動は寮に居残りだ。愛媛には、しばらく帰る予定はない。皆が違うバスに乗ってしまったため、ひと気のない別方向行きのバス停まで、二人で歩いた。 冬花は口数が少なかった。バス停にはすぐ到着し、不動が「じゃ」と軽い挨拶と共に別れようとすると、消え入りそうな声で言った。 「待って…」 「あ?」 立ち止まって振り返る。 冬花は下を向いてもじもじしていたが、不動に見つめられベンチに浅く腰かけた。すぐに話し出す様子がなかったので、不動もわずかに間を置いて隣に座った。 バス停の屋根の下はいやに暗いが、空気はまだまだ明るい。貼られた時刻表もはっきりと見える。次のバスまで十五分。郊外だ。本数は少ない。そうだな、バスが来るまで一緒に待ってやってもいい、と不動は思った。 「あの……」 蚊の鳴くような声で冬花が言った。 「不動君はドキドキしないんですか」 顔が真っ赤だった。膝の上で手を握りしめていた。 不動は何気なく答える。 「…だって、いつもどおりだろ」 「ひどい…」 冬花呟き、ううん、ずるい、と言い直す。 「何が?」 不動は思わず出た面白くない声を隠さず言った。 「だって…」 冬花は顔を伏せたまま、不動の視線から逃げるように視線を逸らす。 「私はいつもドキドキしているのに、不動君は涼しい顔で…。私はもっと喋りたいのに、一緒にいたいのに、今も、じゃ、っていつもどおりで……」 「いつもどおりじゃ悪いのかよ」 「明日から二週間お休みで…会えないんですよ?」 「会えなくはねーだろ」 「だって約束も何もしてないじゃないですか…!」 一層俯いた。肩が震えていた。さすがの不動にも、彼女が泣いているのが分かった。 「おい…冬花……」 「わ…わたしっ」 不動が惑って触れられない間に、冬花は両手で自分の肩を守るように抱く。 わたし、と涙声が繰り返した。 「不動君が名前を呼んでくれるだけでこんなに嬉しいのに…。私は不動君のことを好きになっちゃったのに……」 「す……」 不動は口ごもる。 好き、って……と冬花をまじまじと見つめる。 「本気かよ…」 「不動君が言ったんですよ、付き合おうって!」 ぱっと冬花の顔が上がり、激しい語調で不動に向かって言った。 涙はもうこぼれていた。ぽろぽろとこぼれて頬を伝うそれが恥ずかしかったのか、冬花はすぐに顔を覆おうとした。 不動は黙ってその手を押さえた。力を込めすぎたのは分かっていた。冬花は小さく、痛い、と呟き、眉根を寄せて自分を見ていた。 「怒ってるのか」 尋ねると、冬花は急に怒られたような顔になって目を伏せた。 「…怒ってません」 「怒れよ」 ベンチの背に身体を押し付け、有無を言わさず唇を重ねた。 歯がぶつかった。音は身体の中に直接響いた。 冬花の目は恐れるように固く閉じられている。不動は焦点のぼやける視界の中でそれを見つめた。上気した頬。涙の痕。ぎゅっと眉間に寄った皺。 唇を離すと、震える息が恐る恐る吐き出される。 不動は掴んだ手で、ベンチに押しつけていた身体を抱き寄せた。冬花は抗わない。 「怒れよ」 耳元で囁く。 「もう一度、するぞ」 冬花は目を伏せたまま震える声で、ひどい、と囁いただけだった。 今度はゆっくり近づいた。お互いの吐息が熱く耳元に響いた。 濡れた唇にキスをすると、冬花の震えが直接全身に伝わった。不動は更に冬花の身体を引き寄せた。制服を越して、柔らかな胸が触れる。 その時、不思議なほどの幸福感に包まれた。現金なことだが、同時に本当に愛しいと感じた。 冬花の身体はどこも柔らかく、そして細かった。それが腕の中にすっぽりと収まっている。腕に力を入れると、小さくうめく。両腕で抱きしめた。頭が白くなった。 唇を離しても腕をほどかなかった。冬花の涙がシャツの肩口に染みた。 「俺は…」 考えもないまま、不動は口に出す。 「こういうことしたいとか、お前以外に考えねーし…、お前可愛いし……」 「…守るって言ったのに…」 掠れた声で冬花が言った。 「不動君が…」 「お前としたかったんだよ。しょーがねーだろ」 なにそれ、と冬花が呟く。 「俺も我慢してたんだよ、お前が彼女になってから」 「私のせいなの…?」 「馬鹿。ケンカするつもりはないぜ?」 お前が嫌いになったら別だけど、と付け加えると、馬鹿ッ、と語気荒く言われた。 「そんなこと、無理よ…。だって不動君のこと、す、好き、なのに……」 「冬花」 呼ぶと、腕の中で彼女の身体がざわざわと震えるのを感じた。それは伝染して、不動の腹の奥にざわざわとした感情を呼び起こした。 不動は白い耳元に囁きかける。 「俺だってお前のことは好きだとか思ってんだ」 身体が熱くなった。どちらの熱かは、もう分からない。 「デートとか、するか」 屋根の向こうの空を見上げ、呟いた。デート、と冬花が繰り返した。 学校の周りの木立からは青蜩の声が懐かしく響く。 「ご希望をどうぞ」 「…不動君は、どこに行きたいの」 「分かんねーからお前に聞いてる」 「私も…したことない。デート」 角を曲がってバスの近づく音がする。 不動は腕をほどいた。冬花は自分で身体を引き、地面に落ちてしまったバッグを拾い上げた。 バスに乗り込む冬花に、不動は言った。 「電話しろよ」 「私から…?」 「携帯持ってないだろ」 うん、と頷いて冬花の姿は閉じたドアの向こうに消える。排ガスの匂いをかぎながら、まだ明るい空の下、バスを見送った。 盆を挟んで一週間後の金曜日、水族館に行った。水中回廊を通り、触れ合い水槽で本物の鮫に触り、イルカショーで水飛沫に濡れた。 少しだけ手を繋いで歩いた。 帰りのバスは隣同士に座り、マンションの前まで送っていった。 「今日はありがとう」 冬花は不動の肩に手を置いて軽く背伸びをする。鼻を髪のいい匂いと、イルカプールの水飛沫の匂いが掠める。頬に吐息がかかる。 柔らかい唇が触れたのは一瞬だった。 すぐに逃げだした冬花の手を掴むことはできなかった。指先が髪を掠った、それだけだった。冬花の後ろ姿はマンションの自動ドアの向こうに、そしてエレベーターの中に消えた。 不動は彼女がキスをした場所を押さえ、ああ、と溜息をついた。 俺からもするんだった。 足りなかった。キスも、喋ることも、側にいることも。 つまり好きなのだと、不動もようやく気づいたのだった。
2011.3.22
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