高校編1
乾いた嵐がグラウンドに砂埃を巻き上げる。その様子を吹きさらしの渡り廊下から見下ろす彼女のスカートの裾が舞い上がったので、思わず手で押さえた。 舞い上がった髪からかすかに掠めた女らしい匂い。そして振り返る、悲鳴さえ出せず怯えた目。深い色をした瞳がみるみる潤んで、今にも涙がこぼれそうになる。 再会の場面としては最悪のものだった。 しかし不動はこの再会を偶然のものと捉えていたし、そもそも彼女に好印象を持たれようと近づいた訳でもなかったから、割と怯まずその目を見返し 「行けよ」 と冷たく促した。 彼女はスカートの前を押さえたまま小走りに校舎まで駆ける。不動は途中までスカートの後ろを押さえていたが、最後の数歩は手が離れ、裾は校舎にぶつかって巻き上がる風にまた舞い上がった。 こうやってパンチラが見たければ、最初から手など出さなかったのだ。不動は気まぐれから伸びた手をポケットに突っ込み、後に続いて校舎に入る。強い風が直線的に吹き込むのをガラス扉で閉ざすと、急にあたりは静かになった。扉は時々風が当たって強く揺れた。 「あの…」 後ろからか細い声。 「不動君」 振り向き、彼女の名前を呼んでやる。 「久遠冬花」 「…覚えててくれたんですね」 「監督の娘だからな」 「あの…、同じ学校っていうこと知ってました。お父さんに聞いて」 「へえ」 「9組ですよね、スポーツ特待クラスの」 答えず背を向けると、私は1組です、と声がかけられた。 不動はちょっと振り向き、皮肉な笑いを浮かべた。 「特別進学クラスだな」 その日はそれっきりだった。 久遠冬花は、不動が風に舞い上がったスカートを押さえるかわりに尻の上に触ったことを何も言わなかったし、後で他の誰かから責められることもなかった。 不動の手には柔らかい感触が残り、彼は青少年らしくそれを使わせてもらおうと思ったが、いざ夜になるとあの柔らかい感触や髪の匂いの他に、自分をじっと見上げる潤んだ瞳も思い出され、それに見つめられた当時より罪悪感を感じさせられるので、結局未使用のままその感触は手のひらから消えた。 かつては代表チームで選手とマネージャーという繋がりがあり、今回も同じ学校だが、不動にとっては顔と名前を知っている女子という以上の認識はない。マンモス校だからこれっきりかもしれない、とも思っていた。 次に出会ったのは購買横の自動販売機が並ぶ廊下だ。 缶コーヒーのボタンを押したところで、不動君、と呼ばれた。 隣には弁当が入っているのだろうポーチ持った久遠冬花が小銭を手に並んでいた。 「よう」 冬花は隣の自動販売機に百円玉を入れ、カップのコーヒーを選ぶ。 「お昼、それだけですか?」 冬花は不動の手を見下ろしている。缶コーヒーと購買で買ったカロリーメイト。 「他に何か持ってるように見えるか?」 「いえ……、ただ、保つのかなって思ってしまって」 「余計なお世話だ」 「ここのサッカー部は、そんな体調管理の仕方じゃついていけませんよ」 言う、と思った。 関心は最初からほとんどなかったし、もう背を向ける寸前だったが、その言葉に不動は思わず敵愾心を剥き出しにして冬花を見た。 鋭く射抜く不動の視線に、不思議なことに冬花は物怖じせず視線を返した。再会した日の怯えた目が嘘のように、深い色の瞳が真っ直ぐと見返す。 「先日、マネージャーとして入部しました」 「マネージャーってのはいつから説教までするようになったんだ」 「不動君のことが心配なんです。とてもいい選手ですから」 持ち上げる言葉に反射的に警戒心が湧き、不動は口を噤んで冬花の仕草に目をこらす。 しかし彼女は、自動販売機からコーヒーを取り出しもせず、ただ真っ直ぐに立ち真っ直ぐに不動の目を見上げ、怯えのない声で言うのだ。 「二年前から不動君のサッカーは見てきましたから、体調や食事の管理が原因で全力を出せないのは惜しいと思うんです」 「ご親切にどうも。それじゃあ親切ついでにあんたが食事の世話でもしてくれるのか?」 「学食には行かないんですか?」 「一度行ってみろよ」 「行きました」 冬花は辺りをうかがうような顔になり、小声で早口に「美味しくないですね」と言った。 「日本代表の時ほど恵まれてねえってこった」 「あ…」 背を向けた不動に、冬花は慌てたような声をかける。 「あの時のご飯、美味しかったですか?」 不動は内心で舌打ちし、返事をしなかった。 更に冬花が言った。 「明日、またここに来てください」 約束ではなかった。冬花が一方的に言っただけだ。聞こえなかったと無視すればすむこと。だが冬花の言葉は確かに不動の耳に届いていて、それは消えない。 翌日、同じ場所に来たのは缶コーヒーとカロリーメイトを買うためだと言い聞かせた。 久遠冬花は不動が到着するより早く自動販売機の前で待っていた。 弁当を入れたポーチが、二つ。 ポケットの中で小銭を鳴らし、それに気を取られたふりをして近づく。 「不動君」 不動を呼ぶ冬花の声は屈託がない。 「お弁当を多く作りすぎたから、協力してくれると助かるんですけど」 「作りすぎて弁当箱二つ持ってくるのか?」 冬花は顔を赤くして俯く。 不動は自動販売機の前に立ち、言った。 「何がいい?」 「えっ」 「何が飲みたいか、きいてんだよ」 小さな声がコーヒー、と言った。 同じ缶コーヒーを二つ買った。 それから昼休みには、久遠冬花の作った弁当を二人で食べることになる。 他人の目につかない場所を、と思ったのは一瞬だけで、隠せば余計に目立つものだから、と人の多い中庭のベンチに並んで座り、食べた。校舎に囲まれた広い中庭は、植木の影など普通にカップルが座っていたりするから、不動と冬花が一緒にいても違和感はない。 予想はしていた通り、教室からその様子を見下ろしたクラスメートが二人の間を噂で広めた。不動は一度だけサッカー部の監督から呼び出され冬花との関係を尋ねられたが、正直に何もないと答えた。 夏の前には不動と冬花が付き合っているという噂は周知の事実のように変化してしまった。サッカー部内でもことあるごとにからかわれ、冬花は赤くなって否定するし、不動は黙って何も言わない。 七月七日、まだ梅雨の明けきらないその日も雨で、中庭のベンチは使えない。不動が少し遅れて行くと、吹きさらしの渡り廊下で弁当を二つ持った冬花が上級生に捕まっている。先輩マネージャーだ。 不穏な空気はすぐに感じてとれた。 「久遠!」 呼んだが、こちらを見たのは上級生だけで冬花は俯いている。 不動はずんずんと二人に近づくと冬花の手を引き、上級生の方は一顧だにせず、その場を後にした。 今度こそ、人目につかない場所を探した。そもそも人目につかない場所というのは誰でも考えつく順に先客がいるものなのだ。 屋外の非常階段が空いていたのは雨のせいだろう。しかし風がなく、しとしとと落ちるだけの雨は階段までもは濡らさなかった。冬花は小さくなって階段に腰掛けた。不動は校舎のドアを塞ぐように背でもたれかかり、立っていた。 「…もう無理して作らなくていいんだぜ」 出るのはその程度の言葉だった。慰めの言葉など浮かばない。そもそも、どうフォローしていいのか分からない。 冬花は俯いていた顔を上げる。 「無理はしてません」 「絡まれてたろ」 「私のことを注意されただけだから」 しかし冬花の肩はまだ緊張しているし、手は弁当のポーチを握りしめている。 不動はその手から自分の分の弁当を取り上げ、立ったまま蓋を開いた。そのまま器用に食べる。 「…行儀が悪いですよ」 冬花がちょっと笑い、自分の弁当も開いた。が、結局半分は残していた。 不動は手を出す。 「寄越せ」 冬花は蓋を閉じようとしていた手を止める。 「帰ったら捨てるんだろ」 からの弁当箱を返し、冬花が半分食べた残りを受け取った。 不動はそれに箸をつけようとし、思い出したように言った。 「いっそのこと、マジで付き合うか」 しばらくの沈黙の後、冬花が「え…」と儚く囁く。 「噂どおり本当に付き合うか?」 はっきりと尋ねると、冬花はわずかに眉根を寄せ、でも、と呟く。 「不動君が嫌なんじゃないですか?」 「別に」 「でも、付き合う、とか…」 「どうせ大したことしやしねえだろ。いつもどおり一緒に昼飯食うくらいで」 「でもサッカー部で不動君の立場が…」 「それこそ今と変わりやしねえよ」 「………」 冬花の瞳はじっと自分を見つめてくる。深い色の瞳に見つめられると、心の奥まで見透かされるような気分になる。だから白状した。 「ま、下心がないとは言わねえけど」 「下心、ですか」 「でもお前には弁当の借りがたまってるし、お前が彼女になりゃあさ、それなりに守ってやるよ」 「守る?」 「さっきみたいなのとか」 「女の世界は厳しいんですよ」 「だからそれなりにだよ。お前だってこの齢なんだから、いい加減自分のこと自分で何とかするだろ?」 冬花の目元の表情がほどけ、「あーあ」と呟き、彼女は少し笑った。 「…何だよ、あーあって」 「付き合おうとか言いながら自己責任を問うのは、不動君らしいと思って」 「このくらい当たり前だろ」 小さく冬花は首を振った。 「不動君は特別」 「じゃあ周りが生ぬるいんだ」 不動がそう言った後、冬花は口を噤んでしばらく考えているようだった。かるく俯き、目を伏せている。不動は残った半分の弁当に箸をつける。 さっさとからにしてしまった弁当箱を返すと、それを受け取った冬花は弁当箱を膝に乗せたまま、不動君、と呼んだ。 「私、不動君についていけるかな」 不動は目を逸らし、雨の向こうを見つめた。 「少しなら待ってやらなくもねえよ」 また、不動君、と呼ばれるので振り向いた。冬花は弁当箱を脇によけ、膝の上に両手を揃えて頭を下げた。 「よろしくお願いします」 「おいおい、取引じゃねえんだから」 笑うと、おかしいかな、と冬花は照れた。 「普通、こうなんじゃねーの」 しゃがみ込み、冬花の肩を掴む。手の中で彼女の身体はびくりと固まって、反射なのかわずかに身体を引く。目は見開いているが、口は真一文字に結んで、息を止めていた。 「……まだ早いか」 手を離すと、冬花は大きく息を吐き目を潤ませた。 ぬるくなってしまっていた缶コーヒーを手渡す。冬花は顔を赤くして、それに唇をつけていた。 存外照れるものだと、不動もコーヒーに口をつけながら顔を逸らした。
2011.3.21
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