プロローグ
マンションのエレベーターを七階で降り、かぐ匂いが冷たくない。懐かしい春の匂いだ。このまま暖かくなってくれればいいのに、と冬花は街を見下ろす。すぐ見下ろせる公園の木立は夜の闇に沈んでいるが、その向こうには街の灯がある。ネオンが季節によって色を変える訳ではないけれど、去年の春、そして一昨年の春とさかのぼってここから見た夜の景色を思い出し、冬花は誰のためでもなく微笑む。 玄関のドアに鍵を差し込み、開いた先は暗い。 明かりを点けながら、ただいま、と声をかける。玄関脇にかけられたアンティークの鏡に自分の横顔が映っている。 「ただいま」 習慣からの声ではなく、鏡の中の自分に声をかけた。声をかけるまで鏡の中の冬花は疲れたと言い出しそうな顔をしていた。だから微笑んで、声をかけたのだ。 暗くなってしまっているが、時間はまだ七時を前だ。しなければならないことがあるにしても、それをやり終えて休むだけの時間は十分にある。 冬花は手に提げた紙袋の中身を洗濯機にあけ、スイッチを入れる。父が入院するのは、本人も冬花も慣れてしまったことだけれども、こうやって父の着替えを洗濯する時になると妙にその不在が際だつ。下着、パジャマ、タオル。彼の普段着のシャツやズボンがその中にないのは寂しい。 入ったばかりの病室だから、ベッドの周りも殺風景だ。運び込んだのは本とノートパソコンだけ。仕事はそれでできるかもしれないが、白い壁に白いカーテン、白い天井に囲まれていては、ただでさえ笑わない父だから表情が固まってしまう。次に行く時は写真立て、と心にメモをする。 それから台所に戻ると、買い物袋の中身を冷蔵庫に仕舞った。タイムセールの卵。もう少しで中身が切れかけていたケチャップ。気まぐれに買ったアイスクリーム。しかし夕食になりそうなものも、取り敢えず全部冷蔵庫に入れてしまって、ヤカンに湯を沸かした。 時計を見ると七時を過ぎた。リビングのテレビをつけると、ここまでニュースの音声が流れてくる。最初は国会と予算のニュース。それから海外情勢。スポーツニュースはその後。冬花は横目にテレビを眺めながらようやくコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。 ほんの少ししか水を入れなかったヤカンはすぐにしゅんしゅん音を立てる。コーヒーを入れると、冬花は片手にそれをもったまま台所を歩き回った。 今日の夕食は何にしよう。簡単で、あたたかい料理がいい。 パスタ。買ったばかりのケチャップでナポリタン。手抜きだって構いはしない。今食べたいものが、それなのだから。 一息ついてから、とコーヒーに口をつけようとすると、電話が鳴った。家の電話だ。リビングで子機のボタンが光っている。冬花はコーヒーをキッチンテーブルに置いてリビングに向かう。 子機を取り上げながら、もう片手でテレビのリモコンを握り音量を下げる。 通話ボタン。軽い電子音。 「もしもし」 壁を隔てた向こうで砂の流れるような、かすかなノイズ。 距離を思わせる沈黙。 『不動明王だけど』 「不動君?」 冬花はリモコンを置くと、電話の向こうの彼の姿に思いを馳せるように斜め上を眺めながら応えた。 『忙しいか?』 「ううん、ちょうどよかった」 思わずこぼれる微笑みと共に答える。 「今、ちょうどコーヒーを淹れたところよ」 『俺もだ』 「ふふ。長電話する準備はできてるのね?」 『お前こそ』 「私のは偶然よ」 冬花は耳のピアスに触れながら目を細める。 「今、帰ってきたの。夕飯も食べてないんだから」 『…やっぱり邪魔したな』 「いいの。夕飯より話をしたいわ」 『食い気より色気か?』 不動はからかったつもりらしいが、冬花は余裕をもって答えた。 「あら、そうよ」 コーヒーを手に取り、一口つける。彼女の好きな香りが鼻先を漂い、それが声にも表れる。 「当たり前じゃない」 『じゃあ、まず何の話から聞きたい?』 「何から話してくれるの?」 視界の端で光るテレビはスポーツニュースに移っている。国内スポーツの後、彼の率いるチームがスペインのリーグでどのような勝利を収めたかが短く報道される。 『…今、どこにいる?』 「台所」 『おかえり』 少し遅れてキスの音。 「今更?」 『誰も言ってくれねえだろ』 「…ありがとう」 沈黙。小さな声で喋り続けるテレビ。 コーヒーの香りが鼻の奥から、頭の中の懐かしさを感じる部分をくすぐる。目の裏、耳の奥。喉の、多分声帯のあたりが震えて、冬花はひたひたと満ちる感情を思わずそのまま口に出しそうになる。 『なあ』 「あの」 『……なんだよ』 「そっちこそ」 不動は意外と強情を張らなかった。少し黙り、冬花が黙って聞いているのを感じ取ると、冬花、と彼女の名を呼んだ。 呼ばれた瞬間、冬花は肌の更に表面にぴりぴりと波のような痺れが走り、頭の頂点へ抜けてゆくのを感じる。声が震えないように丁寧に、なに、と尋ね返す。 『次に日本に帰った時、会えないか』 「いいわよ」 『…簡単に返事するんだな』 「断ってほしかった?」 『意地の悪いこと言うなよ。らしくねえ』 「私の気持ちは変わってないのよ」 冬花は眉を寄せ、顔の見えない彼に向かい叱るように微笑んでみせる。 「あなたのことが好きなんだもの」 初めて会ったあの日から三十年の月日が流れようとしていた。 冬花はコーヒーを置き、手で口を覆った。まるで少女のように顔は真っ赤に染まっていた。 電話の向こうから、不動はまた冬花の名を呼んだ。冬花は泣かないように堪えるのに懸命で、ただ頷いた。 不動は何度も冬花の名前を呼んだ。
2011.3.14
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