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モーニングコール/ミッドナイトコール
白い錠剤を二粒、冷たい水で流し込む。喉の奥に触れて落ちるのが分かる。 一ヶ月より早かった。血に濡れた下着とパジャマを洗って、食欲はないが無理にでもとバナナを半分、チョコを一かけら。それから薬。 生理不順は今に始まったことではない。放置してはいけないと分かっているけれども。冬花は軽く顔を伏せ、手で顔を覆う。これから車に乗って出勤しなければならないが、一日鈍痛に振り回されて仕事できないよりはマシだ。薬で痛みを止めて、それから仕事。 代表チームは本格的に動き出し、全てのスタッフが忙しく動き出している。若手だから、女だからという理由でチームのつまづきになるのは論外だ。ああ、あの十八歳の選手の捻挫、酷くないといいんだけど。それから、それから、と思い出す顔は幾つもある。やることはたくさんあって、自分には仕事をやり遂げたいという意志がある。 冬花は指の間から目を覗かせて、台所を眺めた。ピルを飲もうかと、何度目かに思った。 私もサッカーに関わる一人で、体調管理も仕事のひとつだもの。まして私はメディコなのだし。ああ、諺か何かでなかったかしら。緑川さんだったら詳しいかもね。紺屋の白袴じゃなくて…でも、多分似たような意味の言葉。 「何考えてるのかしら」 冬花は一人で笑った。苦笑にも近かった。 薬を飲んだ、という意識が少しだけ痛みを軽くした。 洗濯をした分、朝の時間をロスしていた。今すぐ準備をして出かけなければならない。冬花は台所を横切りバッグを取り上げる。ピルケースの中身を確かめ、携帯電話が入っているのを確認する。 しかし冬花の手は携帯電話を握ったまま、それをぐっと額に押し付けた。こんな朝は明王の声を聞きたいという思いが湧き上がるのだった。 今、夜中かしら。きっと眠っているわ。ああ、もう、電話をしてどうしようと言うのだろう。何を話すの?と冬花は自問する。お腹が痛いの、と東京からローマに助けを求めるのだろうか。明王とて何もできない。手を伸ばして撫でてくれる訳にもいかない。それに撫でられたところで、おさまる痛みでもないのだ。 「ああ、もう…」 冬花は呟く。 薬を飲んだのに!どうしてこんなにも心が落ち着かないのだろう。もう家を出なければ。父はとっくに出勤してしまっている。一人残された家の中は静寂で冬花を追い立てるようだった。 せっかくした化粧を落としてまで顔を洗うのは時間の無駄だし、それで気分がすっきりするとも思えない。とにかく、もう家を出るしかない。冬花はポケットに携帯電話を押し込んで歩き出した。 ヒールを履こうと玄関で屈みこんだ際、ポケットから携帯が飛び出し土間で硬い音を立てる。 「ああ…」 その朝もう何度目になるのか数えていない溜息をつき、冬花はそれを拾い上げた。角の塗装が剥げてしまった。息を吹きかけて埃を払う。それもまた溜息になり、冬花はしゃがみこんだ。 その時、手の中の携帯電話が音を立てて震えた。冬花は弾かれたように二つ折りのそれを開いた。 すぐに通話ボタンを押すことができなかったのは、そこに表示された名前が信じられなかったからだ。 だって都合がよすぎるじゃない! 冬花は恐る恐るボタンを押し、携帯を耳に当てる。 「もしもし…」 『おはよ。もしかして忙しかったかよ』 明王の声だ。今、真夜中のローマにいる、彼の。冬花はしどろもどろになりながら正直に答える。 「ええと…今から出るところ」 『だよな、悪かった』 「待って、待って明王君!」 冬花は思わず大声で呼び止めた。電話の向こうからびっくりした、という声が聞こえた。 『どうしたよ、慌てて』 「うん、ええと、その、…どうして電話くれたのかと思って」 そう尋ねる声が震えている。電話の向こうの明王は少し沈黙し――単に時差のせいだろうか――、泣いてんのかよ、と尋ねた。 尋ねられた瞬間に涙が溢れた。 「さ…っきまで、泣いて、なかったんだけど…」 『どうしたんだよ、俺のせいか?』 「うん」 冬花は頷いた。 「明王君の声聞いたら安心して、涙出ちゃった…」 『泣き声聞くために電話したんじゃねえんだけどなあ』 「じゃあ…何のため?」 『お前の声聞くためだよ』 そして明王は、元気か、と尋ねた。冬花はまだ涙をこぼしながら笑い「お腹が痛いの」と訴える。 『悪いもんでも食ったのかよ』 「生理痛ー」 『おいおい、俺にはどうしようもねーだろ』 ふふ、と冬花の口からは笑みがこぼれる。 「ごめんなさい。困らせちゃった…」 『……無理すんなよ』 「うん、仕事頑張る」 『じゃなくて聞いてんのかよ』 明王の真面目な声が聞こえる。 冬花は携帯にそっと顔をすり寄せ、聞いてます、と囁いた。 『無理すんじゃねーぞ』 「はい」 『お前から電話したっていいんだぜ?』 見透かされたようで心臓が跳ねた。明王は多分、電話の向こうで笑いながら言った。 『俺のこと起こしたっていいんだから』 また涙が溢れそうになったので冬花は大きく息を吸い、意識した声で「ありがとう」と言った。 「じゃあ、もう行くね」 『いってらっしゃい』 「明王君は、おやすみなさい」 『さんきゅ』 チュ、と小さな音が聞こえた。 冬花は赤くなり、どう応えればいいのか分からなかったので、軽く唇を触れさせた。 別に音はしない。すると沈黙の向こうで明王が笑った。 『チャオチャオ』 通話の切れた携帯電話を冬花は、すっかり赤くなった頬に押し当てた。 「チャオ、ですって」 イタリア人みたい、と笑いながら溜息をつく。 携帯電話は、今度はバッグの中に仕舞って、家を出た。 田園地帯を街へ向けて車を走らせる。空気は冷たかったが、冬花は車の窓を開けた。風は心地よく紅潮した頬を撫でた。 「チャオ、チャオチャオ……」 冬花は口ずさむ。痛みのことはすっかり忘れてしまっていた。
2011.2.4
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