NEKOMIMI CALL
帰宅してパソコンの電源を入れ、そのままにしていた。 スカイプは起動時設定。特に考えてはいない。セットアップ時になんとなくそうしてしまっただけ。 シャワーを浴びる。濡れた髪を拭きながらテレビのスイッチを入れる。どのチャンネルもカルネヴァーレのニュースだ。色とりどりの紙吹雪。その下を歩くのはほとんどが観光客。ローマがいたって平和なことに明王は感謝する。 夕飯は適当に、とはできないフットボールプレイヤー。一人暮らし。 二月も終わり。まだ寒い。春がくるのは来月から。隣の部屋のベランダに花が溢れるのも来月から。 静かな、ひとりの部屋。 ニュースの、感情のない声。時々挟まれるサウンド・ロゴ。明るい音なのに、次のニュースはいよいよ宴も終わり、不祥事や経済問題を伝えるのだろう。 でもまあ、構いはしない。お気に入りの気分には、またその時に、なるさ。取り敢えず今は、冷蔵庫を覗き込んで、狭いキッチンで踊る気分にもなれず夕食を作る俺にはお前の棒読みの声が心地いいぜ。勝手に喋っててくれ。 果物は腐らせる前に。野菜もきちんと摂ること。チキン、それから何にしようか。 毎日繰り返す食事の、毎回微妙に違う気分。今日は特に昂揚もしない。 静かだ、ニュースの声が神経に際立って触れるほど。 髪が冷たい。タオルでごしごし拭きながらエアコンの調子を見る。動いてはくれているらしい。頼むぜ? 俺を凍死させないでくれ。ローマは北緯41度53分。函館とほぼ同緯度。 冷蔵庫にはレシピが留められている。冬花が貼っていったそれを、明王は剥がすことができない。たとえトマトスープの作り方でも。 憎いあん畜生にフォークを突き刺し、コンロの火で炙る。悪魔的な笑みでそれを見下ろし、しばし自分の持ち得る残虐性を堪能する。 湯剥きの後は適当にカットして鍋へ。換気扇を回すがトマトを煮る独特の匂いは鼻から離れない。 悪魔が覗き込むにふさわしい鍋の底になったらば、水を足し、コンソメを投入。冬花が隠し味に、とマルで囲んでくれたのは中華の調味料。ほんの少しだけ足す。 チキンはスープには入れず、そのまま焼くことにした。 鶏肉のいい匂いが漂うころ、煮込んでいた鍋の中身は塩胡椒で味を調え、まとめて炊いていた米をレンジで温めて夕食の出来上がり。 もう一度、とスープを味見。冬花が作ったのと、なかなか同じ味にならない。先日帰国した時に久遠が作ってくれたスープも同じ味になったのに、何故自分だけ。 才能の違いだな、と明王は結論づける。 俺はフィールドプレイヤーの才能、あいつらは料理の才能って訳だ。 狭いキッチンテーブルの上で、夕食を摂ろうと、時計を見上げる。今日は黙々と料理に没頭しすぎた。夕食と呼ぶには時間が早すぎるが。 まあいい、構わない。 一口、真っ赤なスープをスプーンですくい上げたところに、耳慣れない人工音。テレビのサウンドでも、電話でも、充電中の携帯でもなかった。 不動は皿を抱え、隣の部屋に向かう。開きっぱなしのパソコン画面で、スカイプが着信を報せている。 片手でリモコンを掴みテレビを消しながら、もう片手で応答する。 タッチパッドに指を滑らせながら、あ、と思った。 ビデオ通話。 ふわりと画面いっぱいに相手の表情が広がる。 冬花と、久遠。 『こんばんは明王君。えっと…元気かにゃん?』 『こちらは真夜中を過ぎた。お前は夕飯はまだか?……にゃん』 冬花と久遠には違いない。顔を赤くしているが冬花は冬花だし、知らぬ間に口ヒゲをたくわえているが久遠は久遠だ。見間違えは、しない。 多分。 おそらく。 猫耳をつけて、猫のポーズ(招き猫のアレみたいな)をとっていてもそれが久遠冬花と呼ぶなら(ああ、それはあまり問題ない)、久遠道也と呼ぶなら(That is the question !)。 『あっ、そのお皿、トマトスープかにゃ?』 『ほう、挑戦してみたか。味はどうだ……にゃん』 「いやさ」 不動は左隅のワイプに自分の間抜け面が映っているのを知りながら、しかし表情筋をコントロールすることができず、取り敢えず、声を出した。 「何、それ」 『ええっとね、こっちはもう日付変わっちゃったから23日なん…にゃんだけど、今日は2月22日でしょう? にゃんにゃんにゃんの日にゃの』 『最近出番がないようだから、私たちはこうして家族としてお前を励まし士気を高めるべく……』 「いや、おかしいだろ」 『そうかにゃあ。似合わない?』 冬花はすっかり言葉に「にゃ」を馴染ませて小首を傾げる。 「お前はいいよ。隣のオッサンに鏡見ろって言ってやれよ!」 『見たぞ。寝る前にも関わらず口髭を整えてここに座っている……にゃん』 笑いが間歇泉のように込み上げてくる。 時間差でクる。うわ、やべえ。 『駄目か……にゃん』 無表情で猫の手招きをされた瞬間が限界だった。 不動は椅子から転げ落ち腹を抱えて笑った。あまりにもあけっぴろげに、抑えもせず、大口を開けて笑ったので、上階やら下階やら隣やらから一斉にモップの先で突くような抗議の音が響いた。それでも不動は笑うのを止めなかった。 『明王』 『明王にゃーん、大丈夫?』 「も…やめろ…マジ死ぬ」 腹筋痛え、と起き上がると、久遠が真面目な顔で、鍛え方がたりん…にゃん、と言うのでまた転げそうになった。 『元気、出たかにゃ?』 「…それどころじゃねえ」 笑いながら誤魔化そうとすると、久遠が、正直に言え、と語尾も忘れてすごむので、仕方なく、 「ありがとうよ」 とパソコンの小さなカメラに向かって手を振った。 『最近、明王君の方からちっとも電話くれにゃいから、心配してたんだにゃん』 「冬花、それいつまで続けるんだよ」 『電話を切るまでにゃん』 『冬花のこんな特別な姿を見せてやろうと言うんだ、感謝しなさい……にゃん』 「あんたのは語尾として機能してねーし」 『駄目か……にゃん』 「いや、いいよ。もうそれでいいよ」 結局トマトスープもチキンも、せっかくレンジで温めた飯もすっかり冷たくなってしまうほど話した。 別れ際、冬花は『にゃにゃーん』と、久遠も無表情のまま『にゃんにゃん』と手を振った。まったく、最後まで騒がしく、笑い出すかと思った。 「じゃあにゃ」 不動は手指をひらひらとさせて通話を切る。 スカイプの通信の切れる音は、離れた二ヶ所を繋ぐ有機質の糸が切れるような音で、聞くといつも物寂しい。不動はしばらくパソコン画面を眺めていた。自分がほんの少し微笑んでいるのが薄っすら映りこんでいた。 台所で夕飯を温めなおす。それから、やはりキッチンテーブルで食事。明かりを点けるような時間になっていた。 トマトスープが、味見の時とは味が違っていた。 不動はちらりと冷蔵庫を見た。マグネットで留められた、冬花が書いたレシピと、三人で撮った写真。 椅子をずらして、写真の見える位置で食事をした。 フットボールプレイヤーの一人暮らし。 存外優雅な、夕食の時間。
2011.2.22
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