浄天







 二百十日の空の下、水気を含んだ強い風がごうごうと音を立てて海へ向けて吹き抜ける。それを背に佇む浜辺は灰色で、向こうに広がる海はいっそ遠い空を写すせいか白く光るような水面をたたえている。波の影が、その下のどこまでも深い紺青をちらちらと覗かせた。西の果ては既に晴れ、空が覗いていた。白く、色のない空だった。
 不動も風に背を向け砂の上に座っていた。足の間の砂にはペプシのペットボトルが刺さっている。彼は頬杖をつき、今、が、いつか、に変わるのを待っていた。久遠は、そのすぐ傍らに佇んでいた。

 連絡をしろ、と言ったのは久遠である。
 八月のことだ。
 服が生乾きのままの不動を街まで送り、車から降りようとするところを引き留めた。
「今度はお前が呼べ」
 不動は返事をせず、疑いというより諦めに似た目で久遠を見た。
「私が待つ」
「…どういう風の吹き回しだよ」
「お前のことは真剣に考えている」
 明瞭な返事は帰ってこなかった。ただ、口の中で小さく罵ったようだった。
 殺しとくんだった、とも聞こえた。
「お前が呼べばすぐに迎えに行く」
 そう言葉を重ねると、不動は冷笑した。
「きっと後悔するぜ」
 瞳が強く久遠を見た。じりじりと、美しい瞳の奥で火が起きて不動の感情を焦がしているかのような視線だった。
 不動はぷいと姿を消したが、連絡をしないとは言わなかった。
 後悔、と言った。
 此岸にあれば後悔もするであろう。執着があれば惜しくもなろう。しかし久遠の視線は彼岸にあった。
 そして携帯電話は始業式の最中久遠の懐で震え、彼はその場を飛び出した。嘘も言い訳も必要なかった。雨交じりの風を巻き、不動のもとへ駆けつけた。
 郊外に向けて道が真っ直ぐに伸びていた。錆のきたバス停の標識の脇に不動は立っていた。ペプシのペットボトルを片手に、安いビニール傘を差し斜めから吹きつける雨風に晒されていた。
 車から降り目の前に立つと、不動は驚きでも喜びでもなく、また諦めたような目をして久遠を見た。
「後悔、しただろ」
「いいや」
 不動は久遠の胸板に拳を押しつけ、口元だけ歪めて笑った。
「最低だ、あんた」
「愛想を尽かしたか?」
 車が何台も、雨水を跳ね上げながら猛スピードで通り過ぎてゆく。
 不動は久遠に向かって傘を差し掛けた。既に顔を打っていた雨粒が目の中に流れ込み、久遠は目を瞑った。その隙に不動の唇が触れた。
 抱き合わず、キスだけを繰り返した。耳元を傘に遮られた風の暴れる音と、車が水を跳ねる音が過ぎてゆく。自分のそれを塞ぐように不動の耳に触れると、唇が離れた。
「どこへ行きたい」
 久遠は、指先で耳を撫でながら尋ねた。

 海へ出たのだった。
 岸にはまだ雨が残っていた。灰色の雨降る浜辺を車の中からその景色を眺めた。
「ん」
 不動がペプシを傾けて寄越した。
「甘いんだろう」
「飲めよ」
 言われるままに一口飲んだ。炭酸が喉で跳ね、胃へすとんと滑り落ちる。
 ペットボトルを戻すと、不動は自分は口をつけずそれを額にぶつけて瞼を閉じた。
「なんで、飲んだんだ」
 瞼を閉じたまま不動が尋ねた。
「お前が飲めと言った」
「毒、入れた」
 振り向くと、不動は瞼を開いて雨の打つ海を眺めていた。
「どうしようかと思ってさ」
 不動は手の中でペプシを弄んだ。
「他にも準備した。ナイフも持ってる」
 本当に、と視線で促すと不動はポケットから真新しい折りたたみナイフを取り出し、刃を開いた。
「首、絞めるのは失敗したからな」
「今日はネクタイがある」
「その後、俺はどうすんだよ」
 力なく不動は笑った。
「あんたを刺したら、自分で首の動脈切る。道理だろ?」
 久遠の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「私が考えたのは」
 そっと利き手をステアリングにのせた。
「このままブレーキをかけずにガードレールを突き破って崖から落ちるか、それともネクタイで互いの手を縛って海に入るか、だった」
「土左衛門はゴメンだ」
 不動は嫌そうに舌打ちをした。
「ぶくぶくに膨れた足を魚に食われるのも、太ったあんたを見るのも」
「死んだ後のことだ」
「分からないぜ?」
 刃に自分の目を映し、それを睨み返しながら不動は言う。
「死んだ自分を見るかもしれない」
「幽霊を信じるのか」
「魂、だろ」
 ぱちん、と音を立てて刃を仕舞う。
「アメリカみたいだったら簡単だったんだ」
 ナイフを銃のように構え、不動はフロントガラスの向こうを狙う。
「オン・スリーでお互いに撃てばいい」
「私も同じタイミングで裏切らずに撃つと思うのか」
 するとそこで不動は今日初めて大きな感情をあらわにした。
「当たり前だ」
 意外なことを言われたかのように怒っていた。
「今更あんたのこと信じてないわけねえだろ!」
「信じている……私を?」
「あんた、誰と心中しようとしてたんだよ」
 心底呆れたように不動はため息をついた。
「もう、あんたと俺しかいないんだぜ」
 ペットボトルの中身が揺れた。
 雨が止んだ。
 急に頭上が静かになり、世界が広がったように感じる。それまでけぶっていた浜辺の景色が遠くまで見渡せた。
「私は、あとどれくらいで死ぬ」
 久遠はペプシを指さした。
「一時間くらいじゃね?」
「外へ出ないか」
 キーを差したまま車を降り、浜に出た。不動はペットボトルを片手に、隣へ並んだ。
 目の前で逃げ遅れた雨が海の上を走り、消えた。カーテンの取り払われたあとに、西方の空が現れた。海の果ては雨が上がり、落ちる日を迎え入れようと白く輝いていた。

 二百十日の空の下、水気を含んだ強い風がごうごうと音を立てて海へ向けて吹き抜ける。
 不動は久遠が死ぬのを待っている。久遠が浜辺に倒れたら自分も毒を呷るのだろう。心中の道理だ。共に溺れ、共に落ちる。あるいは刃には刃で、毒なら毒で最後の絆を繋ぐ。死と魂を賭した、これは愛だからだ。
 背を打つ嵐は久遠を西方へと誘おうとする。先に行くのは贅沢なことだと、久遠は思った。自分は生きた不動に見守られて死ぬことができる。自分が残すことができるのは死体だけだと思うと、それは少し心苦しかった。不動は死んだ久遠の身体を抱いて死ぬだろう。
 雲間から白く輝く日が顔を出した。水平線の上にあるが、まだ燦然と眩しい輝きを放っている。
 どさり、と重たい音がした。
 砂の上に不動が倒れている。
「…不動」
 瞼が閉じている。口元も静かに結ばれているだけ。美しい造形、ただそのままの無表情。
「……死んだのか」
 隣に座り込み、濡れた砂の上に投げ出された手を取った。
 砂を払い、両手で包み込む。体温がある。あたたかい。
 口づけを一つ落とした。
「愛している」
 その言葉は、まさか自分の人生の中で使うとは思っていなかったその一言は自然と久遠の口をついた。
「誤魔化し続けて、悪かった」
 快楽を生み出す裏には必ずそれが息づいていたというのに、かすかなシグナルを無視し、言葉になろうとする感情を揉み消し続けていた。
「お前に聞いてほしかった…」
 不動の手を額に押しつけ、久遠は呟いた。
 ごうごうと鳴る風の向こうに波音が響いた。その果てでは静かに日が落ちようとしていた。雲は夕焼け色に染まり、西日が海上に道を敷いていた。遙か西まで続く道だ。
 久遠は砂に刺さったままのペプシを取り上げ、それを飲み干した。
 げっぷが出て、誰に聞かれる訳でもないのに少し照れた。それから不動が魂と言ったのを思い出し、少し微笑んだ。
「毒なんか…」
 呟き声が聞こえた。
 久遠は隣を振り向いた。不動の瞼は閉じていた。しかし唇がわずかに開いている。
「入ってるわけねえだろ!」
 叫びと共に、不動の身体はバネ仕掛けのように起きあがった。久遠は思わず息を止め、それを見つめた。
「毒なんか……」
 不動がキッと睨みつけた。その目からは何故か涙が溢れ出していた。
 腕を伸ばし、抱き寄せるのを不動は拒まなかった。肩を抱くと、額が胸に押しつけられた。泣き顔を見られたくないらしいので、海を眺めた。
 浜は静かだった。風が弱く、凪ごうとしていた。二百十日の風の香が潮の匂いにかき消される。
 もうすぐ、日が沈む。

 車がなかった。
 跡形もなかった。財布も携帯電話も車の中だった。あるのは空のペットボトルと、ポケットの中で皺になった札が数枚と小銭。
 歩いて戻ることになった。
 日暮れの色は水平線の際に残るだけで地上は既に夕闇と落ち、頭上の空はいっそ明るく見えるほどの深い青の空だった。
 清浄な匂いのする空の下を、手を繋いで歩いた。
 海岸沿いに歩き続けると、電話ボックスが一つだけぽつんと建っていた。
 久遠は受話器を取り上げた。不動はドアを開いたまま、そこにもたれかかっている。
 手の中の十円玉を投入する。これで、現世と繋がる。
 不意に不動が手を伸ばし、フックを下ろした。硬貨の転がり出る乾いた音。扉がばたんと音を立てて乱暴に閉まる。不動の身体が密着する。久遠は受話器を手放す。
「本当は、俺」
 奪い合うような口づけの合間に不動が囁いた。
「あのまま…」
「言うな」
 久遠は再び不動の唇を塞いだ。久遠にも背にした場所への未練がない訳ではない。
 青白い光に照らされ、不動の睫毛が濡れている。
 ペプシコーラの残り香。狭く閉ざされた電話ボックスの中でキスと、キスと、キスと、それから強い抱擁。

 久遠道也が自らと愛する少年の死を願ったのは、それが人生でただ一度のことである。



2011.3.6