クロコダイルズ・ティア
魔所と呼ぶなれば、三浦の大崩壊を…と草迷宮の冒頭を思い出す。 激しい暑さと白い陽光がかっと射し、涼しげな顔をしているのは岩間に咲く浜昼顔ばかり。空気だけでなく浜そのものも、焼いた砂の熱く、裸足になった不動は靴も放り出し波間に駆け込んだ。 久遠は続きの一節を思い出す。 夏向き海水浴の時分、人死のあるのは、この辺では此処が多い。 か。 まるで描かれた景色のままの光景が目の前に広がっているかのようだった。ならば不動のことは注意して見守らなければ、いつ白泡と消えるか知れない。 夏期休暇に入り、盆も過ぎた。子どもたちにとっては忙しなく、そして久遠は淡々と過ごした日々だった。 久遠が制服姿の女学生を車に乗せていた、と噂が立ったのは先月不動と会った直後のことだった。余計な騒ぎにならなかったのは、久遠の人格がゴシップ以上に周囲に評価されているからであり、それに何より、久遠冬花の存在がある。それを知らない学生が久遠と娘が連れ立っているところを誤解した…。噂はそう収束した。 しかし久遠はこの噂が確信的に広められたものだろうと感じていた。それこそ確信していた。 不動は、もう波間に頭が見えるばかりだ。少し目を離した隙に随分泳いでしまっている。浜には脱ぎ捨てた服が散らばっていた。久遠はその上に石を置き風で飛ばないようにすると、不動が脱ぎ捨てた靴を拾って歩いた。 不動、なのだろう。噂を広めたのは。 必要性もなければ、営みのためでもない、金にもならないセックスだ。それでも続けようというならば何かが必要だった。例えば、愛が。 が、それを注ごうにも久遠は月一回このように隠れて会っては半日を過ごす程度のことしかできない。少年が、大人の情欲に好き勝手弄ばれていると言い換えることさえできる。 本気で破滅させたいという気持ちがあるのかもしれない。事実、生徒間では一時期ひどく騒がれた。それほどの威力があった。 いや、初手はあの嘘の告白だ。コドモができた、という。 またぞわりと背筋が震えた。 不動は久遠にとって取り憑かれるに見合った悪魔である。 波間から不動が手を振る。 久遠は手にしていた靴を手放すと、自分も靴を脱ぎ海に入った。不動のもとに泳ぎ着いた時、身体はひどく重かった。服を脱ぐべきだった。 「どうしたんだよ…」 不動が頬に手を伸ばし、破顔する。 「そんな顔、して」 「助けてと…言っただろう」 「…言ってない」 一瞬、得体の知れないものを見るように不動の目が揺らぎ、しかし波に洗われたまばたき一つの後、ああ、と低く呟いた。 「言ったかもな…」 二人で浜に泳ぎ着き、久遠はそのまま砂の上に倒れた。驚くほど疲労していた。服のまま泳いだせいだけではない。気を失ってしまいそうなほど、頭がぼんやりしている。 浜辺だ。去年の冬、やはり不動とここを訪れ、ここで交わった。 魔所と呼ぶなれば。 不動、と嗄れた声で呼ぶと、白い素足がこちらを向いた。 「私を捨てて、逃げるか…?」 「どうして」 「ならば、殺すか」 砂のついた足の裏が頬を蹴って押しつけられた。 「何、言ってんの」 「図星だろう」 足が離れ、しゃがみこんだ不動が覗き込む。陽が遮られ、逆光の中に鋭く研いだ刃物のような表情を見る。 「あんたこそ」 「…私がお前を、殺すと?」 「図星だろ」 不動は目を伏せ、唇を重ねさせた。 冷たい唇だった。舌の熱さに驚くほどだった。 破鐘の轟くような音。積乱雲が抱えた雨を押さえきれず吼えているのか。白く輝く空の熱雷か。 久遠は薄く瞼を開いた。不動の首筋や背を伝って海水がぽとぽとと落ちる。しっとりと濡れた髪。言っていたように、綺麗に剃り上げられた頭。形の良いそこへ手を伸ばそうとしたが、動かなかった。キスは一方的に、不動が貪る。その伏せた睫毛にも小さな水滴が散っていた。 あっという間に浜が翳った。大粒の雨が叩きつける。 不動が目を開き、うわ、と小さな声を漏らして顔を歪めた。 「ずぶ濡れだな、お前の服も」 「満足かよ」 「いや、同情している」 「あんたが同情、するとか」 にやにや笑いを苦笑に変えて不動は言った。 「嘘くせえ」 「ならば…」 雨に打たれる痛みに手先の感覚が蘇る。久遠は手を持ち上げ、指の背で不動の頬を撫でた。 「どうすれば信じる?」 すっと不動の表情が静まった。躊躇いではないようだった。ただ彼は沈黙して、深く考えていた。 冷たい手が伸びる。胸の上をするすると滑り、鎖骨のくぼみで止まる。 指先が喉仏に触れた。 「抵抗すんなよ」 雨の滴は不動の顔を伝い落ちて、久遠の頬に落ちる。 「ああ」 久遠は答えた。 不動の手は首の太さを確かめるように、まずいっぱいに押しつけられた。それから指の腹で脈を探り当てる。 深い息を吐いた不動の唇の艶めかしさを、久遠は見つめていた。 手に力がこもる。掌底が気管の上に押しつけられる。苦しさはすぐに訪れた。 抵抗はしなかった。それが約束だった。その代わり不動の背中に手を伸ばし、爪を立てた。爪が皮膚を破ったのを感じた。不動が顔を歪めた。 「苦しいか?」 不動が尋ねる。 久遠は唇を引き結ぶ。 「怖いか…?」 唇を開いたが声は出なかった。漏れたのはわずかな息だけだった。開いた口の隙間に雨が落ちる。 不動は美しい顔を歪め、久遠を見下ろしていた。雨が伝い落ちるのが涙のようで、それは次から次へと流れては久遠の口の中に落ちるのだった。 雨を飲み込む久遠の喉が大きく動いた。不動が手を離した。 久遠が咳き込み、見ると、不動は砂の上に尻餅をついて空を仰いでいた。口を開け、雨を飲んでいた。否、笑っていた。不動は、むっとする熱気、大粒の雨の下、乾いた断続的な笑い声を上げた。 「不動…」 「早く車、戻ろうぜ」 不動はふらふらと立ち上がり、砂の上に散らばっていた靴を拾い上げた。 濡れる浜辺をゆっくりとした足取りで歩いた。 先を歩く不動に向かって、久遠は言った。 「恐ろしくは、なかった」 「知ってる」 笑っているらしい顔がちょっと振り向いた。 セックスは車の中でした。雨音と狭い空間の閉塞の中で不動は乱れ、何度も久遠の背に傷をつけた。仕返し以上のものがあったのだろう。わななく唇を耳元に寄せ、何度も何かを囁きかけようとしていた。そのたびに久遠は強い快楽でそれを邪魔した。不動は泣きながら果て、また揺さぶられた。 夕立が止み、窓から光が射すと不動は久遠に強くしがみつき、言った。 「嫌だ…」 「解っている」 不動を身体の影で守りながら、久遠は破滅を思った。どちらか、では駄目なのだ。彼岸には二人して立たなければならない。 魔所と呼ぶなれば、この車でガードレールを突き破って海に落ちるのでは駄目なのだった。互いに身一つ、手に取るならば相手の手だけを取って沈まなければならない。海水浴の時分、人死のあるのはこの辺りでは此処が多い。ぶくりと沈み、紺青の波間には白泡の漂うばかりである。 岩間の浜昼顔が、雨に打たれすっかり萎れていた。腕の中で不動がまた果てた。久遠は強くその身体を抱き、絶頂の予感に目を固く閉じた。
2011.3.5
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