静かな時計







 いつか夜の明ける前、冬の朝に不動が窓から顔を出し気持ち良さそうにしていたのを久遠は思い出す。
 不動は今もまた助手席の窓を全開にし子どものように首を出しているのだ。
 子ども、と言えば子ども。
 まだ義務教育も終えていない少年を連れ出すのは数ヶ月ぶりのことだった。久遠は電話をしたのだった。そして週末の朝早くに駅前で不動を拾い、一路箱根を目指したのである。
 どこへ向かう、とは言わなかった。
 なので不動は標識を眺めてそれを判断し、軽く鼻で笑ったのだ。久遠はそれを甘んじて受けた。二人きりでゆっくりと。ゴールデンウィークも過ぎた観光地へ。
 別に観光は望んでいないのだろう不動も晴天の下に芦ノ湖の湖面が輝くのと、岸辺のおちこちに咲き誇る躑躅に黙って見入っている。
 宿は山中。
 このように湖畔を走るのがささやかな観光だった。久遠が積み上げた功績、若い不動の未来、どちらも粉々に破壊し得るだけの関係である。
 不道徳。
 陽は眩しすぎるほどだ。

 駐車場に車を停め、尚も坂道を歩かねばならない。
 祖父の代までは馴染みだったと言う。久遠自身は訪れるのは初めてである。舗装された小道の両脇は剪定されているが、ほぼ深山の懐。雪の頃を思えば、完全なる隠れ家だ。今日とて、日の暮れてからの到着だったらば提灯明かりも化かすかと見えたろう。
 宿と同じように老いた番頭に出迎えられた。
 磨きぬかれた廊下は、木のぬくもり以上にそこに降り積もった年月を感じさせる。屏風に描かれたのは壺中天の図。まるでこの宿そのもの。
 宿帳にまるで息子であるかのように不動の名前を記す。
 明王、と。
 そう言えば呼んだこともない名なのだ。
 部屋は一室一室が離れている。二人が通されたのは渡り廊下の先で、狭いが眺めは良いと言う。事実、腰を落ち着けてしばらくの間、茜に照らされた山肌が見えた。
 不動は宿自慢の景色にも背を向けて古いブラウン管のテレビをつけ、チャンネルをしきりに変えていたが飽きてしまったらしい。
 沈黙が訪れた。
 これまで二人きりになればすることは一つしかなく、この宿も要はそのするしかない唯一のことを何気にすることなくと選んだのは否定し難い。
 しかし久遠はあの夕暮れの書庫で言ったとおり、会うためにこそ不動に電話をしたのだ。
 会って、それから。セックス以外に。
 唐突に不動が立ち上がり、押入れを開けると浴衣とタオルを手に取った。
「露天風呂、だっけ?」
 裸足でぺたぺたと濡れ縁に向かい、ふと久遠を振り返る。
「…覗くなよ?」
「ついてくるなと?」
 不動はやはり鼻で笑い、障子の影に消える。もうしばらく眺めていると、渡り廊下を歩く姿が見えた。

 懐石料理を目の前に不動はまた嗤う。
 確かに、これではまるで愛人との逢引にしか見えない。が、言い訳も利かぬのはほとんどそれに違いないからだ。たった一人の娘に嘘をついてまでこんな場所にいる。腕の時計を見た。彼女は今、何をしているだろうか。いつもは自分が帰宅するまで夕食を待っている娘だ。一人で食べ、一人で片付けをしているのか。
「おい」
 向かいから不動が声をかけた。ビールのビンを手にしている。
「コップ」
 差し出すと注いでくれる。真上から注ぐせいで泡ばかり多くなった。しかし久遠はありがとうと言ってそれを干した。
「ここ、時計ないのな」
 不動が部屋の中をまじまじと見回す。日本の家は木と紙でできているという言葉があったとおりだ。元の木の形の分かる太い梁。古色の染みた襖。ここに時計は似合わない。日が昇り、沈み。夜が訪れ、月がかかる。
「貸して」
 手が差し出された。久遠は腕時計を外して掌の上にのせる。不動はそれを受け取ると、ろくに文字盤も見ずカラのコップに落とす。
 止める暇もなかった。不動はそこにビールをたっぷりと注ぎ込んだ。
 久遠が溜息をつくと、不動は何故かそこで心配そうな顔をした。
「これ、まさか防水か?」
「…いや」
 すると表情が笑顔に変わる。

 月が昇ったらしい。障子がぼんやりと光を孕む。
 久遠は不動の足をねぶるのをやめ、布団の上で浅い息をつく彼に声をかけた。
「何か言いたいことがあるんじゃないか」
「…何を」
「何か、だ。私には知りようもない」
「じゃ気にすんなよ。知らぬが仏だろ」
「お前の気持ちが知りたい」
 親指の付け根、わずかに尖った部分にキスをする。
 不動は月光の這入り込む薄暗がりの中で、瞼を閉じ、低く早口に言った。
「電話するの遅いんだよバカ」
「それから…?」
「あんたこそ自分のこと何も言わねえじゃねーか」
 私は…、と言いかけて久遠は口を噤んだ。
 掴んでいた足を下ろす。不動の浴衣はすっかり着崩れていて、太腿まで露わになっている。しかし久遠は緩んだ帯をほどくでもなく、ただその身体の重量をもって不動の上にのしかかった。
「会いたいと、思った」
「………」
 それ以上の言葉が浮かばなかった。
 会いたい。人目につかない場所で。二人きりで。
 そして自分は何を求めたのか。
 不動の瞼が開き、自分を睨みつける。無言そのものを責めているのではなく、矛先の分からない苛立ちを扱いかねているようだった。彼はぐいと腕に力を入れると久遠の身体を布団の上に転がし体勢を逆転させる。
「…するんだろ?」
 仰向けになった久遠の上に跨り、不動は言った。
「これ以外にやることなんざねえじゃねえか」
 そのまま、不動は行為に没入した。
 直截の快楽はもう随分、二人の身には馴染みだった。だから抱き締めあわずとも、口づけさえ交わさずとも不動は快楽をよりよく引き出し、それに没入することができるのだった。
 しかし与える側の久遠はどうだったろうか。
 時間をかけて不動を絶頂へ導き、すっかり力を使い果たしたところを清拭して布団に寝かせる。不動はすっかり疲労の引き寄せる眠気に囚われ、瞼も開けない。
 障子を開けると、山間の夜気はわずかに冷たく、久遠の求める冷ややかさをもって彼を包んだ。オーガズムに至らなかったのは、おそらく不動相手には初めてだった。歳のせいにするにはまだ早いだろう。
 眠る不動を見下ろす。おそらくここでキスをしたところで罪にはならないだろうと思った。しかしできなかったのだ。
 久遠は眠れなかった。障子の影が移りゆくのをじっと睨み、静けさの中に耳をすませた。

 少しはうとうとしたらしい。朝も近かった。
 久遠は風呂に向かった。不動はまだ眠っている。起こさぬよう、そっと部屋を出た。
 冷たい空気の中に湯気はもうもうと立ち上っていた。熱いほどの湯の中に身体を沈めると不眠の疲れが一時なりとも溶け出すようで心地よい。
 ぐったりと首を反らす。空にはまだ星が輝いている。
 箱根まで来たにも関わらず、やることは大して変わらなかったのだ。昼前には不動を解放して、おしまい、だ。
 箱根。古い宿。二人きりの時間に生まれたのは沈黙と、キスのないセックスと。
 そこから命の生まれることなど永遠にないセックスの中で、自分は射精もできなかった。丸一日不動を独占して、この様だ。
 湯の流れ出す中に湿った足音が響く。
 久遠は瞼を閉じ、湯の中ですっかりぬくもった手で顔を洗った。俯いていると足音は背後で止まった。
「…おはよ」
 ぶっきらぼうな挨拶。
 振り向き、それに応える。
「おはよう、不動」
「ちげーだろ」
 不動は隣に滑り込み、熱ッ、と小さく声を上げたあと、言った。
「ただの明王だろ、今は」
「………」
「あんたが書いたんだよ」
 久遠が喉をつかえさせていると、不動は首を傾け舌打ちをする。
「折角時計を駄目にしてやったのに、起きるの早ぇし。あんたってマジ腹立つ」
 人のいないのをいいことに不動はざぶりと波を立てて湯船の中を泳ぐ。白い背中や足が湯から覗き、また沈む。
 離れた場所から足で湯を跳ね上げ、それを久遠に引っ掛けながら不動は言った。
「偶には焦って弱って俺にすがりついてみせろよ遅漏」
「…昨夜のは……」
 口に出すと不動は、ん?と黙って自分を見つめてくる。
 言い訳になりそうな言葉も浮かばなかった。不動に対し情けない大人である自分をさらすことなど今更だったが、それでも矜持が邪魔をした。
 不動は口元で嗤いながら久遠に近づき、首筋から這わせた両手で顎の線を支える。
「お願い、してみな、久遠道也」
 磨り潰すような声でキスをとねだった。
 不動は笑い、黙って久遠の唇にキスを落とした。

 正午を少し過ぎ、マンションに戻った。
 昼食は摂っていなかった。わずかに空腹でもあった。
 娘の姿はなかった。台所には今朝の洗い物らしい皿が一枚とカップが一つ。
 手首を見る。
 秒針は文字盤の上、痙攣するように同じ場所で震えている。
 久遠は蛇口から水を落とす。そして時計をした手首をその中に浸した。



2011.2.22