展翅
図書館へ足を踏み入れた時、学舎はすっかり夕焼け空に包まれていた。 広いグラウンドで練習する運動部員たちも三々五々と解散に向かっている。久遠は老いた教頭の後について渡り廊下からその様子を眺めた。 「あれがサッカー部です」 教頭が指差す。 教員としての招聘は勿論、彼のその手腕を買われてのものだった。今、ボールを片づけて談笑しながら部室へ戻ろうとしている彼らを更に強くするためにこそ久遠はこの高校に招かれ、またそのことに魅力を感じ話を請けたのだ。 サッカー部監督以外に久遠に与えられた学校内でのポジションは司書補だった。大学時代についでのように取得していた資格がまさかここで活きるとは思っていなかった。 流石の名門私立か、噂に違わぬ蔵書数だ。図書館は三階建ての建物で、一、二階は吹き抜けになっている。そこには静謐な空気が満ちていた。もう日暮れと言うのに、数人の学生が残って自習をしている。 教頭は久遠を三階に案内した。 「古い資料や雑誌のバックナンバーもここです」 厚い扉の向こうは書庫だった。ハンドルのついた移動式の書架が並び、棚には整然とそしてぎっしりと本が詰まっている。 「拝見しても」 「ご自由に」 職員室で待つ旨を伝え教頭が去ると、久遠は息を吐いて書庫内を見渡した。天井は思いの外高く、ひんやりとした空気が漂っている。ぶら下がる証明は暗く、青白く古書たちを照らした。書架の上にある窓は明り取りではなく、緊急時の排煙口なのだろう。今はブラインドが下ろされている。久遠はその一つに近づきブラインドを開けた。 さっと音を立てて西日が斜めに射した。四角い明かりが作りつけられた棚から床を斜めに照らし出す。 教頭は古い資料、と言った。それは書籍だけではないようだった。夕日に照らされる中、一際その光を反射するものがあった。久遠は近寄り、それを手に取った。蝶の標本だ。ラベルのインクも色褪せた古いもののようだが、青い羽の光沢は時を経たものとは思われないほど鮮やかだ。 硬い足音が響き、久遠は顔を上げた。開けたままだった扉の内側に一人の生徒が入り込んでいた。黒のセーラー服に、藤鼠色の微妙な色合いのカーディガンはこの高校の制服だ。スカーフが白ということは一年だろう。パーマはあてていないが淡く脱色した髪が、床に落ちた西日の照り返しに明るく見えた。 小さく掠れた声が、先生、と呼んだ。 その背後で厚い扉が静かに閉じた。書庫は密閉された空気の中に沈黙した。 床の照り返しに浮かび上がるその姿は奇妙に現実離れして映った。学校指定の革靴に、黒いタイツのすらりと伸びた足。しかしどこか怯えるように身体は背の扉に押し付け、俯いている。肩ほどまで伸びた髪が隠すせいもあり、表情は見て取れなかった。 書庫は、大体どこでも生徒が気軽に足を踏み入れる場所ではない。来るとすれば図書委員など慣れた人間だろうし、ならば見慣れぬ自分の姿こそがここでは異物なのだ。久遠は標本を棚に戻し、向き直った。 「私は四月から赴任する久遠だ。君、司書の先生の許可は取ってあるのか?」 セーラー服の肩が震えた。 不意にぞっとして久遠は無意識の内に一歩後ずさった。 相手が笑っているのだと分かったのは、品のない笑い声が書庫内に響いてからだった。 「どうしたの、先生。わたしのことがそんなに怖い?」 「…不動」 「気づくのおっせーよ、バーカ」 カツカツと足音も高くセーラー服姿は久遠に近づいた。 「苦労したんだぜ? これだけ揃えるの」 久遠は凍りついたように動かなかった。相手は胸の触れ合う距離まで近づくと、真下からぐいと久遠を見上げた。 窓から射す夕日の下で見る顔は確かに不動だった。唇に赤みを加えるために何か塗ってもいるらしい。 「いつもの冷静さはどうしたよ。目ぇ白黒させちゃってさ」 「何を……ふざけている」 「あんたが電話しねえからだろ。こっちから来てやったんだよ」 いい学校じゃん、と不動は久遠の脇をすり抜け書架に沿って奥へと向かう。彼が手に取ったのはサッカー雑誌のバックナンバーだ。表紙に見覚えがあった。十年前のFFIの結末を報せる号だった。 「名門校だもんな。国際舞台で成績を上げたあんただから、復帰するにも文句はねえか」 そりゃ不動は雑誌をぺらぺらと捲り、書架に戻す。本と本の間に生まれたわずかな隙間にそれが収まると、久遠はほっと息をついた。 「で?」 不動の声は冷たく響いた。肌寒い書庫の空気よりも冷たく、床に落ちた。 「俺とは縁を切って真っ当に生きようって訳だ」 目尻がつり上がり凶悪な表情となった不動は、それでもその造形のよさから美しさを失わない。久遠はやはりぞっとした。不満ではなく直線的な悪意を不動に向けられるのは初めてのことだった。 視線の鋭さは変わらないまま、不動は唇だけを歪める。 「いいよ。俺はガキに比べりゃ聞き分けはいい方なんだぜ?」 足音を響かせながらゆっくりと久遠の前まで戻ると、不動は掌でそっと久遠の股間を撫で、最後一回で我慢してやる、と囁いた。 「…気は確かか?」 「正気かどうかはあんたの頭に聞きたいね」 手応えにニヤリと笑い、不動は言う。 唇は不動から重なった。口紅がぬるりと滑った。 不動は積極的で棚に久遠の身体を押しつけ、貪るようにキスを繰り返した。久遠も応えない訳にはいかなかった。頭を抱くと、茶髪のカツラがずれて床に落ちた。 いつもの不動の首から下がセーラー服姿であることも、久遠はもう異様には思わなかった。ただそれにわずかに興奮させられた自分を頭の隅で忌々しく思った。 カーディガンのボタンを外し、セーラーの裾から手を差し入れる。いつものなめらかな不動の肌。脇のファスナーを上げ手を滑らせると、ようやく不動が優位を手放した声を漏らした。 棚に手をつかせると、不動は大人しく腰を突き出した。スカートを捲り上げる。黒いタイツをかすかに透かして女物の下着を穿いているのが分かった。久遠が思わず手を止めると、不動はちらりと振り向いて笑い、自分の手でタイツをずり下ろした。 「せ、ん、せ」 不動のみだらな微笑みに久遠は応えることができなかった。ここに収められている何万という本の何割かが繰り返してきたとおり、いざとなると大抵の男は意気地がないのだ。 細い指がそろそろと下着を太腿から膝まで下ろした。 「中で出せよ」 嘲笑うかのように不動は言った。 白い手が、夕日の残る棚を強く握り締めている。歯はセーラーの裾を噛んでいたが、やがてだらしなく開いた唇が細切れな母音の連続を奏でた。久遠は腰を支えていた手の片方を伸ばし、その口を塞いだ。唾液に濡れた歯が強く指を噛んだ。 望みどおり、中で射精した。細い身体はぶるぶる震え、久遠が前に伸ばした手の中にも濡れたものが吐き出された。 荒い息をつきながら不動は笑っていた。それは諦めの果てで最後に残されたものを手放すかのような笑いだった。高く、力ない笑い声が床に落ちた。 久遠は不動の首筋に顔を埋め、キスを繰り返した。不動はなかなか振り向こうとしなかった。キスよりもその疲れた笑いが重要だと言うかのように、不動は首を垂れて声を漏らした。 ハンカチで手を拭っている間に、不動は下着とタイツを穿いてしまった。まだ始末をしていないが、という視線を投げると、だから何だ、とでも言うかのように不動は睨み返しカツラを被った 「…それで、お前はこれを最後にするつもりか?」 不動は手櫛で髪を整え、そっぽを向く。 「あんたがもう俺に興味なんかねえんだろう」 「誰がそんなことを言った」 「あんたの電話を待つのなんか御免だ」 足音を高く響かせ、不動は扉へ向かった。 「待っていてくれ」 久遠は声をかけた。不動は振り向かなかった。厚い扉に手を当て、背中で久遠の言葉を聞いていた。 「必ず電話する」 「…あんたがヤりたい時に?」 「お前に会いたい時に」 扉の向こうに不動が消え、扉の閉じた後はまた沈黙が久遠の耳を圧した。 窓から射す日はもう輪郭も曖昧になり、消えかけていた。ブラインドを下ろすと書庫には本来の暗がりを取り戻し、天井の暗い明かりがじわじわと蘇った。 床の上で、青白い照明に照らされた水滴が二、三の染みを作っていた。久遠はじっとそれを見下ろした。 薄く埃の積んだ棚には、不動の握り締めた手の跡が残っていた。久遠はそれを指先で払い、消した。床の染みには触れなかった。そして自分も扉の向こうに姿を消し、しっかりと鍵をかけた。
2011.2.20
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