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蜜道
われわれは全て自分にみあった悪魔に取り憑かれるものだという言い回しの通り、宿命じみたものはこれまで久遠も感じてきたのだった。サッカーしかり、影山零治という男の存在しかり。追放されて尚手放せず、十年の時を経て決着をつける。これは正しく宿命で、彼の人生だ。 しかし不動明王はまさしく彼に取り憑いた悪魔だった。先月届いた年賀状の中には彼のものはなかったし、また久遠もホテルでの言葉どおり忙しさの渦中にあって社会生活を営むのに夢中で、不動に連絡を取ろうなどと考えもしなかった。それが娘からバレンタインのチョコレートをもらって、夜食がわりにそれを齧りながら仕事を一段落させた時、思わず携帯電話を取り出し発信履歴の遠くに去ってしまった彼の名前を見て、並んだ九つの数字に発信する誘惑に駆られたのだった。 魔が差した、と思った。眠そうな不動の声が聞こえるまで、彼は自分の行為の意味にも気づいていなかったのだ。 ――ちょっと時間が遅いんじゃねーの? 電話の向こうで不動は言った。 違う。間違いだ。電話をしたのは全くの間違いだったと、しかし口に出すのは何とも惨めと言うか敗北感に近いものを感じた。 黙っていると、ま、いいや、と不動の声。 ――どっちにしろ今夜は無理。ねみぃもん。また明日電話して。空けとく。 それだけ言うと通話は切れて、久遠は眉間に皺を寄せ携帯電話を睨みつける。暗くなった液晶に睨みつける自分の目が映っている。そうだ、怒っているのは私自身に対してだ、と久遠は改めて自分に言い聞かせた。 寝るに寝付かれなかった。明日、自分は本当に不動に連絡を取るだろうか。去年までの自分ならばそうだ。下手をすれば、今夜のうちに無理やりにでも不動を連れ出していたかもしれない。 この二ヶ月弱の空白は社会的不道徳な関係を断ち切るにはもってこいの冷却期間だと思っていた。 久遠は起き出し、暗闇の中で蛍火のように光る携帯電話に向かい、場所と時間だけを書いたメールを不動に送った。 それからすぐ不動からの返信があった。タイトルは『Re;』、本文も先ほど久遠が送った内容に引用符をつけたものがそのまま送られてきた。それが彼なりの意思なのか、それとも眠かっただけなのか久遠には判じかねた。が、ともあれ明日の約束をしてしまったことで、久遠は眠りについたのだ。 この車には自分だけでなく娘が乗ることを承知で、不動は持ちかけたのだろう。 「毎回ホテルじゃ金かかるだろ」 赤信号で停まったところでするりと、そのしなやかな手を股間に向けて伸ばしたのだ。 「…やめろ」 「あんた、俺がしてやってもいっつも平気そうな顔してるけど」 手を掴んでどけさせる。 「暗いし、バレやしねえって」 夜の国道を郊外に向けて走る車はそれなりの数があったが、少なければ、見られなければいいという話ではない。 「品がないと言っている」 「おいおい今更下品だのなんだの言い出すのかよ」 「それに間抜けな格好でお前との心中は御免だ」 「運転に自信ない?」 「ハンドルを切り損ねる自信がある」 そう言うと不動は嬉しそうに目を細め、久遠の耳元に唇を寄せた。 「感じてるなら正直にそう言えよ」 信号が青になる。離れろ、と低く言うと不動は笑い声で耳をくすぐりながら離れた。しかし、それで攻撃を止めた訳ではないらしい。その後もちょくちょくちょっかいを出してきては嬉しそうに久遠に怒られる。 結局、ひと気のない場所に車を止め不動を黙らせるしかなかった。あるいは互いの火照りを一旦収めるしか。 潰れたパチンコ屋の裏にはカラースプレーの落書き、アスファルトの上にもゴミが散乱していて長くいるのは、これからすることを考えれば得策ではなかった。 後部座席に身体を二つ押し込む。不動はいつも以上にあられもないポーズを取らされていたが文句一つなく、抱え上げられた足で久遠を促しさえする。 久遠は手っ取り早く不動の弱点に指を這わせた。スイッチは運転中に既に入っていた。不動をその気にさせるのは存外簡単だった。自分はベルトを外して前を緩めただけなのに、車内には卑猥な水音が響いている。こんなに簡単に、と久遠は自分も急速に高まった熱の下で思った。 先に不動が果てた。ぐったりとなった不動の身体から久遠は自身を引きずり出し、自分の手で処理をする。首を反らして息をついていた不動が、下目使いに久遠を見て、何やってんだよ意味ねーだろとぶつぶつ言った。それを聞いて、当初は手の中に出すつもりだったものを不動の腹にかけてやる。 「ふ……」 不動は笑い、足で久遠の身体を抱き締めた。 ビジネスホテルの部屋で声を殺しながらのセックスは、少し久遠を安心させた。車の中での記憶を隅に押しやるように久遠は若い身体を貪った。 不動は唇を閉じ、身体を揺さぶられるリズムに合わせて鼻から息を漏らす。久遠のことは目を瞑って見ていない。 「あんたさ…」 セックスの最中に喋ることを嫌う不動にしては珍しく、言葉を発した。 「俺の扱い、慣れたよな…」 その声を聞いた瞬間、久遠はやけに目が覚めて、不動が握り締めたシーツの皺や、ベッドから落ちそうになっているコンドームのパッケージが目についた。 キスをすると義務的に応えられた。 ことが終わっても二人はほとんど喋らなかった。夜明け前の街に何食わぬ顔で戻り、日常生活に溶け込む。そのためには睦言など必要なかった。二人の関係は行為の最中のみ濃密であればいいのだ。 マンションに戻った久遠は車から降りようとして助手席の忘れ物に気づいた。 暗色のパッケージは忘れ物の風を装って置かれていた。車内灯の弱い橙色の光に、包装紙に印刷された白い文字が浮かび上がって見えた。 バレンタインに対し不動が娘や世間一般の女子のような感覚を持っているとは思えなかった。だからこれは嫌がらせの一つともとれた。そのままの意味で受け取るにはあまりに危険な贈り物だった。 久遠はその小さなチョコレートの包みをポケットに押し込んだ。車の窓に映るものも、エレベーターの中の鏡にも視線を逸らした。そこに映る自分の顔を見たくはなかった。もしそれが笑っていたのだとして、それは悪魔との契約書にサインしたようなものだ。 エレベーターを降りた久遠は溜息をついて、首を一つ振った。せめて部屋に入る時は普通の父親の顔をしたいものだと強く思った。 顔を見なくても、既に分かっていたことなのだ。恐怖はなかった。あるのは緩慢な諦めと事実を認めることで生まれた安堵感だった。
2011.2.19
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