仰月
熱い湯が身体の表面を薄氷のように覆っていた寒さを溶かし皮膚の内側まで熱を伝える。風呂椅子に腰掛けた不動は湯をかけられるままに、声を殺してその熱さに耐えた。皮膚が粟立ち、足が耐えかねたようにパシャパシャと足踏みをする。久遠は彼の身体を落ち着かせるように肩に手を置き、何度も何度も湯船からすくった湯をかけた。浴槽の縁からは溢れ出た湯が滝のように落ちる。もうもうと立ち上る湯気がガラス張りの壁を曇らせた。その向こうには淡い暖色の光に照らされたベッドがあった。 身体がぬくもったら、あのベッドでセックスをする。結局久遠はサッカーから解き放たれた不動との関係の中にそれしか見出せないでいる。この県道沿いのラブホテルには久遠の車でやってきた。世がクリスマスを目の前に浮かれる中、イルミネーションには背を向けこんな街の外れまで来たのだった。 不動は、もういい、と言いざぶりと音を立てて湯船に身体を沈める。久遠はかわりに風呂椅子に腰掛け、息をついた。今度は不動が手桶に湯をくみ、ふざけて頭からかける。前髪がはりつき、目の前が見えなくなった。 顔を拭うと、不動は存外無邪気な顔で笑っていた。そこで頭を引き寄せ口づけをすると、またいつもの不動の顔になった。綺麗に整った顔を歪めて笑う、それさえ色香のこぼれるような表情だった。ほんのりと赤く染まった目の縁や指先が視界を掠める。不動の手はわざと、きついほどに久遠の首を抱いた。 久遠の皮膚の表面にはまだ冷たさが残っていた。不動は久遠の頭を手でがっちりと掴むと、顔中に舌を這わせた。湯と唾液の混ざったものが久遠の顔を濡らした。 ふ、と間近で不動が笑った。鼻でせせら笑う笑いだった。 前髪がかき上げられ左目が露わになる。不動はことさらねっとりと瞼の上を舐め上げた。瞼の薄い皮膚が、そこに吸いつく唇を感じた。 欲情はじわりと高まった。闇雲に噛みつくと首の付け根の、ちょうど静脈の上を強く噛んでいた。皮膚の下でどくどくと脈打つ血管は、舌の上で直に感じ取っているかのようだった。 二人とも、もうキスでは終わらなかった。不動を浴槽から引き摺り出すより早いと、久遠は自分が浴槽の中に足を踏み入れ、中腰だった不動の身体を濡れたタイルに押しつけた。 足を開かせ後ろを探る。 「あれ」 不動が横目に促した。 ローションを手に取りながら久遠は、よく見ているな、と口に出さず思う。自分は気づかなかった。視野の広さは不動の日常生活でもいかされるものか。それともこういう場に慣れているのか。 初めて不動を抱いた時、自分が若い身体との関係に慣れているように、不動も男との行為に既に慣れていた。初めて交わる時から、不動は痛みを噛み殺しながらも、未熟なこの身体で久遠自身を飲み込んだ。後は身体を重ねるに従って久遠の肉体を自分の身体に馴染ませ、快楽を追い求めるようになった。一度、口で含みながらニヤニヤ笑いを浮かべ久遠のそれを大きいと褒めたことがある。一体誰の持ち物と比べられたものか、問い質したことはない。 両足を抱え上げると、圧迫感と悦楽の狭間で不動はやはりニヤニヤと笑う。 「体力もつのか?」 それには行為で答えてやった。不動はぐっと久遠の首に掴まり、瞼を伏せた。眉根がわずかに寄り、それは苦しそうでもあったが唇から漏れる声は今にも理性を手放しそうな甘いものだった。 まだだ、と久遠は思う。不動が縋るもののない不安と落下の恐怖のように感じている深い快楽に至るまでは、まだ…。 何もここでと意地を張る必要はない。久遠はちらりと曇ったガラスの向こうのベッドに目を遣る。 「余所見…するんじゃねーよ……」 湿った囁きを漏らし、不動が肩を噛んだ。 空調が利き過ぎていて目が覚めた。喉が渇いていた。ペットボトルは二本とも空だった。 ベッドでの交わりの後、不動はふらふらになりながらもコンビニの弁当をたいらげ、炭酸水を久遠の分まで飲み干して眠りについた。 プラスチックの容器の上に残ったのは栄養のまったく残っていなさそうなキャベツの千切りとミニトマトが二つ。久遠はミニトマトを口に放り込み、黙って咀嚼した。 時計は午前四時を過ぎていた。改めて寝る気にはなれなかった。久遠はうがいをして口の中の乾きを抑えると、エアコンの温度を下げた。鞄の中にはまさか使うとは思っていなかったパソコンが入っていた。彼はベッドの端に腰掛けてノートタイプのそれを開き、何をするか悩んだ末、結局年賀状を作り始める。 去年の住所録に新しいものを追加する。開いたドキュメントの中には代表選手の名簿もあった。久遠はじっとそれを見つめ、データをインポートするか悩んだ。 不動の名前を見た。彼の住所は愛媛県のそれが入力されている。 とん、と背中を叩かれた。振り向くと不動が足で背中をつついていた。 「何、してんの……何時…」 時計の数字を読み上げると、はっえーじゃねーか、と低い声で唸る。久遠は再びパソコンに向き直った。すると、また爪先が背中をとんとんとつついた。 「で、何してんの」 久遠が答えないので、不動は渋々起き上がり背中から画面を覗き込む。 「年賀状…?」 「礼儀だ。仕事の一つだ」 「それ礼儀じゃなくてもう義務だろ」 不動はあくびをしながらベッドから下りると、あー、あー、と声を出しながら久遠と同じようにうがいをしにいった。やはり喉が乾燥していたようだ。 ベッドに戻ってきた不動は、暑いと言いながらバスローブを脱いだ。 「着ておけ」 久遠が言うと、何で、とニヤニヤ笑いではなく素朴な疑問のように口に出す 「見慣れてんだろ?」 しかしわざとらしく背中に裸の身体を押しつけてくる。 「年賀状とか、面倒くせえな」 「お前は出さないのか」 「出す相手がいねーよ」 「両親には」 「電話すれば済むじゃねーか」 声から、顔も若干歪んでいるのが分かる。 「年賀状とか、そっちの方が他人行儀だっての」 「私には?」 たわむれでありながら危険な問いだと思った。いつもの自分なら口に出さなかったに違いない。寝起きで警戒心が緩んだか。 不動は、あんたに年賀状…、と呟くと後ろから首筋に顔を押しつけくつくつと笑った。超ウケる。 久遠は選手名簿を取り込むのを止め、エクセルを閉じる。目の前に残ったのは去年の住所録に響木と鬼瓦の名前を加えたものだけになった。彼はそれを保存し、ソフトを終了させた。 「あーあ、消しちゃった」 不動はごろりとベッドに横になる。 しばらくじっと黙っていたが、パソコンが終了の音を鳴らして沈黙すると、あんたさ、と呼びかけた。 「来月どうすんの」 「教員採用の話が来ている」 「来年から」 「そうだ。来月には身の振り方を決めなければならない」 「で、俺を呼び出してセックスする暇はねえって訳?」 不動は冷えた目でこちらを見ていた。 「…お前はどうだ?」 「大人が子どもに訊く科白じゃねーだろ」 不動は身体をしならせベッドから飛び降りるとガラス張りの浴室に消えた。彼は乱暴な仕草でシャワーを浴びた。湯気はわずかに立ち上るだけで、不動の裸体はベッドに腰掛けた久遠からもよく見えた。 振り返り、不動が歯を剥き出しにして睨んだ。手がカランを回した。大量の熱い湯がシャワーから降り、もうもうと立つ湯気はとうとう少年の細い身体を隠した。 五時を過ぎたところでホテルを出た。不動を地下鉄の始発に乗せるためだった。寮まで直接送ってやることはできない。 県道脇の景色は視界を遮る建物もなく、荒涼としていた。枯れ草の上には霜が降っていた。不動は車の窓を開け、冷たい風に顔を晒した。 「あ」 ふと思考の空白に投げかけられるように不動の声がした。 「月」 受け月が、深い藍に染まった東の空に昇ったところだった。 不動は流れる景色に向けて白い息を吐いた。久遠は首筋をぞくりとさせながら、夜明け前の街へ向かって黙って車を走らせた。
2011.2.15
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