淡水魚
その細い少年の身体をかき抱いたのは一度ではない。 久遠の罪であり、若い魂の堕落だった。監督と選手という本来なら侵さざる線を踏み躙ったのだ。久遠はその身体に快楽を教え込んだ。不動は恐怖と憎悪ではちきれんばかりだったその肉体になおも貪欲に与えられる悦楽を飲み込んだ。 いざ、たまへ。宮の御使にて参り来つるぞ、と幼い少女を謀り見事盗みせしめた光源氏の科白を思い出すに、教師時代これを娘と同じ年頃の生徒たちに読んで聞かせながら内心呆れていたものを、今では似たようなことをしたかと思う。 不動は靴を脱ぎ、靴下を投げ捨てるように脱ぎ捨て砂浜の上を駆ける。久遠はそれを後ろからゆっくりついて歩きながら目を細めて眺めた。足はわざと波に掴まり、不動は十一月の海の冷たさに歓声を上げる。鋭く空に響くそれは悲鳴にも似ていた。 砂の他には何もなかった。浜は遠浅でどこまでも広がっていた。波に濡れた砂は鏡のように薄曇りの空を映す。不動の足は白く、その上を跳ねた。 不動の肌がサッカーのため常に日の下を走り回っているにも関わらずそれでも白いのは地のものだ。久遠は少年の身体のどこまでも白く、鬱血の赤い痕を浮かび上がらせる肌の滑らかなのを知っている。いざ、たまへとばかりにベッドに引き寄せたのは他ならぬ久遠だ。 サッカーだけを目的として踏んだはずの南海の孤島の、他の子ども達が寝静まった夜の下、自分の部屋を訪れた不動は黙って服を脱いだだけだった。全ては久遠の手に委ねられていた。彼が守ったのは理性ではなく、仕事半ばの机の上だけだった。 久遠は煙草を取り出し、掌で風を遮りながら火を吸いつけた。マッチの燃え殻を放るとそれは濡れた砂の上で一瞬断末魔の声を上げたようだが、風に飛ばされ久遠の耳には届かない。 不動は砂の上にしゃがみこんでいた。波が時折足先を濡らしては引いてゆく。不動は指を伸ばし、砂の上の何かに触れていた。 魚の死骸だった。 鱗が剥げ、骨が覗いていた。不動は真円を描く魚の目を人差し指でつついていた。それはわずかに濁って、もうどこも見てはいない。不動自身も、そうしながらどこか放心したように見えた。 綺麗に剃り上げられた頭を見下ろしながら久遠は思う。ベッドの上でのみだりがわしい行為は合歓でこそあったが、営みというには想いが伴わなかった。今ではどうだろうか。 本当は自分の関わるような用事など、不動がこの先もサッカーで功績を挙げ続け自分が監督という地位を保たない限り生まれるはずもなかったが、それを謀り人の視線のない冬の海まで連れ出した。 いざ、たまへ。 灰を落とすと不動が顔を上げ、顔をしかめる。 「煙草」 目が釣り上がる。 「吸うのかよ」 久遠は答えず、短くなったそれを携帯灰皿の中で押し潰す。 すると不動は立ち上がり、自分の身体を撫で回し始めた。生臭い、魚の匂いがした。死臭とも言うのかもしれなかった。わずかに甘いと思った。 不動はポケットから煙草を引っ張りだしたが、こちらの懐事情を察してくれたのやら、アウトローの割りに海へ煙草を投げ捨てるのは気が引けたか、それを元あった胸のポケットに戻し、ぽんぽんと掌で叩いた。 上着から見つけ出したのはマッチだった。彼はそれを久遠から取り上げて、得意顔で歩き出した。 日が傾きかけていた。西の果ては雲が晴れ、景色は唐突に茜の色を帯びた。不動はまた歓声を上げて走った。久遠は魚の死骸を足元に佇んでいたが、不動が戻る様子がないので、またゆっくりと歩き出した。 ふと呼吸が易くなる。風が弱まり、耳にはいっそう波音が重なる。 夕凪の時刻。 水平線の上に夕日が顔を見せたのはわずかな時間だった。寒さが夕闇と共に忍び寄った。その中で、小さな明かりが灯った。 マッチを擦る音が久遠にも聞こえた。燐の燃える、鼻をつく匂いも。不動はマッチを擦るとそれが指先近くまで燃やすまで抓み、ぱっと海に向けて放った。火が燃え上がるたびに照らされる横顔は、美しく微笑んでいた。それは幸福な笑みではなく、傲慢な者による自信たっぷりのそれだった。 不動がマッチを全て擦って捨ててしまうまで、久遠は新たに生まれる火と、柔らかなそれが海の水面に消える様を眺めていた。不動はまるで全能者のような優雅さと貴族的態度でそれを為した。発光する白と淡い橙の火。それは不動の手の中で命のように燃え、人と同じ儚さで消えるのだった。 「今夜は…」 久遠ではなく、暮れなずむ水平線に向かって不動は言った。 「ここでしようぜ」 「寒いぞ」 「寒いのが何だってんだよ」 不動は振り向き、困った子をたしなめるような顔で笑った。 「ここで、してえんだよ」 「風が吹きさらす場所で?」 「そう」 「浜辺で」 「そう」 「濡れた岩陰で」 「そこであんたに抱かれてえの」 今、口で何と言おうと久遠は不動の言葉を叶えるに決まっていた。不動の欲求は彼自身の欲求でもあった。不動が抱けと言えば抱くし、キスをしろと言えばするし、出せと言われればコンドームなしで射精もする。そして殺せと言われれば、戸惑うことなく不動の細い首を絞めるのだ。 テトラポッドの影で交わった。後ろからのしかかると、不動は泣いているかのような声を上げた。久遠はキスと一緒に不動の首筋に顔を埋めた。潮風に吹かれて駆け回った不動の首筋からは、しかし水道水の匂いがした。クロールカルキ、石灰の…。 その夜はホテルをとった。シャワーで身体を洗い流した不動の身体を、久遠は舐め回した。初めは戯れな笑い声を上げていた不動も、次第に鼻にかかる声で久遠を求めた。 シャワーの残り香、なめらかな肌。久遠は食するつもりで不動の太腿に歯を立てた。不動は悲鳴を上げた。久遠の耳を鋭くつんざくそれは、歓声にも似ていた。
2011.2.12
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