秋、フラジール







 最初に感じたのは懐かしい風の匂い。雪の降る前の、きんと冷たくて鼻先を痺れさせる澄んだ空気。まだ十月なのに、と思い空を見上げるが今日の東京は天気予報で言った通りの秋晴れで、日差しはあたたかいほどだ。
 目の前の信号が青に変わる。人の流れに逆らわず明王も歩き出す。明日はオフだが今後の試合のことで監督に話したいこともある。明後日の練習の時でも構わないだろうか。
 ぼんやりと雑事を頭に浮かべ、周囲の景色もろくに見てはいなかった。
 しかしそれが。
「明王君」
 その一言で全て明澄になる。
 頭に涼しい風が吹き渡り雑事を吹き飛ばす。自分を取り巻く景色が一瞬にしてクリアになり、もう少しで渡りきる横断歩道や、点滅を始めた歩行者用信号の青い光、全てが目に飛び込んでくる。
 そして振り向かなくても既に分かる。そこに誰がいるのか。
 明王は振り返る。人の絶えた横断歩道の反対側に細身の女性が佇んでいる。長い髪が風に揺れ、軽くはおったカーディガンが今にも肩からずり落ちそうになっている。
「冬花……」
 不意に冬花の足元がふらつき、明王は既に信号の赤に変わった横断歩道を引き返す。急ブレーキをかけた車から腹立ち紛れのクラクションを鳴らされるが無視。反対側まで渡りきると、大きく目を見開いた冬花の前に立つ。
「…冬花?」
 冬花は小さな声でもう一度、明王君、と呼びふらりともたれかかった。明王は咄嗟にその肩を支える。そしてその細さに驚く。痩せている? いや女の身体はこんなに細かっただろうか。
 周囲から視線が集まる。その中には明王が何者であるか知って見ている視線もある。明王は冬花に声をかけ自分の足で立たせたが、彼女の足元はまだふらついていた。
「何があった」
 目の前の冬花は朝から家を出たままの姿だった。ただ、バッグを持っていない。
 いや、と明王は思う。バッグを持っていないのがおかしいんじゃない。この時間にこの格好で街中にいることがおかしいのだ。冬花は都内の大学病院に勤めている。確かにもう少しすれば夕方になるが、この時間はまだ院内の制服を着て仕事をしていなければおかしい。
 冬花は曖昧に首を振る。午後の光に照らされた肌が透けるように白い。
「仕事はどうした」
 尋ねると、今度は首を横に振った。
「…逃げてきちゃった」
 細い声で冬花は言った。それから白い指先で明王の腕を掴み、名前を呼んだ。
「私、怖くて、逃げたの」
「…何から」
 冬花は目を伏せ、細く息を吐く。
 コツ、コツ、と篭った音がした。明王は何かと耳を澄まし、足元のその音に気がついた。
「冬花?」
 伏せられていた瞼が開き、視線だけで冬花は明王を見る。
 踵を二度、打ち鳴らす音。
 その時初めて明王は、冬花がナースシューズのままなのだと気づいた。
 咄嗟に明王は冬花の手を掴み、店の立ち並ぶ通りへ足早に引っ張った。
 靴屋に入っても冬花はぼんやり佇んでいるだけだった。明王はウィンドーに飾られていたサンダルを指差し、冬花に履かせた。勘定をすると、ナースシューズをどうするかと店主が尋ねる。捨ててくれ、と明王は冬花に聞こえないように言った。
 店の表で、冬花はやはり所在無く佇んでいた。
 明王は手を差し出した。冬花の眼差しはようやく意思を取り戻し、差し出された手をそっと握った。
 スローテンポで歩き出す。ビル街に背を向けて、黄葉した銀杏やポプラの並木が誘うままに、ただ歩き出した。

 長距離バスの停留所で待っている。乾いた風が埃を巻き上げ、時々目を細める。太陽は雲を透かして黄色い。午後三時。もう夕方のようだ。
 冬花はずっと俯いていて、ただ握った手の感触だけがその存在を繋ぎとめているかのように、隣にいる明王にさえ希薄な印象を与える。風がカーディガンの袖を揺らす。時々下からスカートが捲れ、膝のあたりまで露わになる。白い臑、白い膝。買ったばかりのサンダル。
 ベンチには腰掛けず、ただ佇んで待っている。どこか遠くへ。古い歌の歌詞のように二人を知らない場所へ。彼女を知らない、彼女も知らない場所へ。誰でもなくただの冬花になって眠れる場所へ。
 風はひっきりなしに雲を流し、しかし雲の薄い場所から覗く空も青ではなく薄い水色で、埃っぽい薄灰色の雲を透かしては白くしか見えない。
 古い映画のような風景の中を、古い歌のように逃げ出すには社会的存在となってしまった二人だが、今佇むこの停留所脇に人は二人の他おらず、肩書きは全く不要のものだった。
 しかし抱き締めるには早すぎた。まだ逃げおおせた訳ではない。街から抜け出すにはいずれやって来るバスに乗らなければならなかった。そのバスに乗るまで彼女は俯いて己の存在を希薄にし――彼女自身の意識からさえ消してしまわなければ立っていることさえできないのだった。
 手を握っている。冷たい手だ。白い、手。この手が今まで誰に、何人の手に取られたのか明王は詮索するつもりもなかったし関係ないと思った。それは今穏やかさの反面強烈に感じる優越だった。彼は今消え入りそうな冬花を繋ぎとめているのが自分だけだと穏やかな感情の下で血流の巡るスピードで思った。

 バスの二人掛けの座席でも、冬花はずっと手を繋いでいた。首は窓に向けて傾けられ瞳は流れる景色を意思なくぼんやりと映していたが、指先には手を繋いでいようという意志が宿っていた。彼女は手をほどかなかった。絡みつく冬花の指に、明王も自分の指を絡ませた。
 固く繋いだ手は二人の間に横たえられ、会話はなく、バスの揺れにまかせるまま時々うとうとした。傾く日に照らされ、砂埃の舞う景色は淡い色に霞んでいた。
「雨が」
 不意に掠れた囁きが冬花の唇から漏れた。
「降るわ」
「マジ?」
 明王は横目に冬花を見て尋ねる。彼女は瞼を閉じ、囁いた。
「嘘よ」
 乾いた風が窓を打つ。巻き上げられた砂が車体に当たり、パチパチと小さな音を立てた。
 明王は軽く反らされた冬花の首を見た。白く、細い女の首だ。しかし何という衝動も今は起こらなかった。明王の意識はただ冬花と繋いだ指や手のひらに向けられた。指先の意志。わずかに触れる爪の感触。
 マニキュアを買ってもいい、と思った。何色でも、冬花に似合うなら。俺が塗ってやっていい。もし彼女がそれを嫌だと言うなら――しかし絶対そんなことは言わないだろう――彼女自身が塗る様子を眺めていよう。
 ただの思いつきだった。悪くはない、と思い明王も瞼を閉じた。

 夜になって辿り着いたそこが新婚旅行の王道として賑わっていたのは一昔も二昔も前のことで、すっかり寂れた街の外れの、かつて多くのカップルが記念写真を撮ったのであろう海の側の記念碑の前に二人は佇んでいた。勿論、目の前にカメラがある訳ではなく、携帯のカメラ機能を駆使しようというのでもない。停留所から明かりのある方へ歩いたら、たまたまそれがあっただけの話だった。
 冬花と明王はいまだしっかりと手を繋いでいた。既に手を繋いでいることは二人にとって当たり前になっていた。今更ほどくという思考にさえ辿り着かなかった。
「熱海って」
 明王は口を開く。
「殺人事件だろ?」
「金色夜叉よ…」
 冬花は答え、しばらくして、ああ…、と吐息をつく。
「つかこうへい」
 明王はそれを知らなかったが、黙っていた。船越英一郎ではなかったのだな、と何となく思った。
 財布の中身は贅沢というほどでもなかったが、カードもあることだし旅館を選ぶことはできそうだった。
 海沿いを歩こうとしたが、視界はすぐにホテル群に遮られる。
 くっ、と手が引かれた。冬花の足取りが遅い。明王は立ち止まり、二歩遅れた冬花を振り返った。冬花はサンダルの踵に手を当てていた。街灯の下、買ったばかりのサンダルの紐が薄い肌を傷つけていた。
 明王が手をほどこうとすると、冬花は手にぎゅっと力を入れて抗った。そこで言葉にして伝えた。
「おぶってやるよ」
「…悪いわ」
「それ本気か?」
 冬花は大人しく明王の背におぶわれた。指先にサンダルが引っかかっている。冬花はまた俯いていた。吐息が時折明王の首筋をくすぐった。

 ホテルと名はついているが純和風造りの建物は事実古いものらしく、明王は台帳に記入する。苗字が同じなのを見て受付の老婆は年寄りらしい遠慮の無さで
「ご夫婦で」
 と尋ねる。
 流石に兄妹には見えなかったかと明王は、短く肯定の返事をした。入り口に腰掛けて受付を待っていた冬花がハッと顔を上げた。老女の視線はそれを目敏く捉えたが、わざわざ何を言うでもなかった。
「ビルが建ちまして、お部屋から海は見えませんが、そう悪くはございません。お風呂は当館の源泉でございますので、ごゆっくりお楽しみください」
 案内された部屋は、確かに窓の景色は高台から街を見下ろし、前景が敷地内の木立で、遠景のかつて海が見えたのだろうあたりはビルが並んでおり、建物のわずかな隙間に見えるのが海かとも見えたが定かではない。老女中の去った後、明王は鍵を下ろし座敷を振り返った。畳の真ん中に冬花がぼんやり座っていた。
「風呂」
 声をかける。冬花は首を傾げて明王を見、
「疲れちゃった」
 と表情のない声で言った。
 明王は室内風呂を覗いた。浴槽はプラスチックだが内装はほとんど木だ。檜なのだろう、いい香りがする。蛇口を捻ると勢いよく湯が飛び出す。少し熱めで、鼻にかおる匂いは確かに温泉独特のものだった。
「冬花」
 呼ぶが、冬花は窓の外を眺めたまま振り向かない。
 近づいても振り向く様子がないので、そのまま抱え上げた。すると流石に小さく声が上がった。
 明王はそのまま冬花を浴室に運び、木製の風呂椅子に座らせた。手桶に湯を汲む。そして踵の擦り剥けた白い足を軽く持ち上げた。
「濡れるぞ」
 言うと、冬花はスカートの裾を手繰った。
 冬花の足に触れるのは初めてのことではなかった。冬の日向、言葉のない午後、明王は戯れな触れ合いを試み、彼女も静けさのうちにそれを受け容れた。
 今、冬花は白い臑を全て晒して、熱い湯と明王の手を受け容れていた。明王の手は足の指の間まで丁寧に洗った。彼女は足の甲に自分の細い骨があるのを、撫でる明王の手に知った。足の裏の形も、足の指の長さも、今初めて教えられるかのような気持ちだった。
 最後に湯で流され、彼女は吐息と共に明王を見下ろした。彼はその視線にニヤリと笑みを返す。
「風呂、入る気になったか」
 冬花は一つ頷いた。すると明王のニヤリはわずかに緩み、彼女はたった今自分の足を洗ってくれた男が安心したのだと知った。

 冬花の入った後の風呂で、明王は肩まで湯船に沈みながらようやく冬花に何があったのかに考えを巡らせた。
 ずり落ちかけていたカーディガン、ナースシューズを履いたままの足。
 恐くて、逃げた。
 彼女にとって恐怖の記憶とは、実の両親を亡くした時のものだ。それを取り戻す転機は二人が出会った頃にあったが、明王はまったくそれに感知していない。キーパーソンは円堂であり、彼が心を閉ざそうとした彼女を光の世界へ連れ出したのだ。これに関しては今更自分の出る幕ではない。
 細い肩。冷たい手。真新しいサンダルに傷ついた足。
 冬花の声は儚く囁いた。
「逃げた、か…」
 おおよそ今明王の知る彼女の言葉としては相応しくなかった。
 ここに辿り着くまで彼女の発した言葉はそれと、意味の無い嘘と、明王の知らない作家の名前。
 風呂から上がった明王は脱衣場で浴衣を羽織る間、襖一つを隔てた向こうにちゃんと冬花がいるだろうかと疑った。今の彼女は雪のように儚い。
 襖を開ける。電気の点いていない部屋の中、窓が明るかった。欠けた月が昇っていた。畳には細い影が差していた。冬花の姿は細いシルエットとなって佇んでいた。浴衣は足元に落ちていた。
 明王は一瞬凍りついたが脱衣場の明かりを消し、襖を閉めた。そして自分がこの部屋の扉に鍵をかけたことを改めて思い出し、間抜けなことをせずに済んだと胸を撫で下ろした。
「私、いつまでもこのままでいたいと思っていたの」
 いつもか細い冬花の声は常ならば月明かりの下にあれば美しく響くはずが、まるでプラスチックのかけらを落とすかのように硬く妙な質感をもった。
「ありきたりな科白だけどよ」
 冬花の白い背中に向かって明王は言う。
「変わらないものなんてあり得ねえよ。俺だって…」
「ええ、私だって」
 冬花は明王の言葉を遮る。明王は黙って冬花の言葉に耳をすませた。
「容赦のない変化も、人生が自分を待ってくれないことも知ってるの。でもお父さんと明王君がいると、まるで…」
 細い腕が裸の肩を抱く。
「まるで世界中の嵐から私を守ってくれるみたいで、私もそれを守りたかった。同じような毎日を壊したくなかった。ご飯を作って、洗濯して、夕飯は必ず一緒。それでも足りないの。私、怖い。三人でいれば怖くなかった。怖くないことに気づかないくらいに。だから今とても怖い……」
 言葉が途切れ、静かな波の音がホテルまで届いた。わだかまった浴衣を足下に佇む冬花の身体は細かく震えていた。
「結婚してほしいって言われたの」
 彼女は冷たく棒読みにその言葉を吐き出した。言葉そのものが部屋を冷え冷えとさせるような気がした。しかし明王はそれに縛りつけられることなく、彼には慣れた皮肉めいた笑みを浮かべた。
「…お前は?」
 明王が声をかけるとぴりっと電流でも走ったかのように肩が跳ねる。
「お前と結婚したいって奴のこと、お前はどう思ってんの」
 言いながら苦笑する。好きではない、という即座の否定を無意識に待ったのだ。
 しかし冬花は答えなかった。明王は溜息はつかなかった。ただ冷静であることだけに努めた。
「自分に正直になればいいじゃねーか。それでいいんだよ、俺も、道也も」
「あなたも?」
 か細い声。しかし初めて聞く声。
「私があなたを好き…と言ったら」
「…それ、仮定の話か?」
「あなたのそばにいたい」
 肩を抱いていた腕がほどけ、祈るように握り締める。冬花は顔を伏せ、握り締めた手の上にそっと囁いた。
「ずっと、あなたのそばにいたい」
 明王の近づく足音は聞こえただろう。しかし彼女は動かなかった。震えを止め、静かに待っていた。だから明王の手がその肩に浴衣をかけてやってすぐに離れた時、冬花は思わず振り向いた。
 視線は強く絡み合った。手を離した明王を冬花はまるで憎みでもするかのように強く睨みつけた。明王はよほどそれを流そうかと思ったが、彼女の瞳の真剣さは彼の胸のうちにも抑えていた感情を呼び起こした。
「お前は誰の物でもねえよ」
 自制の利いた低い声で明王は言った。
 冬花は憎むような視線の下から失望を含んだ笑みをわずかに覗かせ、言った。
「明王君が自分の物にしてくれればいいのに…」
 手を伸ばしても、冬花は拒まなかった。その手が細い首を掴んでも、だ。もし明王が本気になってその細い首を折ろうとしても、やはり拒まなかっただろう。
 明王は冬花の肩に引っかかった浴衣を掴んで彼女を引き寄せた。
「…これから大慌てで布団敷いて、窓の障子閉めて、そんなの馬鹿らしいじゃねえか」
「本気でそう思う…?」
 本気だと答えると、冬花は明王の肩に額を落とし、真面目な人、と囁いた。

 うつぶせに横になる冬花の裸の背中を撫でると、彼女の背骨も肋骨も美しいのだと明王は実感して、それをそのまま言葉にした。冬花はとろんとした視線で明王を見上げ、声なく笑う。
 月明かりが淡く滲んだ。遠くから雨音が駆けてくる。二人は一緒に窓の外を見た。月が隠れ、木立を雨が叩くとぱらぱらと軽く心地よい音がした。
「子守唄みたいね」
 冬花が呟き、明王は彼女の隣にもぐりこんで布団を肩まで引き上げた。冬花は自分が抱いていた枕を彼の頭の下に敷き、自分は明王の腕を首の下にあてた。
 近い距離で顔を見合わせ、二人は秘密めかして笑った。冬花は少し泣きそうになっていたので、明王は鼻の頭をちょっとかじってやる。冬花はきょとんとした顔で噛まれた鼻をちょっと指先で触り、それから同じ指先で明王の唇に触った。
 雨音は子守唄のようだった。雨と雲が障子を開け放したままの部屋を穏やかな夜闇の布団で包んだ。
 先に瞼を閉じたのは冬花だった。その目元に、緊張のない口元に安心できるものを見出し、明王もようやく自分の瞼を閉じた。

 朝からひどく空腹だった。二人ともそうだったが、冬花は特に腹を減らしていた。彼女が昨日の昼食から摂っていないことを、その時初めて明王は知らされた。
 冬花を叱る明王の態度は久遠道也によく似ていた。だから冬花は怒られてもちっとも堪えた様子は見せず、笑ってばかりいた。老女中が気を利かせておかわりを持ってくる。
 外はまだ小雨が降っていた。ゆっくりくつろぎ、雨が止んでから外へ出た。
 秋の平日だが浜には思いの外、人の数があった。
 冬花と明王は今日も手を取り合い、ゆっくりとした歩調で道を歩いた。真新しいサンダルは昨日よりは少し冬花の足に馴染んでいた。
「もっと色んなところに行きたい」
 冬花が小さな声でねだった。
「どこ」
 明王は短く尋ねる。
 すると冬花は立ち止まり、サンダルの踵を二度打ち合わせた。明王は苦笑する。
「今度は、お前が手を離そうとしても俺が手を離さないんだ」
 繋いだ手を強く握り締める。
 海風が強く吹き、冬花の髪をばらばらと乱す。冬花は風の吹いてくる方に顔を向けた。明王も目を細め、ちらりと海を見た。灰色の水面に、雲から顔を覗かせたばかりの日がちらちらと銀色の光を落としている。
 二人は改めてお互いの顔を見た。明王の耳にピアスが光るのを冬花は眩しそうに見つめた。彼女は乱れて顔にかかる髪を指先でかき上げ、微笑んだ。
「好きよ、明王君」
 明王はそっと手の力を緩めた。二人の指は自然と絡み合い、しっかりと組み合わさった。
 ゆるやかな歩調で、二人はまた浜辺を歩き出した。その姿は秋のあたたかい日の下でたわむれる他の観光客の姿ともよく馴染んでいて、彼らが誰であるかをそこにいた誰も気にしなかったし、いつのまにか二人がいなくなっていることにも気づかなかった。
 空は次第に晴れて、雨が埃を拭った後の清々しい風が吹いた。この日の夕焼けはきっと美しいものになるだろうと思われた。海は今やきらきらと、そのきらめきを隠さず輝いていた。



2011.2.8