春、台風より速くあなたの声を







 アパートの四階まで上る螺旋階段が永遠に続くような錯覚さえ覚えて明王は半ばで座り込み額を膝の上に乗せ、腕で頭を抱えた。あのシャンパン。勝利の美酒。五月の気持ちのよい宵の匂いも遠ざかり、自分の胃から湧き上がってくるのは不穏な気配だけだ。吐くのだけは勘弁したいな、と冷静さを保つ脳の一かけらで思う。管理人に怒られるだけではなく、コッパ・イタリア優勝の夜に似つかわしくない醜態とすっぱ抜かれるだろう。勝利を祝うシャンパン。うう…と小さく獣のように唸り、また脳の一かけらが冷静に自分を叱りつけた。飲み過ぎたんだ。
 パーティーには関係者だけではなく得体の知れない人物も紛れ込んでいた。と言うか会場の外も、ローマ中が数年ぶりの優勝に沸き立っていたのだ。
 チームメイトの一人が、泣いているのか、とからかった。確かに決勝点へのアシストはしたがそこまで涙腺を緩めてはいない。適当にあしらおうとすると、強がるなよ、とチームメイトは肩を組んだ。
「目が真っ赤だぜ?」
 確かに目の縁が赤く染まっていた。こういう自分が他人からどう見えるか、明王はよく知っていた。オリエンタルな魅力を明王に見出すのは何も彼のプレーに魅入られた人間だけではない。ただ優勝の夜にまで我が身の安全を云々などと考えるのは野暮なようだったし、近くにはチームメイトもいた。だから尻を触られたのに対して、手にしたシャンパンをひっかける程度はいつもの喧嘩っ早さから考えれば随分マシな方だったかもしれない。しかし相手が地元の有力者でスポンサーだった日にはそれを一気にマイナス値まで下げるような出来事であり、隣のチームメイトがふざけて自分の頭にもボトル一本分のシャンパンをかけてくれなければあの場を笑いで収束させることはできなかっただろう。まったく、キャプテンには感謝だ。
 しかし今、酔いは度を超えて明王に襲い掛かっていた。暗い螺旋階段の半ばで蹲り青い顔をしているのは、コッパ・イタリアを制したチームのミッドフィールダーと言うよりただの酔っ払いだった。
 部屋に戻って、と明王は考える。シャワーを浴びる…アルコールの匂いを落とす…、その前に便座の上に屈み込んで吐くしかないのか? あと二階分階段を上がるまで我慢できるだろうか。畜生、優勝の夜になんでこんな…。あそこで尻を触られなきゃ…いや尻を触られるくらいいつもならもっと上手く対処できた。浮かれて感情的になっていた? 感情的なのはいつものことだ。何だろう…クソッこんな気分のいい夜に。
 明王は深く息を吐き、自分の息の匂いに再びむかつきを覚えるがどうにか耐える。シャワー、すっきりして、それから…電話だ。日本に電話をかける。声を聞きたい。つうか今すぐあの家に飛んで行きたい。何で時差が八時間もあるんだ!
 …起きてるかな、と考えたところで少し落ち着いた。早朝…で、木曜日。二人とも仕事だ、多分。だから今日の試合は録画で観るんだろう。結果だけは速報で、多分ニュースサイトからでも。それから朝の忙しい時間だって多分メールをくれる。二人ともそんな人間だ。道也も、冬花も。
 腕を下ろし、もう一度息をついた。階段をぐるりと半周した先から淡い夜明かりが射しているのが見えた。喉の奥まで何かが迫る気配も、一応の落ち着きを見せていた。明王はようやく身体を起こし、手すりにもたれかかるようにして残り二階分の階段を上った。
 部屋の前で鍵を取り出すが、手元が狂い一度落としてしまう。鍵穴にさそうとしてもう一度。顔を歪めるが、悪態と一緒に反吐も出てしまいそうだったので我慢する。次は落とさなかった。ドアの隙間から部屋の中に落ちるように入ると、後ろ手に錠を落とし浴室に駆け込む。結局パーティーで食べた上手い料理もシャンパンも全部吐いてしまった。
 シャワーの水で吐瀉物を洗い流し雨のように打ちつける水の下に頭を突っ込むと、また脳のどこか一かけらが覚醒して、まあ頑張ったよ、と空疎な慰めの言葉をかける。頑張っただと? 優勝パーティーの夜に、決勝点のアシストをしたこの俺が?
 酒くさい服を脱ぎ捨て全身を冷たい水に晒す。鏡を覗くと、まだ目の縁がほんのりと赤かった。鏡に向かって拳を一つくれ、水滴をしたたらせたままベッドに向かう。途中で電話を拾い、コードをずるずると引き摺る。
 目の前にベッドが迫るともう我慢がきかなかった。明王はそのまま正面からベッドに倒れこんだ。足元で電話が音を立てた。受話器が外れていた。明王は腕だけを伸ばしベッドの下にひらひら彷徨わせたが、なんとか受話器を掴むことができた。しかし本体を引き寄せなければダイアルすることができない。
 全ての動きが緩慢だった。既に疲労の質は何なのか分からなくなっていた。試合にフルタイム出場できた肉体的疲労だって勿論あったし、さっきから何度も繰り返しているあのクソ野郎という罵倒しかり。間違えずにダイアルできたのは三度目。
 日本の時差は八時間で…ちょっとまて今日は何月何日だよ。サマータイムがあるから…畜生、何時だって構いやしない。頼むから電話に出てほしい。俺のワガママをきいてくれ。優勝決定戦で決勝点をアシストしたこの俺の。
 少し明王を待たせたベルは、はいはい、もしもし、というちょっと慌てたような女の細い声に報われる。
「道也…?」
『冬花です。…明王君? 明王君でしょう?』
「優勝したぜ…」
『さっきニュースで見たのよ。おめでとう! 明王君がチームにいるから、こっちのテレビの普通のニュースでも優勝のことを言ってるのよ。ちょっと待って、お父さんね。どうして私をお父さんと間違えたの…?』
 最後の方は笑いながら冬花は言った。受話器が受け渡されるわずかな沈黙が挟まって、低い声が明王と呼ぶ。
「冬花…?」
『久遠道也だ。どうして冬花の声と間違えるんだ。…わざとか?』
「…わざとに決まってんじゃねーか」
 そう言いながらようやく明王に笑顔が戻る。
 久遠は、試合は今夜見せてもらう、と言い、よくやったな、と低いしっかりした声を届けた。明王はその瞬間、身体中の骨が溶けたかと思うほどぐにゃりと脱力するのを感じた。
「冬花…」
『冬花に換わるのか』
「そう、だけどちょっと待て、あのさ、もっぺん言えよ」
『何を』
「褒めろ」
『ローマ中がお前のことを褒めただろう?』
「頼むぜ道也…」
『…よくやったな、明王』
 また沈黙。上の方から受話器を手渡されたらしい冬花の声。くすくす笑い。
『…ナイスアシスト、明王君。格好良かったわ』
「もっと褒めていいんだぜ」
『録画を見たら、また電話するわ』
「他には?」
『電話くれて嬉しかった。……ねえ、明王君泣いてるんじゃない?』
「泣いてねーよ」
 くすくす笑いながら冬花が歩いている気配がする。ねえ、明王君、と冬花が呼びかける。
「なに…?」
『大好き』
 直後に受話器を塞いだようだが、篭った声で、次はお父さんの番よ、と聞こえた。
『明王…』
「…やめろよ、あんたら朝から恥ずかしくねーの?」
『お前から電話しておいて』
 久遠もかすかに笑ったように聞こえた。
『次の帰国が楽しみだ』
「…好きって言ってくれねーの?」
『こちらの夜に電話する』
 受話器を電話の上に落とし、溜息をつく。もうそんなに寒いようには感じていなかったが、身体はすっかり冷えていた。シーツの間に身体を滑り込ませると散漫な思考が蘇った。明日の予定。キャプテンに顔を合わせた時に言うべき第一声。携帯電話のありか。多分、脱ぎ捨てた服と一緒に浴室の床に落ちているだろう。朝食は? 明日は何時に起きればいいんだっけ?
 枕元の時計は深夜少し前だ。大丈夫だ、多分いつもどおりに起きられるだろう。それでも少し不安で目覚ましをセットした。
 道也と冬花の声が今夜の蹴飛ばしてしまいたい事実諸々を拭い去ってくれたかと言うと、まあ忘れ去ってしまうことまではできなかった訳で。しかし冬花はわざわざ大好きと言ってくれて、道也は明日(日本では今夜)の電話を約束してくれたのだ。
 光の速度は、と明王は考える。一秒で地球七週半だから、ちょっと速過ぎる。日本なんか通り過ぎてあのケツ触り魔の豪邸に蹴りでも入れそうだ。モンスーンとかそのへんのスピードでどうだろう。時速何キロかしらないけれども。台風の移動速度がよく自転車並みだの何だの言っているからそんなに早いものでもないんだろうか。いや、季節風と台風は違う。台風ねえ。
 明王が思い出したのは十年前、久遠の養子になることを決めた日のことだった。台風の日、愛媛の部屋で一人考えたのだった。遠くからは風と波の荒れ狂う音が聞こえた。翌朝は台風が嘘のように晴れて、だから久遠に電話することを決めたのだ。
 いや、台風が理由じゃねえよなあ養子になったのは。多分、色々考えたはずなのだがよく思い出せない。勿論今眠気が襲ってきているせいもあるが、結局道也とも冬花とも今は家族なんだから。
 シーツの間に横たえた身体が自分の形をなしてゆく。同時に夢に溶けてゆく。肌の上に跳ねるのは二人の声だった。受話器越しに台風の雨音が聞こえる。台風が過ぎたらこっちから言いにいってやらなきゃな。大事なことなんだ。あれだよ、さっき冬花が言ったやつ。恥ずかしいから夜に。サマータイム。十年の時差はもう関係ない。台風が来たから飛ばされたんだよ。


 二日酔いの朝、電話で三度起こされた。
 一度は監督。
 二度は冬花。
 三度目は道也だった。明王はようやく瞼を開いたが、まだベッドからは起き上がろうとせず素裸のまま、受話器を片手に笑みを浮かべた。



2011.1.18