冬、初夢で会いましょう
いつもの悪夢を見た。 それは現実の世界で普段目にしているサッカースタジアムや練習場だが微妙に現実とは色合いが違っていて、スタジアムへ向かう道のりもバスの中もどこもかしこも暗い。影は異様にどす黒く、光に照らされた場所は眩しいほどに白く見える。明王はサッカーをしようとする。禁じられたサッカーだ。夢の中ではサッカーは禁止されている。滅びた文化の一つになっている。夢の中の明王はサッカーを覚えていて、何とかしてその名残を探そうとする。しかし明王の職業は軍人でサッカーをすることなど決してできない。現実ではボールを追いかけて駆け回るピッチは、そこでは戦場だ。明王は肉厚のナイフを一本握り締め、銃弾の雨の下を潜り抜ける。 昨夜は狭い通路をどこまでも走った。真・帝国学園の潜水艦の中に似ていた。追っ手を気にしながらも明王はピッチを目指していくつもの階段を上った。梯子でスピードが落ちるたびに危機はすぐ背中まで迫り、心臓がどくどくと脈打つのが聞こえた。 天井にぽっかりと丸い穴が開いていた。真っ白な光に、そこが外なのだと、緑の芝が広がっているのだと確信し腕を伸ばす。 身体を持ち上げ、穴の外に転がす。靴底が硬いコンクリートの上を擦る。何かの焦げる嫌な匂いが強く鼻をつく。眩しくてたまらないが明王は瞼をこじ開ける。 真っ黒な煙が立ち込めていて、その隙間から眩しい光が射している。足元はどろどろに溶けて焦げた人口芝で、所々でぶすぶすと燻り、まだ火も見えた。自分が立っているのはセンターサークルの真ん中だった。 明王は何故かベンチに向かって走り出す。そこに監督がいるのだ。自分の監督が。自分をピッチに導いてくれた男が。だからその男に会って指示を仰がなければならない。命令を実行しなければならない。真っ黒な煙と眩しい光が交互に襲う中を明王は走る。心臓が張り裂けんばかりに鼓動する。目が霞み、明王は何とか目を開こうとする。 重たい瞼が開いた。 見えたのは枕だった。視界が横倒しになっている。心臓は今でも苦しいほどに鳴っていた。耳元で鳴っているかのような音だった。明王は布団の中で息を整えた。周囲の気配を探った。静かだ。これが現実だ。 よく見る悪夢の続きだった。現実の人生が一日一日を重ねるように、この夢も見るたびに続いては終わりがない。生々しい、夢の中に存在するもう一つの現実。 起き出ると隣の布団ではまだ久遠が眠っていた。平生であれば起床時間ちょうどくらいだが、昨日は正月一日で忙しかったことだし、もう少し眠らせてやってもいいだろう。 布団の外は寒く明王は早く暖をとストーブに火を入れたが、一度冷たい水で顔を洗ってしまうと少しは気が落ち着いた。 台所には冬花が昨夜の内に作っていた味噌汁がある。それを火にかけ、隣で炊飯ジャーが湯気を吐くのに鼻を鳴らす。炊き上がりまではあと数分。 「おはよーあきおくん」 奥の洋間から冬花が顔を出す。背を丸め、赤いちゃんちゃんこの前をぎゅっと合わせている。おはようと返すと、まだ眠いらしい冬花はふらふらしながら洗面所に消えた。水の跳ねる音。その時、炊飯ジャーも電子音を立て炊き上がりを知らせる。 顔を洗った冬花はすっかり目が覚めた顔でやってくると、明王の前に立って深々と頭を下げた。 「昨夜はありがとうございました」 「別にいーよ。それよかあの後寝れたのか?」 「うん、ぐっすり」 昨夜不意に目覚めた明王がトイレに向かおうとして、冬花のうなされる声に気づいたのだ。家族となったとは言え同い年の女の部屋だ。久遠も父親だが勝手に入ることはしない。しかし明王はドアを開けて中に入った。鍵はかかっていなかった。 ベッドの上の冬花は苦しげに眉根を寄せ、口からは重い呻きが漏れていた。明王は枕元に跪き、冬花の名前を呼んで肩を揺さぶった。 「あっ」 冬花は小さな悲鳴を上げ、瞼を開いた。目は空を見つめ、風船がしぼむように大きな息が長く吐き出された。 「冬花」 もう一度呼ぶと視線がゆっくりとどこか恐れるように動き、明王の姿を捉えると急に潤んだ。 「あきおくん…」 「大丈夫か?」 冬花は寝返りを打つと腕を伸ばして明王を抱き締めた。 「ごめんなさい」 消えそうな声が耳元に囁かれた。明王は頭を撫でてやり彼女の呼吸が落ち着くのを待った。心臓の鼓動は明王の身体にも伝わってきた。 やがてぐったりと脱力した冬花の腕をほどく。彼女は再び眠りに落ちていた。眉根に寄せられていた皺は消えていた。 今、目の前の冬花に悪夢による疲労は見えない。しかし目元の表情は少し張り詰め、明王を見上げる。 「明王君は眠れた…?」 返事はせず、明王は冬花の眉間に触れてやった。 久遠も起き出した気配がした。明王は冬花に台所を任せ、雨戸を開けるために座敷に戻った。久遠と挨拶を交わし、布団を上げる。雨戸の向こうは晴れていた。今日は風も穏やかだと予報で言っていた。 「昨夜はよく眠れたか?」 背中から久遠が尋ねた。 「…どうして?」 「どうしてと言うこともない。初夢でもあったことだし、どうだったかと思ってな」 「あんたはどうよ」 「…いつもどおりだ」 「初夢は?」 久遠はしばらく黙り込んで斜め方向を睨んでいたが、覚えていない、とぽつりと呟いた。 朝食の席では初夢の話は出なかった。 ストーヴの上で餅を焼きつつ、テレビのチャンネルを箱根駅伝に合わせる。食いすぎると太るぞ、と冬花をからかうと、この後明王について走りこみに行くと言った。 「私も行こうかな」 久遠も言う。 「大丈夫か監督。そろそろ筋肉痛が一日置いてくるんじゃねえの?」 「サッカー監督を馬鹿にするな」 「心配してんだよ」 明王はにやにや笑いながら返した。 往路を最後まで見る前に三人は走りに出かけた。ルートに山道を選ぶと、冬花も久遠も望むところだと言わんばかりについてきた。途中で冬花が二人を抜き前に出る。木漏れ日の下を冬花の足は鹿のような軽やかさで駆けて行く。不動は久遠と並んでその後姿を追いかける。 「あんたさ」 明王は冬花の背中を見つめたまま言った。 「昨夜、気づいてたんだろ」 久遠はしばらく黙って走り続けたが不意に「すまない」と言葉を吐き出した。 「何もできなかった。…今朝もだ」 付け加えられた一言に明王は舌打ちをした。何も助けてもらえなかったことにムカついたわけではない。気づかれたのが嫌だっただけだ。 久遠は再び、すまない、と繰り返した。 「昨夜はありがとう」 「冬花は助けてやれよ。あんたの娘だろ」 「お前も私の息子だ」 「俺のはいつもの夢だからいいんだよ」 「………」 またしばらく黙って走った。冬花の背中はどんどん遠くなる。 「昔の夢を見た」 唐突に久遠が言った。 「ピッチから遠く離れ、選手も誰一人いない。私は恐怖に駆られて大声で叫ぶんだ」 「あんたが…叫ぶ…ねえ」 「夢の中ではな」 明王は昨夜の光景を思い出す。暗い影と眩しすぎる光の中を走っている。誰かを探していた。誰かを。自分を導く手を。 「監督」 呼ぶと、久遠が振り向く。 「お先」 ペースを上げ久遠を抜き去る。冬花は既に農道へ下る緩やかな坂にかかっていた。振り向き、無理するなよ!と声をかけると久遠が無理に上げようとしていたペースを落とした。明王は冬花に追いつき並走した。 「あーあ、追いつかれちゃった」 冬花が息を吐く。 「内緒話だ」 「なに?」 「昨夜の夢、教えてやる」 明王は走りながら昨夜の夢の風景を冬花に話して聞かせた。全てを聞いた冬花は走りながら息を整え、明王を振り向いた。 「今度は、私が起こしてもいい?」 返事をせずペースを上げると、冬花はそれに追いついて軽く肩を触れた。振り返れば久遠の姿は随分遠くなっていた。 帰宅した三人は早い風呂に入り、午後は日の照る縁側でごろごろと過ごした。冬花と明王が交互にマッサージをしてやると久遠は、最初は抗っていたものの気持ちよかったらしく途中で眠ってしまった。 冬花は明王にもマッサージをしてくれた。学校でも習っているらしく、上手い。お返しにと明王が揉んでやろうとすると冬花は急に照れて、結局肩だけ叩いてやった。 「夢の中でも時間が進むなら、きっと私たち夢の中でも会えるわよね」 ぽつんと冬花が言った。 「そうかもな」 小さく返事をすると、冬花が急に脱力して背中から明王にもたれかかった。 「会いに来てね明王君。私も会いに行くから。一緒にお父さんを迎えに行きましょう」 冬花の細い身体を受け止め、明王はああ、と低く頷いた。 「私たちの初夢、悪くないわ」 「…そうか?」 「そうよ」 でも、と冬花は肩を抱く明王の手に自分の手を重ねて呟いた。 「私も、起こしてあげられなくてごめんなさい」 「いいんだよ」 明王は自分の腕の中にすっぽりと収まった冬花の身体を軽く揺らした。 「会いに来てくれるんだろ」 うとうとと眠気に駆られた。二人は毛布でもちゃんちゃんこでも何でも持ってくると久遠の上にどさどさと被せ、二人して父を挟んで横になった。久遠が起きたら驚くに違いない。しかしそれももう少し後だ。 風のない穏やかな午後だった。
2011.1.3
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