夏、ダイヤの空白、クリスタルの音







 街角で流れていた曲を冬花が口ずさんでいて、よく覚えてるな、と尋ねると、耳に残っちゃった、と買ったばかりのイヤリングをつけた耳をくすぐったそうに触る。ヴェネツィアングラスの澄んだクリスタルに閉じ込められたゴールドの粒が駅舎の天窓から射す光に閃いてぽろぽろと光の雫をこぼす。そうだこんな音だった、と明王は思う。
 午後を過ぎての切符を取ったら列車は案の定遅れていて、ローマに着くのは夜になるかもしれない。夕食はどうする?と久遠に電話をかけると、待っているとの返事だった。レストランの予約を取っておこうか、と珍しく気を回した科白。そのまま冬花に伝えると彼女は首を振って、いい?と小首を傾げる。明王は携帯電話を冬花に手渡す。
「お父さん? 明王君の部屋で待ってて。帰ったら私が作るから」
 耳を澄ますと、もぞもぞとわずかに鼓膜を震わせる響き。言葉としては分からないが久遠の声。
 冬花は悪戯っぽく笑って明王を見上げる。
「お父さん、冷蔵庫チェックしてる」
「マジかよ」
「なあに?………明王君、ラフランスが腐りかけてるって」
 明王は通話口に口を近づけ「食っといて」と言った。
「お父さんはお昼食べたの? ………そう、協会の人と。じゃあ午後は暇になっちゃうね。……うん…………うん、お買い物してくれたら大歓迎。ね?」
 また見上げる冬花の視線。
「じゃあね、お父さん。もうすぐ帰ります」
 冬花の手は携帯電話を明王の耳に押し当てる。気をつけて帰ってきなさい、と優しい声が聞こえた。
「いい子で留守番してろよ」
 ニヤリと笑い明王が言うと、向こうで一瞬黙り込む気配。何かを言われる前に明王は通話を切った。
「何だ監督、結局仕事午前で終わったんだ?」
「そうみたい」
 イタリアを拠点にサッカーを続ける明王の元へお盆休みを利用して久遠と冬花がやって来たのが三日前。現地のサッカー協会へ顔を出す久遠の予定が仕事半ばという形で忙しくなってしまい、今回のヴェネツィア旅行は当初の予定を変更して冬花と二人で行くことになった。
 イタリアと日本、メールの遣り取りはほぼ毎日。しょっちゅう電話もしているが、そばにいるのはまた全く違うな、と明王はいつもより喋っていた。日本語が懐かしいというのもある。自分の感情や考えを思考のタイムラグなく口にできるストレスのなさ! とは言え、大したことは喋っていないが。
 同じものを見て、隣の冬花と同じように声を上げる。アクアアルタで水没したサン・マルコ広場を見て歓声を上げ、無理やり観光写真を撮らせようとする現地人から逃れて笑い声を上げ。ヴェネツィアングラスの土産物を見る時だけは冬花の溜息の方が勝ったけれども。
 一泊旅行はあっと言う間に過ぎ、冬花の両手だけでなく明王の両手もバッグで一杯だ。勿論全部冬花のもの。久しぶりの冬花の買い物に、明王は懐かしい疲れを感じる。本来ならば明王が案内をする立場なのに、今日半日はほとんど連れられて歩いたようなものだった。よく調べてるよなあ店とかカフェとか。
 列車はまだ来ない。冬花はまた鼻歌を口ずさんでいる。何度も同じフレーズを繰り返して、不意に歌詞が明確になる。アンジェル。ムエルテ・デル・アンジェル。
「イタリア語じゃねえな」
「そうなの?」
 ムエルテ・デル・アンジェル。冬花は繰り返し、悲しい歌に聞こえてきたわ、と呟いた。
「明日には忘れちゃうかも」
 アンジェルは天使のことだろう。悲しい天使の歌。そんな歌がどこで流れていたんだったか。サン・マルコ広場? ヴェネツィアングラスのイヤリングを買ったあの店。それとも今朝早く出たホテルの前。朝日が斜めに射す路地の石畳の上?
 おい、と明王は小さく声をかけ冬花が返事をする前に振り向きかけた顔に手を添えて軽いキスをする。冬花の戸惑った目が一瞬にして潤み、頬に化粧ではない赤み。
「えぇー」
 冬花は両手で唇を押さえ、きょろきょろと辺りを見回す。そして周囲の誰も自分達には目もくれていないことを確認しつつもバッグを握ったままの手で、もう!と明王の胸を叩く。
「今、するなんて」
「ん」
「イタリアに来て変わっちゃったの?」
「そんなつもりねえけど」
「だって…!」
 文句を重ねようとした時、ベルが鳴り列車の到着を知らせる。結局二十分遅れだ。
 明王はニヤニヤ笑い、ローマに帰ったらできないぜ?と耳元で囁く。白い耳朶。イヤリングが揺れてクリスタルの中から黄金の光がこぼれる。
「そうだけど…」
 冬花は少しだけ怒ったような真面目な顔を作り、もっと考えてもらわなきゃ、と言った。
「何、ムードとか?」
「……そうよ?」
 悪くないと思ったんだけど、と心の中で呟いて、まだ照れのとれない冬花のご機嫌を取るためもう一つ二つ荷物を持ってやる。
「帰ったら覚えておいてよ」
 まだツンとした冬花が言う。
「何してくれんの?」
「夕飯トマトずくしにするんだから」
「もう慣れた」
「お皿をミニトマトで一杯にしてあげる!」
 明王は笑いながら目の前に止まった客車の乗車口に冬花の背中を押す。楽しみにしていると後ろから囁くと、本気なんだから!と冬花が振り向いてあわや喧嘩になりかけたせいで乗り込みの列が渋滞する。結局この駅でも五分の遅れを出し、ローマに着いたのは予想よりも遅い夜。
「待ちくたびれたぞ」
 部屋では久遠がしょぼんと待っており、皿にはラフランスの皮とナイフ。悪い悪いと明王は久遠の額にもキスをして、それを見た冬花が振り返って呆れた。
 遅い夕食。お土産のワイン。
 一つ屋根の下で暮らした子ども時代のように旅先での出来事を報告する。
「そうだ、ガッコの先生がいるんだ。冬花、あの歌」
「えっ?」
「歌ってみろよ」
「ああ。えーとね…」
 駅のホームで口ずさんだ歌を冬花は思い出そうとするが、なかなか出てこない。
「あれ…もう忘れちゃった」
 耳に残っているのは悲しそうな天使の歌という微かな記憶の余韻だけ。ムエルテ・デル・アンジェルという歌詞を二人は思い出せなくて、話題に一人置いてけぼりをくらった久遠は、イタリア人の約束くらいすっぽかせばよかった、とらしくもない乱暴な発言をする。
 明王は手を伸ばし、指先で冬花の髪をかき上げた。イヤリングから冬花の鼻歌がこぼれてくるような気がしたからだ。しかし彼も結局思い出すことはできなかった。
 ムエルテ・デル・アンジェル。
 三人の親子の知らない、どこかで殺された天使の歌。



2010.11.28