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春、雨降る地面の優しさで







 古い映画でも観るような奇妙な午後の残光が台所の窓から射し、自分と久遠の二人も色褪せたカラーフィルムのように見える、と明王は思った。まだ春も浅い、家の裏では桃が散ったばかりの午後。
 今、明王は怒っていて、いつも怒る時は目の前の景色が鮮明に細部まで認識される上にかすかな呼吸も聞き逃さないほど神経が冴えるのだけれど、今は何もかもが曖昧で経年劣化のように鮮やかさをなくしていくのが不思議で、もっと意識を強く保たなければと思うのだが、目の前の久遠もやはり強く怒っていてその迫力に負けないようにするのは至難の技だった。
 そもそものキッカケは、明王にとっては軽い世間話程度のものだった。自分が話す内容を甘く見ていた訳ではないが、今までの通り何度も話し合ってゴール地点を見出せるような提案になると信じていた。
 明王の言った一言はこれ。
「バイトしたいんだけど」
 女友達と買い物に出かけた冬花の代わりに夕食を作っていた久遠は菜の花を刻む手を休め、包丁を置き、手を洗い、布巾で拭き、明王に向き直ってからようやく「理由を言え」と言った。
「二輪の免許取りたいから」
 この市内とは言え街中まで車で二十分、景色はどう見ても農村である場所に住むからには移動手段の確保は大変なことで、この家にあるのは久遠の車か三人共用の自転車しかない。あとはバス。これが専ら久遠の子ども二人の生命線となる。バス停までは歩いて十分。小さな社と大きな銀杏の木のある横。牧歌的な、田舎情緒溢れる景色ではあるが、日が落ちれば無用心なことこの上ない。まして冬花は年頃の娘であるので。
 自分が二輪の免許を持てば久遠がいなくてもそこまで送り迎えが出来るし、何なら直接街中へ向かってもいいのだ。冬花の都合に限った話ではない。明王自身も移動が楽になる。
「…身体が資本のお前に二輪は勧めたくない。正直な話だ」
「別に大型に乗ろうってんじゃねーよ」
「それにバイトする必要もないだろう」
「は?」
 免許取得に何か金銭的免除の制度でもあったろうか? それとも自動車学校に行くかわりに自分が教えようとでも?
「私が出す」
 明王にとってそれは想定外の答えだった。
 久遠は再びまな板に向き直り包丁を手にする。ざくざくと葉の切れる音。
「いや、そうじゃなくてよ。だからバイトしてーんだけど」
「だから私が出そう」
「だ・か・ら」
 明王は大き目の声でゆっくりと言う。
「あんたに迷惑かけるつもりもねーし」
「私の希望で出すと言っているんだ」
「俺が自分で払いたいんだけど!」
「聞き訳がないな」
 じれったそうにした久遠が大声を出す。
「私にも親らしいことをさせろ」
 その言葉に驚いてしまい明王は口を開けたが、その喉の奥から感情が渦を巻いて上がってきて、半ば叫ぶ。
「いつもしてるじゃねえか!」
 それっきり口を利いていない。
 夕飯は菜の花の味噌汁と、昨日冬花が作った煮物の残り。炊きたての白米に金山寺味噌。おかずや飯をよそうのは久遠。明王は黙って味噌を冷蔵庫から取り出しテーブルの真ん中に置く。
 帰宅した冬花は夕飯の席の沈黙の中、居心地悪そうにしていたが積極的に言葉を発するでなく黙々と食事を終え、後を片づける。
 テレビのニュースをつけながら手元には新聞を広げ、おそらくそのどちらも見ていない久遠のそばにはいられなかったので、明王は台所で冬花を手伝おうとする。じゃあお皿拭いて、と布巾を指差される。
 二人きりになっても冬花は何があったのか聞こうとしない。ただ今日の買い物の報告をしていない、と呟く。
「どうせ服だろ」
「お土産もあったのに…」
「何?」
「今日はもうご飯も終わっちゃったから、明日」
「食い物?」
「内緒」
 情報開示は取引の条件となり得る。しかし明王は今日の話をしなかった。いつまでも黙っているつもりはない。だが今は駄目だ。自分の感情もコントロールできていないし、考えもまとまっていない。
 洗い物を終えた冬花は風呂場に行くとすぐ戻ってきて、お風呂もう沸いてるんじゃない、と言う。そう言えば夕方に明王が溜めたのだ。忘れてた、と言うと、しっかりしてお兄ちゃん、と珍しく冬花の方からふざける。
「お父さん、先にお風呂入っちゃって」
 冬花が声をかけると、久遠も夢から覚めたばかりのような顔をして、ああ、とぼんやりした返事を返す。
「もう。まだあたたかくなってないのに、ぼけちゃうのは早すぎるわよ」
 入れ替わりに冬花がテレビの前に座りチャンネルを変えると健康番組が物忘れ防止の特集をやっていて、あら、とふき出すのを堪えたような声。久遠はまだ台所にいる明王に向かって、先に入るぞ、と言ったが明王は返事をしなかった。

 喧嘩をしようが気まずかろうが久遠と明王の寝る場所は床の間であり、久遠が仏壇の扉を閉じ電気を消して就寝となる。
 お互いに寝つけないのがよく分かった。コントロールされ相手に聞こえないようにと押し殺された呼吸の音も、電気が消えてからぴくりとも動かない静けさも。
 息苦しさの中で明王は考える。
 怒ってはいるけれども久遠が赦せないなどという理由ではないのだ。明王は久遠にはこれで感謝しているし、共に暮らす日々を続けたいと思っている。楽しいこともある。精神的に救われたことだって。
 だから久遠の、親らしいことをしたい、という言葉には違うと反発したい気持ちがあって、てめえのしていることが親のそれじゃないって言うんだったらどうなるんだよ、とあの発言を取り消させたい。
 明王は起き上がる。久遠は気づいているようだがじっとしている。こんな時、明王は彼をどう呼べばいいかという選択肢をほとんど持たない。なあ、と呼ぶのは横柄にすぎる。
「道也」
 低い声で呼んだ。
 少し待たされたが「何だ」と応えがあった。
 明王は、ああくそこうなったら二輪の免許がどうだなどとくだらなく思えてきたと昼間の自分に嫌気を感じ、次の言葉をなくした。膝を抱え溜息をつく。
 隣でもごそごそと音がし、久遠が起き上がる。障子の青白い夜の色をした光景の中に久遠のシルエットが浮かび上がって、ああ雨戸を立て忘れた、と思った。道理で寒いはずだ。二人とも忘れていたのか。いつもなら夕飯の頃に閉めてしまうのに。
 久遠が口を開く。
「悪かった。お前の意志を蔑ろにするつもりはなかったんだが」
「…あんた、別に謝るようなことしてねえじゃねーか」
「いや、私は」
 一瞬口を噤み逡巡した後、久遠は重い声で言った。
「私に借りを作っておけ、と言おうとしたんだ」
 本当に、と彼は付け加えた。
 明王は抱えていた膝から顔を上げ、久遠の影を見る。闇に慣れた目が、疲れたような久遠の表情を見せる。
「私はお前を繋ぎとめようとしている。どんな方法を取ってでも。今は確かに親子だ。お前はまだ学生で私は保護者。だが十年、二十年後はどうだ? お前はプロ選手になるだろう。それだけの能力と意志がある。対して私は年を取る。四十、五十、六十となった時、お前はどうする? 選手として脂ののったお前は。社会的地位を手に入れるであろうお前は」
 なす術がないままお前が離れることを想像して、私は怖れた。
 久遠の言葉は、まるで彼のものではないかのようだった。少なくとも明王の想像し得る久遠の言葉とは思えなかった。
 同時に、何で俺が見捨てるって決めつけるんだよとまた怒りを感じ、これまでの生活では見捨ててばかりきたことも思い出す。
 力のために蹴落として、傷つけることも厭わなかった。
 そばにいる、と言う。十年、二十年経とうが離れない、と言う。それを久遠は信じるだろうか。自分の過去を全て知っている久遠が、この言葉を信じるだろうか。また明王自身、信じてほしい、と心から言葉を伝えたことがあったか。
 どうすればいい。明王は布団から抜け出て、膝で一歩久遠に近づく。久遠が気づいて自分を見る。
 何、と言えばいい。
「あんた、が」
 塞がりそうになる喉をこじ開けて声を出す。
「十年後、とか、何もしてないって考えること自体不自然だろ。まずFFI優勝監督なんだから、あんただってサッカー続ければいいじゃねーか。監督やれよ。代表監督で、また偉そうに指揮とれよ。それで、俺のこと呼べばいいじゃん…」
 語尾が消えてしまわないように、少し強めに言葉を継ぐ。
「呼ばれれば俺はあんたのところに来る。あんたのサッカーを実現する。でも俺のサッカーだ。あんた、俺を代表に選んだよな。俺はあんたのもとでやっと勝てるサッカーをやれた。あんたのサッカー…」
 ぐぐ、と喉にせり上がるものがあって、その息苦しさに耐えながら明王は言った。
「俺はあんたのサッカーが好きだ。俺を呼べよ。絶対に呼ばれてやる。齢とか関係ねえんだよ」
 久遠の影は動かなかった。見開いた右目がじっとこちらを見つめているのが見えた。低い声が、明王、と呼んだ。
「触れてもいいか」
 何を突然…と言おうとして明王は言葉を飲み込み、ぐっと一つうなずく。
 腕が伸び、肩に触れられる。
「明王」
 抱き寄せられ、不自然な体勢で倒れこむ。来なさい、と耳元で熱く囁かれ明王も腕を伸ばした。
「お前がサッカーをする姿が、私は好きだ」
 溜息のようなあたたかな息。しっかりと抱き締められる。
「ありがとう」
 俺の科白だし、と呟くと厚い手のひらが背中を叩いた。
 明王は瞼を閉じ久遠の肩に顔を埋める。ぬくもりに包まれて急な眠気が襲ってきた。少しだけ、と身体の力を抜く。身体を支えるように抱き締められるのが心地よくて、あんたのこと好き、あんたのこと好きと呟いた。名前を呼ぶ久遠の声が遠くに聞こえた。

 翌朝、菜の花の味噌汁を作った本人が「苦いな」と言った。
「苦えよ」
 明王も文句を言う。
 苦いのが美味しいのよ、と冬花は笑った。
「でも、それならお口直し」
 冬花の昨日のお土産はもなかだった。餡子がぎっしり詰まっていて、それだけでも腹一杯になりそうな代物だった。あまりに甘かったので渋い茶を飲んだ。
 美味い、と思って久遠を見ると、同じように湯呑みを持つ久遠が少し笑っていた。



2010.11.10