冬、しょう月ついたち







 その夜、久遠一家は深夜0時の鐘の音を聞くことなく就寝した。十二月三十一日、大晦日のことである。
 この日の日本の一般家庭と同じように紅白歌合戦を見ながら年越し蕎麦をすすり、その後はゆく年くる年が始まったテレビを久遠が消して、一足先に冬花がおやすみなさいを言った。
 コタツに残された久遠と明王は妙にそわそわし、明王は消したばかりのテレビをつけザッピングしたが格闘技やお笑いや音楽ライブなどジャンルの違いはあれど似たり寄ったりの騒ぎっぷりに食傷したのかやはり電源を落とす。
「寝るか」
 久遠の一言に明王は肩をびくっとさせたが、素直にそれに従った。隣り合った布団に入り、しばらくはお互いの呼吸の音を聞いていたが久遠はアルコールが入っていたこともあり先に寝ついた。その寝息を聞く内に明王も眠りの中に誘われた。
 小雪の降る田舎に除夜の鐘は殷々と鳴り響いた。
 日付が変われば正月一日、元旦。一年の始まりであり、サッカー天皇杯決勝の日。
 これが全ての原因である。
 十一月に入ってすぐのことだ、夕飯の席で冬花が言った。
「私、天皇杯の決勝を観に行こうと思うの」
「へえ…」
 驚いたのは明王だった。
 田舎の古民家だが、この家はケーブルテレビにも加入していて42インチの液晶テレビでヨーロッパリーグを観る。齧りつくほどの余裕は教師をしている久遠にも学生生活の忙しい明王と冬花にもなかったが、しかし番組表で注目カードを見つければカレンダーにマルをつけ、三人でテレビの前に座る。
 サッカーは彼らの日常に馴染んだ楽しみであり生きがいでもあったが、まさか冬花がそこまで、と明王は思ったのだ。
「どこか応援してるとこ、残りそうなのかよ」
「それは分からないけど面白くなりそうよ、大学チームが残ってるみたい」
「マジか」
「それで守君が一緒に行こうって」
 久遠がごくりと味噌汁を飲み干した。
「円堂の奢り?」
「まさか。ちゃんと自分でチケット押さえるわ」
「え、指定席いくのか」
「どうしよう。それは対戦カード次第かなあ…」
 飯を一口口に入れたままもぐもぐと咀嚼し続ける久遠を見て、明王は言った。
「監督、俺達も行く?」
「…ああ」
 曖昧な返事だったが、チケットが発売になると久遠は冬花の話を聞いた後できっちり二人分を押さえた。自由席だった。
 クリスマスが終わり、冬休みに入り、いよいよ年の瀬が押し迫るとマルをつけたカレンダーの一月一日が大きく見える。コタツで眉間に皺を寄せ新聞を読む久遠に明王は尋ねた。
「で、元旦どうすんだよ。後でもつけるか?」
「馬鹿を言うな」
「冬花!」
 明王はコタツから半分這い出ると障子を開けて顔を出し、台所で洗物をする冬花に声をかける。
「決勝、何時のバスで行く?」
「初詣に先に行く予定だから、朝すぐに出るつもりなの」
 冬花は濡れた手をエプロンで拭い、振り返る。
「いい? お父さん」
 久遠がまた曖昧な、ああ、という返事をしそうだったので明王は先手を打った。
「じゃ、俺らも一緒に出るわ」
「えっいいの?」
「ついて行って円堂の邪魔するぜ」
「やだ、デートじゃないったら」
 ちょっと照れたように冬花はころころ笑う。
「円堂君は最初から明王君とお父さんも一緒に行くつもりだったみたいよ?」
「え?」
「二人も行くって言ったら、久しぶりだな楽しみだなって、そればっかり」
 隙間風が入ってくるので明王は障子を閉める。すると新聞を読んでいたはずの久遠がぐったりと自分にもたれかかってきた。
「おい何やってんだよ」
「明王…」
 そう呼んだきり久遠はいよいよ脱力して明王をずるずると畳の上に押し倒す。明王は溜息をついて大人しくされるがままになった。ただ軽い拳を作って頭を叩いてやった。
「あんまり過保護にすると行き遅れるぜ、あいつ」
「じゃあお前は何で冬花と一緒に行こうとした?」
「何ででしょーね」
 このような遣り取りがあり、迎えた年末だったのだ。


 一日の朝、日の昇る前に一家三人は起きだした。おはようの挨拶を交した後、庭先に出て初日の出を拝む。それからお互いに「あけましておめでとうございます」とかしこまって頭を下げた。
 軽い朝食の後、すぐに出かけた。円堂は待ち合わせに遅れず来た。片手にサッカーボールを持って。
 円堂は冬花と明王にあけましておめでとう!と例のバカでかい声で言い、あけましておめでとうございます今年もよろしくお願いします、と久遠に挨拶をする。明王は久しぶりに円堂の姿を見たが、年相応の礼儀は身につけても相変わらず天真爛漫な様子は変わっていない。
 初詣は行くまでの道のりが混んでいたが、その後は意外と流れるようで国立競技場にも無事到着することができた。席は円堂と明王が冬花を挟んで座り、明王の隣に久遠が腰かけた。
 まあ揉めはしなかった訳で、しかも試合開始のホイッスルが鳴ってからは四人ともそんなことを気にしてはいなかった。90分を心行くまで興奮し楽しみ声を上げた。つまり四人ともサッカーバカだったのだ。
 帰り道、河川敷を見下ろす堤防を夕日に照らされながら歩く。円堂は興奮冷めやらぬ様子で先の試合を振り返る。
「ロスタイムに入ってからのアレ、凄かったよなー。ズババーンって、自陣ゴールから!」
 魔法のようにパスが繋がり、逆転のゴール。
 円堂はうずうずと身体を震わせ、不動、じゃなかった久遠!って監督を呼び捨てにしてる訳じゃなくて、と手をバタバタさせる。
「何でもいいよ。俺だろ」
「うん、明王! サッカーやろうぜ!」
「…くると思ったよ」
 明王が苦笑すると、お前だってわくわくするの止まらないだろ、と円堂はいち早く河川敷のグラウンドに下りる。
「お前の高校、冬の国立、東京Bだから開幕戦だろ」
 一応、の心積もりで明王は声をかける。円堂はあっけらかんと、ああ!、と返事し、
「そっか、お前んとこが東京Aだったもんな。決勝まで当たらないんだっけ」
「対戦できるか分かんねーから、ここでやっとくのもいいかもな」
「俺は絶対優勝する。お前こそ負けんなよ!」
「その言葉そっくり返すぜ」
 そんな軽口を叩いていると後ろからついてきた冬花が、守君!、と円堂を呼んだ。
「私もいい?」
「ふゆっぺ? もちろん!」
「じゃあなにか? PK?」
「私が入ろう」
 隣で久遠がコートを脱いだ。
「2対2だ」
「えーと、じゃあ…」
 円堂が顎を掻くと、冬花は素早く明王の隣に立ち円堂を指差した。
「勝負よ、守君!」
「…おう! いいとも!」
 と言う訳で久遠は円堂側につくこととなった。
 ところが初めは2対2だったはずが、凧揚げに来ていた近所の子どもがまじり、同じように初詣などからの帰りらしい学生がまじり、いつの間にか11対11でボールを追いかけ、円堂と明王がそれぞれゴールキーパーのポジションについている。
 後ろからコーチングしながら、気がつけば明王は冬花を攻撃の起点に考えており、いや確かにあいつ選択スポーツはサッカーにしたって言ってたけど、っていうか俺マジになってゲーム組み立ててるし、と一瞬素に戻りつつも円堂に負けじと大声を出していた。
 日が沈み、鉄塔の稲妻のシンボルに明かりが灯る頃、ようやく解散となった。最初からこの場にいた久遠一家と円堂は汗まみれの泥だらけになっている。まるで元日とは思えないが、四人ともまるでそのことを気にしていなかった。
「じゃあな! 今年もよろしく!」
 円堂は大きく手を振りながら帰っていく。冬花が手を振り返す。
 後ろで明王と久遠は、帰ったらまず風呂だな、それから飯、洗濯が先か、と汗を流してすっかり気持ちよくなった頭で言葉を交していた。
 そこへ。
「ふゆっぺ、また今度」
 ただの天真爛漫ではない円堂の声。
 二人が勢いよく振り返ると、円堂の後姿は堤防を走りみるみる小さくなっていった。冬花は笑顔で手を振っている。
 また?
 今度?
 この一年もまた退屈する暇もない年になりそうだ。取り敢えず冬の国立。そこから。
 久遠の厚い手のひらが強く明王の肩を叩いた。
「是が非でも優勝しろ」
「当然」
「ふふ、明王君も気合充分ね」
 冬花は微笑みそれぞれの手で父と明王の腕を組む。
 両脇の二人は冬花の軽い足取りに合わせ、三人は揃って歩き出した。



2010.11.1