春、おだやかに始まっていたもの
短い坂の上から冬花が手を振る。不動はそれをバックミラーから見た。冬花は本当に姿が見えなくなるまで手を振っていた。 もう一月ほど一緒に暮らしているが、しかし不動も冬花もステアリングを握る久遠も、三人のうち誰もこれを今更とは思わず一つの覚悟じみた節目として臨んでいた。目に見える程度の差はあれど。 久遠は基本的に無口だが今朝は輪をかけてそうで、ひどく静かな朝の食卓となった。広い台所のテーブルで簡単な食事を済ませ――そう、それだってコーヒーだけ――引越しの荷物をどこまで片づけるか、買い足すものは何か事務的な様子で決めた後は、A4の封筒を掴んで黙って車に乗り込んだのだ。不動を呼びもしなかった。まあ、不動は不動ですぐに黙ってついて行ってはいたのだけれど。 半年も前から決めていたことだ。今更、と不動は思っていたのに、それでも言葉少なに助手席に座っているのは、結局朝からコーヒー一杯しか喉を通らなかった久遠と同じなのだろう。自分は食パンを二枚も食べたのだけれども。――だって冬花がジャムと蜂蜜どっちがいい?などときくから! 車は麦の青々と茂る中を進む。 「あれだっけ」 不動が呟くと、久遠の視線だけが応える。 「二毛作ってやつ?」 「……この付近は麦だ」 だからどうだと言うか、見れば麦が多いのは分かることであり、不動も自分から先に口を動かしたが、ロクでもない失敗だったと顔を背けた。舌打ちだけは辛うじて耐えた。 「サリンジャーを読んだことはあるか?」 「…は?」 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 割と日本語っぽい発音のそれを不動は頭の中で反芻し、ああ麦繋がりかと思った。ライ麦畑でつかまえて。 「ねーよ」 「一粒の麦もし死なずば」 「…何だって?」 「これもタイトルだ。別の作者の」 「読んだことねーよ」 と言うかこの先も読まないだろう、おそらく。 「何か関係あんの?」 「別に。麦だから思い出しただけだ」 「……あんた緊張してるだろ」 久遠は答えず県道に入る道を曲がった。 ずっと田舎の景色が続くように見えて、周囲には急に住宅が増えたかと思うともう街中に入っている。家から二十分程度だろうか。春休みらしく、こんな時間からも歩道には子どもの姿が見える。 市役所にはすぐについた。まだ開庁して早いと思われたが、もう駐車場は一杯になっていた。久遠はようやく見つけた隅に車を止めた。 エンジンを切っても、久遠は車から降りようとしなかった。だから不動もそのまま待った。A4の封筒はダッシュボードの上だ。 「不動」 その声がこの名前を呼ぶのは久しぶりのことだった。三月頭に愛媛から移って以来、久遠は明王と名で呼ぶようにしていたから。 そして封筒の中の書類を提出すれば、もうこの声が自分を不動と呼ぶことはないのだと、この際になって不動は不意に悟ったのだった。 「私は様々な選手に出会ってきた」 不動はその声に聞き入った。彼の顔を見ず、この密閉された春の静けさの中でただ一つ自分の鼓膜を震わせる声に集中した。 「不動明王という選手に出会えた幸運に感謝している」 久遠の声は掠れ、彼の名を口にした。 「お前にもだ、不動」 急に筋肉が発火したかのように手が伸びて久遠の肩を掴んでいた。身体をよじり、もう片手を相手の太腿について支えて。間近で久遠の顔を見た。不動は自分の体温がみるみる上がるのを感じた。 「久遠、サン」 小声で呼び、ああこう呼ぶのも最初で最後だと思う。 本来ならば監督と選手で終わるはずだった。監督と呼べば事足りた。不動と呼び捨てられれば事足りた。 不動はにやりと笑った。 「あんたが監督でよかったってのは、FFIの時にもう言ったからな」 久遠は表情を変えなかったが、不意に不動の頭を抱き寄せた。何かが触れるのが分かった。二年前ペイントを施していたあたり。 「なっ…」 暴れるようにして離れると、久遠が珍しくしてやったりというような――そうだ本来不動お得意の――笑みを浮かべていた。 「緊張しているんだろう、お前も」 久遠は封筒を手にするとドアを開けた。不動も助手席から降り、車の反対側から久遠に追いつきながら軽く蹴った。 「何すんだっつの」 「緊張していることは否定しないんだな」 「お互い様だろーが」 もう一度蹴ろうとすると、軽い動作で避けられた。 ビルの入り口に立つ守衛がおそらく彼らの様子を見ていたのだろう、擦れ違い様に見上げると笑いを堪えるような顔をしていた。 冬花の赤飯はよく炊けていた。 夕飯の席で、美味い、と素直に言うと何度も何度も、本当?、と聞き返された。 「ねえお父さん、本当に美味しい?」 久遠は不動と顔を合わせると、冬花に向かってうなずいた。 「ああ。美味い。ありがとう、冬花」 それを聞いて明王はそっと、自分は冬花にありがとうとは言えないだろうから彼が言ってくれてよかった、と思った。
2010.10.28
|