秋、茜色の日曜







 日常の中の静けさを、その時明王は痛感したのだ。彼女の静寂が美しいものだということを。自分が無造作にそれを享受してきたことを。
 玄関の三和土、一段低いところに立ちながら冬花はぐっと顎を引き、強い視線を明王から離さないまま押し殺した言葉を吐いた。
「どうして明王君が決めるの?」
 感情を殺そうとしたその声の激しさ。明王は思わずそれに怯み、それと同時に苛立ちを強くした。
「俺の希望を言っただけだ」
「でも外せって言ったじゃない。さっき、はっきり言ったわ」
「いい耳してるな」
「誤魔化さないで!」
 怒りは一瞬にして噴出した。冬花は両足をぐっと踏みしめ、両手に拳を握った。
「勝手なこと言って、理由も言わないで誤魔化して、ずるいわ!」
「じゃあ言ってやる。それ、外せ」
「……嫌」
 それまでの攻撃的態度から一変、冬花は身を守るように腕を抱き指先で耳朶に触れた。明王はそこに光るものをじっと、冷たく見下ろした。銀色の六角形。マグネットピアス。
「外して行け」
 明王は手を伸ばす。冬花は嫌々と横に首を振り、どうして、と怒りに掠れた声を出した。
「何が気に入らないの?」
「それつけてることがだよ」
「私がデートに行くから?」
「そんなもん勝手に行け」
 そう吐き捨てた途端、何故か冬花は泣き出しそうな顔になり大声で叫んだ。
「じゃあ明王君がデートしてくれるの!?」
 何故冬花が泣きそうになっているのかも分からないが、同時に明王は冬花の言葉に自分がショックを受けている理由も分からずただただ渋面を作って冬花を睨みつけた。
「二人とも止めなさい」
 低い声がどすんと落ちた。冬花が夢から覚めたかのように肩の力を抜く。明王も振り向いた。
 廊下に久遠が立っている。叱るための厳しい顔ではなく、ただいつもの冷静な面をしているのが逆に威圧されているように感じた。
「迎えが来ている。冬花、行きなさい」
 冬花はうなずき、目元をぬぐって玄関戸の向こうに消える。ピシャンと音を立てて木枠の戸は閉まり、張られたガラスがびりびりと震えた。
「…来い、明王」
 明王の目には反射的に反抗的な色が浮かんだが、冬花が消えても尚久遠が怒り出す気配がないので、訝りながら後に続く。
 座っていろ、と言われたので座敷に腰を下ろす。久遠は台所に消えた。
 開け放した縁側からは涼しい風が吹き込んでいた。それももう、長袖を着ていなければ肌寒いほどだ。見渡される田園は稲刈りが始まっていて、黄金の畑はもう半分ばかり。
 ここからは見えないが二輪の走り去っていく音が耳に届いた。その後ろに冬花が乗っている。
 久遠は焼酎のビンとコップを二つ、ポットを盆の上に乗せ運んできた。そのまま座敷を横切り縁側に腰かける。とんとんと隣を叩かれ、明王が呼ばれた。明王は焼酎ビンを自分と久遠の間に距離をとり、片膝を立てて座った。
「冬花が映画に行くのがそんなに気に入らないのか?」
「あんたこそ随分冷静だな」
「門限も約束している。誰と行くかは冬花の自由だ」
「………」
「意外だと思うのか? 私は、お前がムキになる方が意外だった」
 確かに冬花が誰と映画を観に行こうが関係はない。男がそれをバイクで迎えに来ようとだ。彼女の好きにすればいい。冬花はそこでの出来事もきっと楽しげに報告するのだろう、夕飯の席で。
 何も気にすることはない。はずなのだ。
 久遠は焼酎を湯で割って明王の隣に置いた。
「…何?」
 同じものを作った久遠は、明王が手に取らず縁側に置いたままのそれに乾杯し「付き合え」と一口呷った。
「俺まだ高二なんだけど。いいのか、学校教諭?」
「まあ舐めてみろ」
 あたたかなコップを手に取り匂いをかぐ。慣れぬ刺激が鼻腔につんとくる。言葉通り舐めてみた。
 渋面を作っていると、隣で久遠が笑った。
「そういうお前を見ると、安心するな」
「何だよ」
「お前も冬花も年の割りに物分りがよすぎて心配になる」
 久遠はまた一口舐め、珍しく笑った。
「私の知る限り初めての喧嘩だ」
 明王は顔をしかめたままコップの中身を一口含んだ。舌や上顎がかっかと熱くなる。それは液体の温度だけではない。ごくりと飲み干すと喉から胃に落ちていく感触もはっきりと分かった。
 はあっ、と息を吐く。
「正直に告白しよう」
 まるで日常の会話ではなく、ここが古い農家の縁側であることも忘れさせるような静かな声だった。
「お前と同じ気分だ、私も」
「俺がどんな気分だって?」
「そんな気分だ」
「どんなだよ」
 明王は焼酎をもう一口含む。久遠も黙ってコップを呷った。あっと言う間に空になった。
 高い空から鳥の声が落ちてくる。あれは自分の田舎でも飛んでいた。鳶だ。ぴーよろーと声を伸ばす。ちょっとビブラートがかかってるよなと明王はぼんやり思う。隣では久遠が二杯目を作って口をつけていた。
「冬花の気持ちも酌んでやってくれ」
 考えてくれ、ではなかった。だから明王は二年前自分がプレゼントしたマグネットピアスをつけていこうとする冬花の気持ちに思いを巡らせた。
「……女の気持ちなんか分かんねえし」
「私も、よくは分からない」
 久遠は口を湿し、沈んだ声で言った。
「だから冬花を信じるしかない」
 二杯目もあっと言う間に空になっていた。
「早くね…?」
 横目に見つつ明王が言うと、久遠の手が伸びてきて頭をぐしゃぐしゃと撫でた。明王はそれを払いたかったが腕を動かすのも何だか億劫で、結局撫でられるがままに委ねた。
 久遠は三杯目の半分で急に『22歳の別れ』――という曲だと後で知った――をぼそぼそと歌い出し、自分が歌ったことにも不思議そうな顔をしてぼんやりと空を見上げた。
「明王、鳶がいるぞ、鳶が」
 久遠はそれを「とんび」と発音した。片手で指差し、もう片手で焼酎を呷る。明王は微熱のような気だるさに襲われていて、柱によりかかったまま人形のように首をそらし久遠の指の先を見た。
 不意に久遠は自分と明王の間にあるものを座敷に押しやり、明王、と眠そうな声で呼んだ。あたたかい手のひらが膝に触れた。
「借りるぞ」
 返事を待たず、久遠はごろりと横になり明王の足を膝枕にした。
「なにしてんだよ、あんた」
 アルコールがまわったせいで棘をなくした明王の声は久遠に応える訳もなく、重い頭をどかすこともできない。明王は腹立ち紛れに太腿の上にのせられた頭をぐしゃぐしゃとかき回した。髪が乱れて、いつも見えない左の目が遮るものなく明王を見上げた。
「私は」
 重たそうに瞼を閉じ、久遠は小さく唇を開いた。
「結婚をしなかったが幸せだと思う。本当に、今、そう感じている」
 目を瞑ったまま伸ばされた手は、まるで知っているかのように明王の頬に触れ、お前酔ったな?、と小さな声が言った。
 それあんたのことじゃね?と明王は思ったが、それを口にする前に瞼が下りた。


 首筋を冷たい風が撫で、目が覚めた。頭の下には座布団が敷かれている。目覚めはすっきりとはいかなかった。明王は頭を振り、少し重いと感じた。
 座敷では久遠が学校から持ち帰った仕事の続きをしている。酒の匂いは残っていない。焼酎もコップも片づけられていた。
 明王は縁側からサンダルをひっかけ、外に出た。
 冷たくなった風を鼻から吸い込み、頭の奥の神経を掃除させる。まばたき一つ、ぼんやり眺めていた景色を明瞭にさせ、認識させる。思考する頭に戻す。
 二輪の音がした。それは家の建つ短い坂の下で停まった。停まったのは短い時間でエンジンも切られないまま、それはUターンして行く。
 坂を上って冬花が現れた。耳元には銀色の六角形、雪の結晶が光っている。
 彼女は明王を見た瞬間、困ったような顔をしたが、明王が「おかえり」と言うと、躊躇いがちに「ただいま」と小さな声で応えた。
「今日は悪かった」
 そう言う際どうしても目を逸らしてしまった明王は、冬花が黙ったままなのでそろそろと彼女の顔を見た。
 冬花は口元を手で覆い、顔を赤くしていた。
「…なんでお前が照れてんだよ」
 押し隠してきた照れが明王の内側からじわじわと滲み出して今にも逃げ出したくなったその時、不意に冬花が二、三歩を駆けて明王に近づき、その肩に額を押しつけた。
「…ただいま、明王君」
 また泣き出しそうな声だったのでハッとして肩に手を置いたが、冬花は泣いてはいなかった。いつものように静かに微笑み、どうして?お酒の匂いがする、とくすぐったそうに言った。



2010.10.22