冬の決断







 駅のホームに降り立った途端、耳元に空気の流れる音が蘇る。厚いコートで覆っていても全身が、違う街にやってきた違和を感じるのだ。新幹線から降りる人の波で頬を湿った熱気が包み込むが、頭の上、ホームを抜ける風は冷たく乾いている。都会の匂いだと思う。おそらく土や川の匂いがしないのだ。
 スポーツバッグを一つ抱えた不動は人波に流されるのを嫌い、周囲よりわずかに早い歩調で改札へ進む。待ち合わせをした冬花が、折角なら赤レンガの駅舎で、と言ったのだ。ドーム型の天井の下、ざわめきは映画のそれのように遠く反響した。制服姿の冬花はその中に静かに佇んでいた。
 本当なら地下鉄に乗った方が早かったのだが、駅舎を見ようと言われて外へ出、バスに乗ることになる。
「別に観光に来た訳じゃねえんだから」
「私とお父さんも観光じゃなかったけど松山城を見たわ」
「遠目だろ」
 遠ざかる赤レンガ駅舎に一瞥をくれ、不動は座ったばかりの席を立つ。隣の冬花はきょとんとして不動を見上げた。
「六時間以上座りっぱなしだったから腰が痛いんだよ」
「じゃあバッグだけ持ってあげる」
 年が明けてもう半月以上経つが、世間はどこか浮ついた空気を残していた。街角のテレビもオーロラビジョンにも浮かぶのは笑顔とポップ調の宣伝文句。受験生には全く優しくない新発売のゲームのCMなどなど。
 しかし停留所に停まるたび吹き込む風は冷たい。さっきまで新幹線の中で上着もいらないほどの熱気に包まれていた不動は、いっそその冷たさにホッとする。自分が受験のために東京に来たのだと自覚することができる。
「バッグ、何が入ってるの?」
「お前、男にそれ聞くか?」
「当てていい? サッカーボールでしょう」
 確かにそのとおりだ。スポーツ推薦だからと油断した訳ではないが、参考書の類はほとんど持ってこなかった。その代わりにサッカーボールを詰めた。
「ねえ」
 冬花が立ち上がりながら言った。窓の向こうには見覚えのある町並みが広がる。
「寄りたい場所があるんだけど、いい?」
 別に反対する理由もなかった。不動は今回久遠家に厄介になる食客だから強いことも言えない。
「お父さんはまだ仕事なの。お夕飯の買い物をして帰るね」
 そう言いながら冬花は商店街とは反対の方向に足を向けた。
 冷たい風。鼻、むき出しの耳が凍える。しかし吹きつけるそれに不動は懐かしい匂いをかいだ。
 堤防の雑草は冬枯れの様相を呈している。川を渡る冷たい風。雲は低く、雨でも降り出しそうだ。そんな天候にも関わらず、河川敷のサッカーグラウンドには練習する小学生の姿があった。揃いのユニフォームを着ているから、地元チームなんだろう。
 リーダー格らしい少女が振り向いて堤防の上の二人に気づく。
「おねえちゃん!」
 冬花は、まこちゃん、と少女の名前を呼びコンクリートの階段を駆け下りる。不動は一瞬ひやっとしたが、彼女は足元さえ見ずに軽がると駆け下りた。
 他のチームメイトも気づいたようで、代表の不動だ、という声も聞こえた。冬花が見上げるので、仕方なく自分も下りる。
 普通この髪型をしていれば年下の人間は怖れて遠巻きにするものだが、試合中継で見慣れているのか、それともここは稲妻町でもあるし、あのサッカー馬鹿の性格を小学生達も受け継いでいるのか、気にもせずにわらわらと寄ってくる。
「皇帝ペンギン3号やって!」
「ばっか、キラーフィールズだよ」
「鬼道がいないとできねーじゃん」
「何か俺たちにできる必殺技ない?」
 呼び捨ては有名税と思って我慢しよう。屈託のない瞳もあのキャプテンで慣れた。しかし連携技は言うまでもなく、この図々しくも喧しい小学生ら相手にジャッジスルーを教える訳にもいかない。
「おい、冬花」
 困り果てて助けを呼んだ瞬間、子供達はぴたりと静まった。
 全員が目を丸くして不動を見ていた。そして、呼び捨てだ、おねえちゃんを呼び捨てにした、という囁きがさざ波のように広がった。
「……マセたこと考えてんじゃねーよガキ共」
 不動は押しつけられていたボールを強く蹴り上げた。高く上がったボールはグラウンドを越えて草むらに向かって跳ねる。その向こうは川だ。
 それまで不動を取り囲んでいた子供達がわっとボールに向かって走る。
「あーあ、明王君ったら」
 冬花は眉をひそめながら、それでも笑う。
 一人残ったまこが二人の顔を交互に見上げ、にやりと笑った。
「本当はおねえちゃん、不動とどういう関係なの?」
 不動は不機嫌を顔に表して答えなかったが、冬花は微笑んだまま言った。
「お兄ちゃんよ」
「うっそー!」
「皆には秘密ね」
 指きり、と冬花はまこの前にしゃがみこんで小指を出す。まこは小さな小指を絡めて、嘘ついたら針千本のーます!とはしゃいだ。

 川に落ちる寸前でボールを捕まえた子供達は、ちらつき始めた雪に大はしゃぎしながら帰ってゆく。彼らは何度も何度も振り返り、手を振った。冬花は手を振り返し、あれは明王君にも手を振ってるのよ、と言った。不動は手を振らなかったが、冬花が手を振るのをやめるまで小学生の後姿を見送った。
「…よし!」
 冬花はくるっと振り返る。
「じゃあ、やろっか」
「は?」
「サッカーよ」
「はぁぁ?」
 不動は一層気の抜けた返事を返した。
 反対に冬花はトントンと足を踏み鳴らし、リフティング練習したのよ、と楽しそうに話す。
「明王君、ボールを貸して」
「お前、制服じゃねえか」
「コートは脱ぐわ」
「そうじゃねえし…」
 スカートは相変わらず膝丈でハイソックスとスカートの間に見え隠れする膝が寒そうだ。
「本当に練習したんだから」
 普段と比べると冬花は強気で、滅多に見せないむくれた顔をしてみせた。少なくとも不動は冬花のそんな表情を初めて見た。
 渋々バッグからボールを取り出す。冬花はそれを両手で受け取り、ボロボロね、と呟いた。
「だから嫌だったんだよ」
 不動が毒づくと、冬花は、ううん、と首を振った。
「お父さんのボールと一緒なの」
「…監督も、すんの?」
「教えてくれたのは守君。リフティングは秘密の練習」
 トン、とボールが膝の上で弾む。
「痛くないのかよ、膝」
「痛くないわ」
 冬花は膝の上で跳ねるボールを見つめて答えた。
「だってボールを蹴ってることの方が楽しいんだもの」
 その時不動は顔には出さなかったが、胸の内で嘆息した。
 ああそうだ。ボールさえあれば。
 冬花は爪先でトーンと蹴り上げ、ヘディングをする。声をかける間もなくて、不動は飛んできたボールを受け、膝の上で弾ませた。
「ね、どう?」
「……まあまあなんじゃねえの」
 意外とやる、と思った。っていうかスカート捲れなかったか?
 冬花はスカートの裾を払い、得意げに笑っていた。

 買い物を終えスーパーから出ると、視界が白く覆われる。雪の降りは強くなっていた。
「お鍋にして正解ね」
 冬花は白い息と共に呟いた。
 マンションまでの道のりを歩きながら冬花は時々、スーパーの袋を持ち替え手に息を吐きかけた。不動は黙って手を差し出した。
「…じゃあ、バッグ」
 不動が買い物袋を持つ代わりに、冬花がスポーツバッグを肩にかける。
「入試、明後日ね」
「ああ」
「面接の時、ピアスはどうするの?」
「外すよ。普通に」
 ちらりと視線をやる。冬花の耳は髪に軽く隠れていたが風が吹くと傷もない耳朶が覗いた。
「私ね」
 不意に冬花は言った。
「守君と同じ高校受けることにしたの」
「…へえ」
「スポーツ科学科があるの。そこを受験するのよ。お父さんも最後は賛成してくれたわ」
「監督、反対してたのかよ」
「って言うよりじっくり話し合っただけ。でも最後に自分の未来を決めるのは自分だからって、お父さんが」
 冬花はくすくすと笑った。
「本当はね、最初、明王君と同じ高校を受けるはずだったのよ」
 驚いたことを悟られないようにしたのだが、買い物袋が揺れた。
「…残念?」
「んな訳あるか」
「私もよ。違うところがいっぱいあって、そういうのをいっぱい話せたら楽しいと思うの」
 勿論残念な訳がない。そもそも冬花が最初に受ける予定だったのが自分と同じ高校だと知ったのはたった今のことなのだ。円堂と同じ高校ねえ。ふうん。
「マネージャーの仕事、勉強するのも楽しかった。それに専門知識があれば、また皆がサッカーをする時支えになるでしょう? 大人になっても。皆がプロになっても」
 話し続ける冬花を置いて、不動はぷいと目の前の店に入った。
「明王君?」
 背中から冬花が呼びかける。
 待たせるつもりもなかったが、目当てのものは案外すぐに目についた。レジの前で自分のバッグは冬花が持っていることを思い出したが、財布はポケットに入っていた。間抜けなことにはならなかったのにホッとした。
 雑貨屋で買ったそれは小さな安い紙袋に入れられプレゼントという雰囲気でもない。不動はそれを冬花に押しつけた。
「……何?」
「気まぐれだ。気が変わらない内に取れ」
「ありがとう…」
 冬花はそれを手のひらに受け取り、セロテープでとめられた封を開けた。
「…ピアス?」
 六角形の雪の結晶の形をした、安い、おもちゃのような銀色の。
「マグネットピアス。穴空けずに済むだろ」
「ありがとう、明王君」
 冬花はさっそくそれをつけようと髪をかき上げる。不動は冬花の手からピアスを取り、髪をかき上げたままにさせて薄い耳朶をマグネットと雪の結晶で挟んだ。
「ひんやりする」
 指先で耳朶に触れ、冬花が言った。
「明王君もそう?」
「俺は慣れた」
 二人は再び歩き出した。冷たい風が吹き抜けるたびに冬花は耳元に触れてくすぐったそうに笑った。
 マンションに着く頃には、コートの肩が雪で湿っていた。それを暖房のきいたリビングにかけ、冬花は台所に立つ。不動はくつろいでいていいと言われたのだが、結局鍋の準備を手伝った。
 玄関の鍵が開き、ただいま、とあの聞き慣れた低い声がする。
「おかえりなさい、お父さん」
 冬花が振り向き、微笑む。
 顔を出した久遠は自分の娘の隣に不動がいるので、今日から受験が終わるまでここに不動が滞在するのは知っていたものの――その手配をしたのは自分なのだ――驚いた様子だった。
 冬花は小声で、明王君、と促した。不動は迷ったが、持ち前の皮肉を前面に押し出し「おかえり、監督サン」と言った。
「…ただいま」
 そう返し、久遠は表情を緩めた。
「よく来たな」
 思いもしない言葉だったので不動は心を揺さぶられてしまい、お世話になります、という殊勝な言葉が口をつくのを止められなかった。
 それを聞いた久遠がまた面食らい、結局冬花だけがくすくすと笑う。

 風呂に入っている冬花がテーブルの上に残したマグネットピアスを久遠がじっと見ていた。
「お前が選んだそうだな」
 不動は返事をしない。
「雪は六花とも言う。知っていたか?」
「知らねーよ。っていうか何であんたはそんなん知ってんだよ」
「一般常識の範囲内だ」
「頭悪くてスミマセン」
「お前の頭が悪ければ今度の高校を勧めはしない」
「……あいつ、スポーツ科学科受けるんだって? 円堂と同じ高校の」
「聞いたのか」
「反対したらしいじゃん」
「別に反対はしていない。将来についてじっくり話し合ったんだ」
「ふうん」
 久遠が耳元に手を伸ばした。不動は手の近づく気配を察し、自分からピアスを外した。三つ、銀色の六角形の隣に並べる。
「明日は何をするつもりだ?」
「サッカー」
「入試前日だぞ?」
 久遠の手がコツンと頭を叩く。
「あんたもどうよ?」
「夕方になる」
「いいじゃん」
 その時、パジャマ姿の冬花が頭にタオルを巻いてやって来る。
「何の話をしてるの?」
「サッカーやろうぜ、ってやつさ」
 な?と不動は久遠を見上げる。
 久遠は溜息をつき、
「冬花、明日はジャージを着なさい」
 と言った。子供二人は驚いた。
「スカートに泥がついていた」
 冬花はみるみる顔を赤くし、はい、と照れた小さな返事をした。



2010.10.18