秋の決断







 ソファで膝を抱えてテレビの台風情報を見詰める冬花の向こう、ベランダの向こうでは轟く雷鳴と激しい雨。時々風が、雨と一緒にガラスに叩きつけられる。マンションはわずかに揺れる。
 久遠はそれを遠くに見詰めながら、台所の隅で携帯電話から聞こえる不動の声に耳を澄ませていた。
 愛媛は台風一過の晴れ空が広がっているらしく、静かな部屋の空気が伝わってくる。窓を開けているのだろうか、自然音が揺らぎのように入り込む。
「一度、そちらに行く」
 冷蔵庫に貼りつけられた月間の予定表を見て、日程を伝える。不動は特に異論を挟まなかった。
 不動の口から冬花の名前が出る。彼はリビングに戻り、娘に携帯を手渡す。
「不動だ」
 冬花はリモコンを片手にテレビをミュートにすると、携帯電話を耳に当てた。
「明王君」
 いつの間にか、冬花は不動のことを名前で呼ぶ。話しながら笑みさえこぼした。
「…うん。じゃあ、お父さんに返すね。……え? いいの? うん。じゃあね」
 通話を終えた携帯電話が手の中に返される。ぬくもりがのこっている。
 冬花はテレビの音を戻す。そしてぽつりと、愛媛はもう晴れてるのね、と漏らした。
 夜、風は随分止んで小雨だけが残った。夕食も終わるころ、冬花は冷蔵庫からビールを取り出して久遠に注いだ。
「まず、私達でお祝い」
「不動から聞いたか?」
「うん」
 あんたの養子になる話、決めた。久遠の耳に、不動はわざとぶっきらぼうな口調で言った。冬花にはどうだったのだろう。昼間、娘は笑っていた。
「明王君、台風の日に決めたのかしら」
 台風の進路を逆算すると、そうなるのかもしれない。今日、二人が聞いた雨風の音を、二日前の不動が聞きながら自分の未来について考えたのだ。
「いつ東京に引っ越すの?」
「向こうの学校を卒業する必要があるから、三月になるか」
「そうか…、そうだよね。私、何だかドキドキしちゃって」
 冬花は胸を押さえ、天井を向いて照れ笑いをした。
「電話で聞いただけで、明日からもう明王君がいるみたいな気がしちゃった」
「…冬花」
 確かめるように名前を呼ぶと、冬花はかすかな微笑みだけを残してまっすぐ父の顔を見た。
「お前にも言っておこう。来週末、愛媛に行く。不動の両親に会う」
「明王君と一緒に?」
「おそらく……いや、私一人かもしれない」
「うん」
「冬花」
 久遠は手を伸ばし、娘の手を握った。冬花はその上から優しく自分の手のひらを乗せ、大丈夫よ、と囁いた。
 それ以上ビールは進まなかった。小雨の降る音だけがさわさわと囁き続けた。冬花が皿を洗いながら、ふと手を止める。そして流し台、ガスコンロの上に載った毎朝お湯を沸かすケトル、今夜余ってラップをかけたおかずを順番に見た。
「不思議ね」
 彼女は一言だけ呟いた。


 新しく発生した台風は大きく進路を逸れ、飛行機は無事愛媛に到着した。
 久遠は朝から一人で行動していた。不動の父親が現在住むアパートは隣市にあり、最初に到着した市内に戻ったのは午後に入ってからだった。
 その病院を訪れるのは二度目だった。それ以外はほとんど書簡での遣り取りだった。不動の母親は丁寧な文字と言葉遣いで息子の養子縁組についての遣り取りをした。
 面会室は明るく開けた広い部屋で、気に障らない程度の間隔で置かれた丸テーブルにはそれぞれ数人の患者が座っていたが、そこにいる人数を考えると驚くほどひっそりと静かだった。
 不動の母親には事前に伝えていたとは言え、彼女の態度は驚くほど落ち着き払っていた。医師が後ろに控えていたが感情を高ぶらせることもなく、養子縁組の話、手続きの説明は終わった。
「次は冬に参ります。彼の高校受験の前に」
 うなずく首は細い。不動の母親はゆっくりと椅子の背にもたれかかり、軽く天井を仰いだ。溜息が一つ漏れた。
「おかしいと思われるでしょうが」
 彼女はゆっくりとした口調で言った。
「あの子の親でなくなることに私はホッとしているんです。こんなことを考えるからおかしいんでしょうか。でも、私、本当は……」
 私は今でもあの子を愛しているんだけど…。
 泳いだ視線はふと久遠の上で止まり、彼女はひどく上品な微笑を浮かべた。
「明王をよろしくお願いいたします」
 椅子の上で深々と頭を下げる。長く伸びた髪が肩からなだれ落ちた。
 久遠は何を言うこともできず、同じようにただ頭を下げた。


 病院を出てすぐに空は翳り、驟雨が降り注いだ。久遠は歩いて帰るつもりだったが、思いの外激しい雨に慌ててタクシーを拾いホテルまで走らせた。
 止まった信号待ちの交差点、目の前の横断歩道を見慣れた少年少女の姿が横切った。冬花と不動だった。藤色の傘を不動が冬花にさしかけていた。冬花は笑顔で喋っている。不動はいつもの顔だ。笑みでもなく、わずかにぶっきらぼうに何か短い言葉を発している。
「ここで結構です」
 久遠は雨の中タクシーを降り、二人の姿を追いかけた。
「不動!」
 口をついて出たのは娘ではなく、少年の名前だった。
 既に歩道を歩いていた二人は立ち止まり、目を丸くしてこちらを振り返った。
「どうしたの、お父さん」
 冬花が久遠を軒下に引っ張り、不動はそれを追いかけるように傘を持った手を伸ばす。
「濡れちゃって」
 差し出されたハンカチを久遠は受け取り、目の上を拭った。
「……お前達が歩いているのが目に入って」
「らしくねえなあ。何慌ててんだよ」
「不動…」
 不動は母親に会いに行ったのだろうか。彼女が入院したのは、この少年が真帝国学園に入ったのと同じ頃。偉くなりなさい、と呪文のように繰り返した母。しかし、不動はその母を受け入れ今の人格を作り上げたのだ。
 養子になることを決めた。雨の中で、一人で?
 不動の肩は濡れていた。冬花のブラウスには雨の染み一つない。
「夏にお前はもう話したと言ったが、私はまだ話したりないと思っている」
「今更決意は変えねーよ。決めたことだからな」
「そういう心配をしているんじゃない」
 久遠は両手を伸ばし不動と冬花の肩を叩いた。
「夕飯を食べに行こう」
「まだ早いわよ?」
「昼抜きで腹が減っているんだ」
「自分の体調管理もできてねえじゃねーか、監督サン」
「目の前のことに一生懸命になれば、忘れることもある」
 取り敢えず一つの傘に三人は狭かった。
 新しい買い物、傘を二本。
 買った途端に雨は上がり、冬花はくすくす笑い、不動は遠慮せず笑った。



2010.10.10