春の決断
田舎だが道はきれいに舗装されていて、黒いアスファルトの上に陽炎の立つのが見える。たくさんの荷物を積んだ軽トラックは大して揺れることもなく、田んぼの中の道を行く。 「キャラメル、食べない?」 助手席から冬花が尋ねた。 「こんな暑いのに、よく甘い物を食う気になるよな」 「『トトロ』の真似よ。お父さんは?」 「一つくれ」 運転席と助手席の間の狭い席に座る不動の目の前を冬花の白い腕が伸び、指先に抓まれたキャラメルはステアリングを握る久遠の口の中に放り込まれる。 「ジブリとか観るのかよ」 不動は、自分もキャラメルを食べる冬花に話しかける。 「観るよ。金曜日の夜、たまにテレビでやるでしょ。ほとんど観てる。でも『火垂の墓』は苦手。怖いの」 映画はほとんど観たことがない。金曜日の夜にテレビをつけて眺めるような生活ではなかった。全く違う環境下で育ったのだ、彼女とは。 「明王君、塩キャラメルならどう?」 冬花は別のパッケージを取り出す。 「いくつ持ってきてんだよ」 「マンゴーとね、普通のと、塩」 「なんで三つも」 「どれが好きか分からなかったんだもの」 不動は渡された塩キャラメルを口に入れる。別に普通に甘いと思う。少ししょっぱいか? でも充分甘い。 軽トラックは減速し、田から少し高台になったところへ上る。石垣の組まれた上に家が建っている。見るからに農家だ。焦茶色のトタンで作られた納屋もある。 「ここ?」 不動がフロントガラスに顔を近づけ、家を見上げる。冬花が窓から顔を出す。 「ええ」 家までの急な坂道を、軽トラックは大きな排気音を立てて上った。 土が剥き出しの広い庭。家の背後は森だろうか、それともこれで小さな山なのだろうか。春の緑が正午近くの陽光に光っている。 家は平屋で縁側に全て雨戸が立てられているせいか、少し威圧感を与えるように大きく見えた。 久しぶり、と言いながら冬花が助手席を降りる。不動も車を降りた。目の前の冬花の後姿は、彼女には珍しいスカート以外の姿だった。イナズマジャパンのジャージ。去年、不動が着ていたものだ。 「雨戸を開けてくれ。縁側から荷物を入れる」 後ろから久遠が声をかける。 不動と、玄関の鍵を開けていた冬花はそれぞれ返事をした。 「わあ、涼しい。ちょっと寒いね」 先に靴を脱いだ冬花が言う。確かに軽トラの中は汗ばむほど暖かかった。春の陽気が外には満ちているが、締め切られた家の中には冬の寒さがまだ残っているかのようだった。 玄関から暗い。家とはそういう作りなのだろうか。ろくに聞かなかった学校の授業だが陰翳礼讃という言葉くらいは不動も知っている。真っ直ぐ伸びる廊下は闇に包まれているようだった。座敷から冬花の声がする。 「電気が点かないの。明王君」 台所側のガラス障子を開けると、座敷にもわずかに明かりが射す。 座敷の空気は澱んで、埃くさい。縁側の戸の鍵は冬花が開けた。不動は見たことがなかった。螺子式だった。 「お前は来たことあんの?」 「二回だけ。FFIがあった年のお正月と、冬のおばあちゃんのお葬式の時」 雨戸は不動が開けた。 音を立てて重たい木の戸が開く。座敷にさっと陽が射す。薄く埃が舞い上がるのが白く見える。 「大きいっつうか、広い家だな」 「うん」 先の冬まで久遠の母親が住んでいた、久遠の生家だった。 雨戸を全て開けると、物のないように見えた座敷にも生活の匂いが残っている。隅に積み重ねられた座布団と長机は葬式の時の名残だろう。仏壇の戸を冬花が開ける。真新しい位牌が手前にある。仏壇の前の座布団は分厚く、金糸の刺繍もされている。冬花はその上に座り、不動を振り向いた。 「明王君も挨拶してあげて」 不動は少し離れて斜め後ろに座った。冬花は線香は立てずお鈴だけを鳴らして手を合わせた。不動も軽く手を合わせながら、まるで鐘の音みたいな音だな、と思った。お鈴は小さな鍋くらいの大きさがあった。 「お父さんはあんまり里帰りしなかったけど、おばあちゃんはお父さんのこと自慢だったの」 冬花は立ち上がり、天井近くを指差す。そこには額縁に収められた賞状が何枚も並んでいる。 「書道…、読書感想文…?」 くどうみちや、から、久遠道也殿、まで。 「サッカーはこっち」 高校の時のものらしい。賞状と一緒に写真も収められていた。 「お父さんは後ろの列の右から二番目」 冬花の指がさす。不動も隣に立ってそれを見上げた。 「若いっつーか」 「お父さん、この頃からちょっとお父さんっぽいのよね」 「二人とも!」 縁側から声が飛ぶ。久遠が段ボール箱を抱えたまま覗き込んでいる。 「お喋りは後だ。早くしないと今日寝る場所がないぞ」 「はーい」 冬花は返事をしてぱたぱたと玄関へ駆けていく。 「お前もだ」 「へいへーい」 不動もその後に続いた。 引越しの荷物を縁側から運び入れる間、冬花が屋内の掃除をした。布団はこの家にあったものを使えばいいと思っていたが、押入れを開けるとやはり埃や黴の匂いがするので、午後の間庭に干すことにする。 結局、荷物を解く余裕はほとんどなく、あっと言う間に夕方になった。夕食の買い物は、近所を知っている冬花に任せる。自転車の後姿を見送り、久遠は風呂を沸かす。太陽熱で沸いているらしく、熱い湯はみるみる浴槽に溜まった。 「先に風呂に入らないか?」 座敷に向かって声をかけたが返事がない。 不動も汗だくになって荷物を運んだのだ。洋間に置く冬花のベッドさえ組み立てた。 「おい」 服の裾で手を拭きながら座敷を覗く。 ひどく静かだった。夕方の明るい橙色をした光が縁側から射す。不動は座敷の真ん中に横になっていた。うつ伏せで、顔だけ横を向けて。 久遠は息を詰めて不動に近づいた。無防備な寝顔がこちらを向いている。ジャージの上が肩からかけられているということは、冬花は彼が眠っているのを知っていたのか。 確かにTシャツにジャージ姿だったが、と久遠は自転車に乗る娘の後姿を思い出す。まだまだ、陽が暮れれば寒くなるのに。 不動は起きなかった。 音が、何もしない。風呂の湯は止めた。柱には時計がかかっているはずだが、電池が切れたのだろうか。 風もない。都会のように車も通らないから人工音がほとんど、いや今は全くしない。 久遠は隣に横になった。瞼も唇も閉じた表情はよく見たことがあるが、ここまで無防備ではなかった。初めて見る顔だった。 明王、と囁くように呼んだ。 瞼が静かに持ち上がる。その下から大きな瞳がこちらを見た。 無心だ。何もなかった。ただ瞳に久遠が映っているだけだった。敵意もなければ、しかし優しささえない表情だった。ただ、何故自分がここにいるのか、何故生きているのか、という根源的な謎と謎へのかすかな不安が瞳の奥から問いかけてくるような、そんな表情だった。 「…眠りなさい」 久遠が額に向けて手を伸ばすと反射のように瞼が閉じる。二度、三度と頭を撫でてやると、静かな寝息が聞こえた。手を退かして見たのは、いつもの不動の寝顔だった。 それを見詰めている内に、暗くなるのも忘れた。山の端に夕日が沈もうとする頃、冬花が自転車を押して坂を上がるのが聞こえた。久遠は立ち上がって表に出ると、冬花から買い物の荷物を受け取り、風呂に入るように言った。 「先にいいの? 明王君は?」 久遠は指を一本立ててみせる。 座敷を覗き込んだ冬花は振り向いて微笑むと、自分も唇の前で人差し指を立てた。 夕飯は台所のテーブルで摂った。惣菜の中華と、おにぎり。日が暮れると急に寒くなったので、ガスコンロのグリルで焼きおにぎりにした。不動は頬に畳の跡をつけたまま食べた。 「明日は役所に届けを出す」 久遠が言った。それから不動の目を見た。 「いいな、明王」 不動は笑わなかった。ただ一つ頷いた。 「私、留守番するわ。片付けもあるし、あともち米と小豆見つけたの」 「赤飯なんて自分で炊けるのか?」 「失敗しても笑顔で食べてね」 不動の顔を見ると、赤飯はもち米なのだと初めて知ったのだろう顔をしていた。 「ねえ、今夜はどうするの?」 「あの布団で大丈夫だろう」 「私のベッド、シーツが荷物の中だから今夜はまだ使えないの」 男二人が急に黙り込むのを冬花は微笑んで見詰めた。 「川の字だよ」 「…明王、冬花に指一本触れたら」 久遠が言いかけたが、それより速く不動は手を伸ばして冬花の頬を抓んだ。 「…仕返しっ」 冬花も手を伸ばして不動の鼻を抓む。 不動はにやにや笑い、冬花も楽しそうに笑った。 久遠は仕方なく、私が真ん中だ、と言った。
2010.9.28
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