夏の決断
エレベーターの中での冬花のちょっとした仕草。靴の踵を小さく二度打ち合わせるそれが『オズの魔法使い』のドロシーだと気づいた時、やはり子供にも秘密はあるのだ、こんなに懐いた娘でも、と久遠はこれから自分のしようとしていることへの不安が掠めた。既に迷いも躊躇もない。考え抜いたことだし、冬花とも何度も話し合った。しかし。 「冬花」 呼ぶと、娘は夢から覚めたような目で自分を見上げた。 「なに、お父さん」 「無理についてこなくてもいいぞ」 「そんなことないよ。私も不動君に会いたい。ちゃんと話すところに、一緒にいたいの」 軽い電子音。階数表示がロビーで止まる。二人は鉄の箱から出ると奥の喫茶店に向かう。約束の時間にはまだ早い。片隅で商談が行われている他は有線放送のクラシックが静かに流れていた。 「私、表で待ってる」 冬花が返事を待たずロビーに逆戻りする。久遠はその後姿を見送り窓際の席を取る。表の通りに冬花が出てくるのが見えた。 また踵を打ち鳴らす。二度。 子育てどころか結婚の経験もない自分が幼い少女を引き取った時、覚悟はあったとは言えやはり戸惑いも多かったことだ。だからまず習慣を作った。おはようの挨拶。いってきますと、ただいま。食事は必ず一緒に。仕事が残っていても、眠る前の冬花には本を読んでやった。 ドロシーはルビーの靴を履いている。踵を二度打ち鳴らして家へ帰る。 先日梅雨の明けたばかりの空は明るく、日差しが強い。冬花はまだ焼けていない白い手で庇を作り、通りの向こうを眺めている。彼女は本当に不動が来ることを望んでいるのだろうか。無理に嘘を吐く娘でないことは知っている。しかし子供にも秘密はある、か。 庇を作っていた腕がすらりと空に伸び、冬花は手を振る。向こうから不動がやって来る。夏の日の下、遠目に耳の辺りが光るのが見えた。ピアスだと思った。 久しぶりに見る不動は大人しい印象だった。自分からは口を開かず、コーヒーに手をつける仕草はこれから何が起ころうが興味のない風を装っていたが、目にはわずかに警戒の色があった。しかし久遠が養子縁組の話を切り出しても目に見える動揺はしなかった。 「どうだ」 一通り話を終えた久遠が促しても黙っている。 ピアスは以前見た時よりも増えているが、夏服から覗く手足に装飾はない。サッカーは続けているはずだ。不動のまだ短い人生の中で、彼は普通の少年であれば経験し難い苦渋を飲んできたが、それでもサッカーは手放さなかった。苦しみの最中にあってさえ、それがよすがだったのだから。 「それってさ」 大きな瞳が自分を見上げる。視線はいつものように鋭い。 「東京でサッカー続けろってこと? それともあんたの家族になれってこと?」 「両方だ」 そう答えるのに久遠は躊躇わなかった。何度も自問し、娘とも話し合ったことだった。不動を家族に迎え入れるということを。 わざとだろう、不動はにやりと笑ってみせる。 「俺の素行を見ても、そういうこと言う訳か?」 「お前の行動に責任を取る大人がいることは、良いことだと思う」 「私生活も監督しようっての?」 言葉が自分の中に入り込む前にガードしている。久遠が甘言を弄し、自分を誑かす意図のないことは分かっているはずだ。しかし。 「二人で話したいんだけど」 不動は、久遠の隣に座る冬花を見た。 「うん」 席を立つ冬花を見上げると、向かいからも椅子を引く音がするので驚いて不動を見る。 「少し歩くか」 「いいよ」 「監督」 不動は振り向くと、いつもの意地の悪い笑みを浮かべた。 「あんたとはもう話したよ」 外へ出て行く二人を久遠は見送り、その姿が見えなくなると口をつけていなかったコーヒーにようやく手を伸ばした。 川沿いを海の方角へ下る通りの古い景観。冬花は、温泉の匂いがする、と言って微笑んだ。 「今度愛媛に行くのって言ったら、守君があそこには足湯があるんだよって。前はゆっくりする暇なんかなかったけどって」 不動が特に返事をしなかったので、冬花の言葉はそこで終わる。 丹塗りの橋の半ばで冬花は立ち止まった。川を渡って涼しい風が吹き上げる。不動は気負う様子もなく冬花の隣に並んだ。 「不動君、私達と家族になるの、嫌?」 彼にはまだ家族がいることも冬花達親子は分かっている。一緒に暮らしていなくとも、不動には血の繋がった父、自分を生んだ母が生きている。 「苗字も変わっちゃうもんね」 「別に大したことじゃねーよ。女なんかほとんどそうだろ」 「うふふ。結婚するみたい?」 「バーカ」 冬花はなおも笑い、バカって言われ慣れてないから傷つくわ、と言ってみせた。 「お前らは」 低い声で不動が言った。欄干に頬杖をつき川の向こうに視線を遣ったまま冬花に言葉を投げる。 「お前らはいいのかよ」 「何が?」 「俺は赤の他人だぜ」 「私とお父さんもそうだったわ」 何気なく言ったが、不動はまた黙り込んだ。 「私ね」 冬花が呼びかけると、不動が目だけでこちらを見た。 「お父さんが私を幸せにしてくれたみたいに、私も不動君のことを幸せにするつもり」 「…気安く言うんじゃねーよ」 「私とお父さんはもう決めてるわ。覚悟するのは不動君の方よ」 「何の覚悟だよ」 「だって怖いでしょう? 私は記憶がなかったから、すんなりお父さんの子供になっちゃったけど。でもね今、決断を迫られたらきっと怖くない。お父さんのこと知ってるもの。私、自分を幸せにする覚悟、できてるの。だから不動君が家族になったら、不動君も巻き込んで幸せになる覚悟、できてるわ」 お父さんもそうなのよ、と冬花は呟いた。 欄干の向こう側に投げ出された不動の手を掴むと、彼は驚いてそれを振り払おうとする。しかし冬花は両手でしっかりとそれを握り締めた。 「ね?」 「な、なんだよ!」 「不動君が離そうとしても、私が手を離さないから」 「……それ脅迫じゃねえか」 冬花は踵を二度打ち鳴らす。ふと、不動がそれに気づく。 「どこにでも行けるわ」 握り締めた手を見下ろして、冬花は囁いた。 「行きたい場所が分からなくても、私達、どんな場所でも、新しい場所に行けるわ」 握り締めた手からそっと力を抜く。しかし不動は手を振り払わなかった。二人で繋いだ手を見下ろす。川下から強い風が吹き上げる。長い髪が乱れて頬にかかるのを、不動の空いた手が伸びてきて耳にかける。 「俺、変わるつもりはねえよ」 「私は不動君のピアス格好いいなって思ってる」 「自分でも開けてみろよ」 「どうしようかな」 不動の手は、まだ耳元にあった。 「そうだな。お前、箱入り娘って感じだもんな」 ホテルまでの帰り道は日に向かって歩くせいで白く光って見えた。ここは今朝まで雨が降っていたらしい。だから風も涼しいのかと思った。 「いつまでいる?」 「明日、お昼前の飛行機で帰るの」 「観光する暇もねえな」 「不動君がこの後、案内してくれたらいいんじゃないかしら」 不動はまた、バーカ、と言ったが嫌とは言わなかった。 「晩御飯、一緒に食べようよ」 「気が向いたらな」 「不動君が家族になったら、私がお姉ちゃんね」 「はあ?」 「だって、私が先にお父さんの子供になったんだもの」 不動はわずかに顔を赤くしていた。 「それともお兄ちゃんがいい? 誕生日いつだっけ不動君」 「齢一緒なんだから別に気にする必要ねーだろ!」 「妹が欲しいなあとか思ったことない」 「バッカじゃねえの」 「バカって三回目。ひどい、お兄ちゃんったら」 「やめろ!」 「じゃあ…明王君って呼ぼうかな」 不動は頭を掻いた。バカとは言わなかった。冬花はそっとその顔をのぞきこんだ。 「……冬花」 ぼそっと呼ばれた。 「ふふっ、お兄ちゃんみたい」 「ちげーし」 ホテルの前に久遠が立っているのが見えた。冬花は大きく手を振り、お父さん!、と呼んだ。隣で不動が顔を赤くしてそっぽを向いていた。
2010.9.25
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