クリア・スカイ、ブライト・ワールド
搭乗アナウンスが高い天井に反響する。知らない言葉の冷たい女の声が幾重にも反響して、やがて意味さえ失う。ただの振動となって、明るい青空を映すガラス張りの天井から降ってくる。白く清潔な床の上で振動は死に絶える。不動は足の裏にそれを感じる。裸足だ。靴をどこに捨てたのだろう。何故、靴を捨てたと覚えているのだろう。今、何故、ここにいるのかも思い出せないのに。 俺はどこへ行こうとしているのか。 多分、これもまた逃げている夢だ。 夢ならばどこへ行こうと勝手だろう。不動は立ち上がり、搭乗ゲートへ向かう。懐を探ってもチケットが出てこない。仕方ない、と嗤いすれ違いざまに誰かの懐からくすねた。 しかしチケットを盗まれた男はこちらを見て笑っている。 「どこへでも行くがいい」 その声にはっとして振り向くと影山零治の後ろ姿が遠ざかる。 瞼を開いた。目覚めた。まだ早いのは分かっている。異常な目覚めだ。動悸が激しい。すぐそばには久遠のぬくもりがあった。 暗闇の中で目をこらす。久遠は仰向けに、静かに眠っていた。不動は背を向けながら、自分の背中を相手に押しつけるように横になった。ぐいぐいと押しつけると、久遠の手が伸びてくる。寝返りを打つ音。強い腕が腰を抱く。寝息というより溜息が首筋に触れた。 安堵したのは事実だった。不動も小さく溜息をつき、瞼を閉じた。 瞼の裏側がだんだん白い光で満たされる。 不動はまた空港のベンチに座っている。知らない言葉の柔らかな女の声が幾重にも反響し、最後は意味を失って明るい天井から降る。恐ろしいほど白く清潔な床の上に振動は降り積もり、いつのまにか不動の胸元まで満たす水になる。 ちゃぷんと水音がして、小さな魚の尾びれが跳ねた。青い尾びれ。それを目で追うと、反対側から自分の顎に向かって伸ばされる手がある。なめらかでひんやりとした手は不動の首を捕まえ、そっとこちらを向かせる。 目の前で冬花が微笑んでいる。腰から下が青く光っている。人魚なのだ。 「どうして返事をしないの?」 冬花が尋ねる。 「なんだって?」 「さっきからお父さんがアナウンスで呼んでいるのに」 「女の声だった」 そうだ、お前の声じゃないのか、と言うと、冬花はくすぐったそうに笑って水に潜り、反対側から顔を出す。 「ほら、よく聞いて」 確かに男の声だ。低く、重い、久遠道也の声だ。 「行かなくちゃ」 冬花が手を引く。 「どこへ」 「お父さんのところよ。迎えに行くの」 「だから…どこ」 「タイタニック号は嫌だって言ったのは明王君じゃない」 冬花は笑う。 「踵を鳴らして、明王君。私は靴が履けないの」 冬花の手が優しく不動の頬を包み込み、軽い口づけが触れる。 「お礼に…」 冬花が何かを言ったが聞こえない。不動は踵を鳴らそうとして足を滑らせ、透明な水の中に落ちる。思いの外、床まで深いと思うと、天井に向かって不動は落ちてゆく。 道也、と呼ぼうとするが声が出ない。口から出るものは幾重にも反響した意味のない振動だけだ。 そして、今度こそ目が覚めた。時計のアラームが鳴るのより十五分も早かったが、二度寝する訳にもいかない。十五分か、惜しいな、と思ったがそれ以上に厄介な熱を発見した。何故か勃っていた。 久遠の腕が外れていたのは幸いと思った。不動は慎重にベッドから抜け出し、バスルームに向かった。 冷たいシャワーを浴びながら、手で処理するかどうか迷っていると足音が近づいてくる。 「明王君?」 よりにもよって冬花だ。 「もう走り込み終わったの?」 「ちげえけど」 シャワーカーテンの隙間から顔を出す。 「…おはよ」 「おはよう」 寝間着姿の冬花はまだ眠そうで、欠伸をしながら返した。 「シャワー、浴びてから行く?」 「…あー、うん」 「風邪引かないようにね」 ぺたぺたと足音を響かせバスルームから出て行く後ろ姿を見送る。熱はおさまっていた。不動は盛大に溜息を吐き、降ってくる冷たい水で顔を洗った。 いつものコースを一周して戻ると久遠はもう朝食を終えて出かけるところだった。 「早いな」 「昨夜言っただろう」 「そうだっけ」 玄関先でキスをして別れる。 「いってらっしゃい」 「行ってくる」 窓から、彼がアパートを出て行くのまで見送り、ようやく朝食の席についた。冬花は自分の分は食べず、不動を待っていたようだった。 「髪、生乾きじゃない?」 パーカーを脱いだ不動の短い髪に触り、冬花はタオルを持ってくる。 「はい」 頭に柔らかなタオルの感触。 「拭いてくれねーの?」 「ご飯の席だからごしごしはやめてね」 冬花は一足先にいただきます、と手を合わせる。 二人の間には山盛りのサラダ。朝は和食だろうとトーストだろうと、これだけは変わらない。そして決まってトマトが添えられている。不動は顔をしかめてそれを咀嚼する。 食べながら、不意に冬花が呼んだ。 「最近、夢を見る?」 どきっとして、どうして、とだけ短く返す。 「夢を覚えてるって疲れてることなんだろうけど、最近、よく同じ場所にいて」 「へえ…」 「相手が自分にどれだけ好感を持ってるかってね」 急に冬花は話の矛先を変えた。 「夢の話をちゃんと聞いてくれるかどうかで分かるんですって」 「ふーん」 「もう、ちゃんと聞いてよ」 「ゆっくりしてる時間あるのかあ?」 冬花は、意地悪、と言うと不動より先に食べ終えてテーブルを片付け始める。 「食洗機のスイッチ押してくれるだけでいいから」 意外に忙しそうに冬花は立ち回り、バッグを抱えて出て行こうとした。 「冬花」 不動は呼び止め、振り返った冬花に向かってタオルをちょっと持ち上げてみせた。 「ありがとな」 「いってきます」 言われたとおり使った皿を食洗機に入れてスイッチを押す。 歯を磨きながら考えた。冬花はどんな夢を見るのだろう。そして自分の隣で眠る久遠は、夢の中でどんな景色の中にいるのか。呼んでくれるのだろうか、隣に眠っている自分を。 すぐ隣に、すぐ側にいるのに、夢の中にいる限り距離はあまりにも遠い。 「そんな」 口の端から泡をこぼしながら不動は独り言を言う。 夢の中でまで離れたくないとか独占したいとか言う訳ではない。 「子どもじゃあるめえし」 垂れた泡が顎まで伝ってきたので慌てて洗面台に向かった。 「あんたさ」 その夜、不動は髪を拭きながら寝室に入ると、久遠に話しかけた。 「夢とか見んの?」 「どうした」 「昨夜、棒って言うか、まっすぐ倒れたみたいな格好で寝てたから」 「見てはいるだろうな」 久遠は不動を自分の足の間に座らせると、後ろから髪を拭いてやりながら答えた。 「あまり覚えてはいない」 「ふうん…」 「何か気になる夢でも見たのか」 一瞬で消えた影山零治の後ろ姿。 人魚の冬花。 自分の名を呼ぶ久遠のアナウンス。 どこへ行くのか分からない、空港の、搭乗ゲート前。裸足で佇む。 「べっつに」 不動は顔を上げて相手の顔を覗き込み、にやにやと笑った。 「夢の話につきあうのは好意を持ってる証拠だってさ」 久遠が髪を拭く手を止め、じっと見つめ返してくる。ぐっ、と力を傾けると、そのまま二人でベッドに横になった。 厚い手が短い髪を撫でた。 「風邪を引くぞ」 「冬花にも言われた」 不動は横になった久遠の上に覆い被さり、なあ、と言った。 「キスしていい?」 いつもはそんなことは、わざわざ訊かない。久遠も少し不思議そうな顔をしたが、低い声で小さく、いいぞ、と答えた。 少し緊張しながらキスをした。触れ合わせ、押しつけて離れるだけだったが、唇を離した後、少し息が震えた。 「今夜…は…ここまでな」 「…そうか」 久遠の腕が優しく抱き寄せ、生乾きの髪を音を立てて撫でた。 その夜も夢を見た。 透明な水の中を沈んでゆく。明るい光が柱のように射す。不動が踵を打ち鳴らすとそれが波紋になって広がって、遠い海にいた人魚の冬花が泳いでくる。 ありがとう、と泡の声で冬花が言う。 お礼に…。 水の中できらきら光るものがある。たくさんのミニトマトが透明な水の中に降ってくる。これがお礼かよ、と思ったが、悪い気はしなかった。 久遠を迎えに行くために、不動は冬花の手を握った。 トマトの降る海の中を、泳いだ。
2011.5.6
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