夢の果ての岸辺にて







 深夜映画のせいで、死んでも想いは残るのかとか、そういうくだらないことを考えてしまった。
 夢を見た。
 実際には行ったこともないような深い森の中で、終わるともしれない逃避行を続けていた。倒しても倒しても敵は次々と送られてくる。森は大陸の果てまで広がっていて出口がない。
 終わりは、いつ訪れるのか。
 ここで殺されるのと、自ら終わりを選ぶことの間に差はあるのか。
 この生き延びたいという想いは、いったい世界のどこと繋がっているのだろう。もし自分の中でだけ生まれ完結するものだとしたら…。
 不動の足は止まり、木々の間から闇夜に近い空を見上げる。疲労が瞼の裏に映す幻か、それとも本物の星なのか。ちかちかと小さな金銀がちらついて、消えた。
 諦めきれなかった。
 生きて、この森を抜け出して帰りたい場所があった。もう一度見たい顔が、聞きたい声が。あの腕に抱かれて何の心配もなく安らぎたい。
 死んだらこの想いも消えるのだろうと思うと、自覚していなかったほどの恐怖を感じた。死に対して感じていたと思っていた恐怖は、実はこの消滅の恐怖だったのだと不動は気づく。
 肉体も、想いも、全てが朽ちて分解され消えてなくなり、自分も何を知ることも感じることもできない。そして誰も不動のことを知ることも感じ取ることもなく、いずれ忘れる。存在がなくなり、不動は今度こそたった独りになる。
 永遠の孤独だけが自分となる。
 草を湧け、一歩踏み出す。亀裂に気づかなかった。大地を裂く深いクレバスの中に不動は落ち込む。どこまでも落ち続ける。永遠に、消えてしまうまで。

 自分の心臓の音で目が覚めた。毛布の隙間から早朝の冷たい空気が流れ込み、身体が冷えていた。
 毛布に隙間を作っているのは自分の身体と、自分から少し離れた所で眠る久遠の背中だった。
 不動は毛布の下でじっとしたまま、ベッドの端で自分に背を向けている久遠を見つめ続けた。その視線は睨むと言った方が正しかったが。
 大人になってもこんな夢を見るのだと、ぴったりと口を閉ざした下で思う。死への恐怖が思春期を襲うことは誰しも当たり前にある話だ。それから段々、鈍感になるのか受け容れるのか恐怖は薄れてゆくが、今の夢は冬の暗闇の中で眠れなかった幼い自分の取り憑かれたそれと全く同じだった。目覚めて、自分の齢を忘れたくらいだ。
 久遠の背中を見ていても、ここがロンドンのフラットだとしばらく気づけなかった。窓の向こうに広がっているのが愛媛の住宅地か、瀬戸内の深い海か、東京の街並みなのか、記憶を巡り巡って不動はようやく自分の肉体、脂ののったサッカー選手の身体に帰ってくる。
 唇がわずかに開いた。
 不動は細く、深く、長く息を吐いた。
 昨夜は映画のせいで遅くなった。やらなかったんだな、という俗な思いが浮かび上がり身体の緊張がほどけた。不動はごろりと寝返りをうち、天井を見上げた。
 ロンドンのフラット。ここ数年見慣れた壁紙、天井の模様。
 腕を持ち上げる。もうあの頃のように非力な腕ではない。恐怖に為す術もなく震えていた頃のようでは。
 その腕を伸ばして久遠の背中に触れた。冷えている。道也、と小声で呼ぶと応える気配があった。
「こっち向いて」
 喉から出た声は存外優しい響きをしていた。
 久遠が寝返りをうち、手を伸ばす。
「早いな」
「そうでもねえよ」
「おはよう」
 腕が抱きしめる。若い盛りで体力もあるのは自分の方だが、しかし抱きしめる腕に感じる力強さはいつも久遠のそれが上で、不動は触れた部分からじわじわと安堵が広がるのに軽く瞼を伏せ、相手の胸に顔を押しつけるようにしておはようを返した。
「身体が冷たい」
 久遠が囁く。
「あんたのせい」
「私の?」
 それ以上喋らないでいると、仰向けにされ上から覆い被さられた。
 不動は久遠の背中が好きだ。そして下から見上げるこの身体も好きだった。いつも感じる彼の重量を視覚で捉えた時、そこに不動の胸を刺激する影や仕草が見える。久遠が不動の身体を褒めることは時々あるが、不動も久遠の身体には色気を感じている。
 久遠の手は穏やかな仕草で不動のTシャツの裾を捲り上げた。あらわになった腹や胸を、厚い手が這う。
「野菜を増やすか」
「なに?」
「抱き心地が良すぎる」
 手のひらが胸の上で掴むような仕草をする。
「良すぎるってことはねえだろ」
 不動は目を細め、見上げる。
「あんたの主観だ。あんたが俺のこと好きだから」
「自信ありげに言う」
「じゃなきゃあんたは好んで男の乳を揉む変態だろ」
 久遠は既に撫でるだけでは手を留めていない。指の一本一本が意志を持ち情欲を宿らせて肌の上を滑る。掴むものもないのに、胸の上でそういう仕草を繰り返す。
 感じないかと尋ねられたので、笑って足で蹴った。
 胸を揉まれればそれなりに不動の情欲にもスイッチが入る。手のひらだけでは飽き足らず舌で舐めてくる久遠の頭を抱きながら、初めて抱かれたのはここを撫でられてもすぐ肋骨に当たるような年頃だったと思い、今までの時間を計算する。
 たくさんある感情の中から彼への愛情を、雨の中にコップを置くように少しずつ満たしてきた。こんな風に久遠に触られると、グラスの溢れる瞬間を目にしたような気持ちになる。
 雨音が聞こえる。柔らかく葉を叩いている。
「こら」
 と久遠の声。
「寝るな」
「ねてねーし」
 しかし不動は目を瞑ったままそう答えた。
 上から覆い被さる重量と手のひらの優しさに身体がぬくもり、不動は気持ちよさに身体を委ねる。
 やがて重量は上から退き、力強い腕が背中から自分を引き寄せ、抱きしめた。
「…夢でも見たのか」
 尋ねる声に頷く。
 キスは後頭部と首筋に降った。手がいまだ未練がましく胸を軽く掴む。
「ここにいる」
 久遠の声に、胸の奥に残っていた息を吐いた。
 すぐそばにいる。久遠の手のひらに自分の記憶が残る。それを繋げ、伝えていくものが欲しいと思い、ああだから人は子どもを欲しがるのかとやっとその心境が理解できた。自分の身体が消えても繋がっていくものの中で思いや記憶が遺伝子にひそんで生きていく。
 それは無理だと分かっていたが、しかしもう消滅の恐怖は訪れなかった。少なくとも、たった今自分は孤独ではない。ベッドの中でぬくもりを共有している。
 また、水の叩く音。
「雨、ふってる?」
 呂律のあやしい声で尋ねると、どうかな、という返事と沈黙。
 流水の音。
 台所だろうか、いや浴室だ。
 小さな音で音楽が流れている。不動の瞼の裏には森の終わり、大陸の端、目の前に海が広がっているのが見える。
 海で歌う人魚は冬花だった。
 隣に久遠が佇んでいて、力強い腕にしっかりと肩を抱かれていた。
 二人で海を見た。
 まるで本物の景色のような、夢だった。



2011.4.3 腹板様からのリクエスト