one and only experience







 人生の内に何度という経験もできるだろうか。そういった産業や、あるいは文学が永々と夢見てきた幻だろうか。自分が死んでしまうようなセックス、などあるのだろうか、と久遠は考え、今まさに不動はそれを体験しているのだな、とぶるぶる震える背中を抱いた。
 体験したことのない激痛、精神的な震えも勿論初体験の久遠にはあって、今腕の中に抱いている細い身体はなんとしなやかに私を受け容れてくれたことだろうと尊敬の念さえ抱く。愛しさが痛みを凌駕した。不動のことを抱きしめたくて抱きしめたくてたまらなくて、抱きしめた。一度ならずの感情ではあったが、まさか挿入される側になってその愛情が溢れるとは思わなかった。
 久遠の中に全てを埋め込んだ不動は震えながら息を吐いている。それが過去から襲い来る恐怖故か、現在の快楽によるものかは分からない。久遠は肉体的には痛みしか感じていないから、本当に不動は気持ちいいのだろうかと心配ではある。
 不動、と呼ぶ。
 震える息。
 明王、と呼び直す。
 震える小さな声で道也と呼ばれたような気がした。ああ、とか意味のない声だったのかもしれないが、久遠は名を呼ばれたのだと確信して不動の背を抱く腕に熱を込めた。
 窓を叩く風。冷たい霧雨が時々風にあおられてフラットの壁面を打つ。そのたびに優しい音が、さあっと駆け抜ける。それは久遠の身体を満たす不動明王への愛情の波と似ていた。己が肉体の痛みと、この狭い肉に挟まれて身動きのとれない不動をあやすように、湧き出る優しさが静かにとめどなく溢れ、熱となり、息となり、囁きとなって皮膚の外に漏れた。
 不動が身じろぎをする。何かを言いたげに唇が動く。言葉は明瞭にはならず、歯がもどかしげに久遠の胸や首を噛んだ。
 雨音が降る。久遠は手を伸ばし、不動の腰を撫でる。腕の中のしなやかな身体はびくりと跳ね、久遠の中にあるものもより深くを探るような痙攣じみた動きを見せ、それは慣れ始めた久遠にまた痛みをもたらしはしたが、構わない、と思った。
 不動の与える痛みなら構わない。それはきっと不動も感じている痛みだからだ。分かち合う。独りにはしない。この腕に抱く限り決して、独りには…。
 繰り返し腰を撫でると、止まらんばかりだった不動の呼吸が蘇り、久遠の首筋を熱く湿らす。撫でながら久遠は、すまない、と胸の内だけで思う。せめてほんの少しでも、お前を悦くしてやれればよかったのだが。
 道也…、と今度こそ名を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
 不動が顔を上げる。今も涙がこぼれている。感情。肉体の反応。不動は痛みを堪えるような顔だ。いや、それよりも複雑なものがその表情にはあった。恐怖、不安のたぐいだとしても、一般的なそれとは異なっていた。山の頂、大陸の果て、見たことのない地平を目にするあの、全てから自由に解き放たれてしまう一瞬の、人間の根底を見せるような顔だった。
 二人はしっかりと視線を合わせた。不動の腰が動く。痛みに、久遠は目を伏せず耐える。不動はすぐ俯き、また熱い震えた息を吐いた。道也、とまた呼ぶ声がする。
「怖くは…ない」
 喉の奥から絞り出すように不動は言った。
「あんたのこと怖くはない。俺…多分…」
「無理はするな」
 しかし不動は首を振った。腕に力が入る。不動の身体は、ただ久遠に抱きしめられるままではなく意志をもって起き上がった。
 不動は手のひらで涙を拭い、久遠を見下ろした。
「あんた、いつもこんな視界なの」
「お前だって…上に跨がった時はそうだろう」
「いいや…」
 不動は手を久遠の身体の上に滑らせ、言った。
「全然違う」
 ぐっと視線が下を向いた。今まで直視するのを避けてきた場所を不動は見つめていた。久遠の膝を押し開き、自分たち二人が繋がっているのだという箇所をまじまじと。
 これまで不動はそのことを自覚するだけでも恐怖から嘔吐してきたが、今夜は落ち着いていた。荒いが、意志のある呼吸を繰り返し、自分の腰を二、三度久遠に押しつけた。
「ローション」
 何故だか泣きそうな顔で不動は笑った。
「たっぷり使った甲斐があった」
 無理をして言った冗談にも聞こえたが、久遠もそれに無理にでも笑いたい気分だった。二人は顔を見合わせ、互いの情けない顔を見ながら笑った。しかしそれは誤魔化しではなかった。共感の笑いだった。
 不意に、笑いがつかえる。不動の上半身が倒れ込み、切羽詰まった声が訴えかける。動く、と低く囁かれた。久遠は頷いて目を伏せた。
 それは痛みだったが、久遠は気づき始めていた。自分が不動によって満たされていると。その事実が思考と肉体の両面から感じられた時、久遠の身体も痛み以外のものを痛覚から拾い上げた。
 繋がる。一つになる。まるでこの世を忘れてしまうようなセックス、など都合のいい幻想なのかもしれない。事実、この痛みに対してそれら言葉は美化が過ぎるかもしれないが、それら言葉とこの行為に通底する喜びは本物だ。
 よく、私を選んでくれた。
 久遠はせわしなく息を吐く不動の背に爪を立てた。離したくない、と言葉にすればあまりにも小説的だったので行為で伝えた。伝わらず、後で痛いと文句を言われても構わない。しるしを残したい。愛しているというしるしを、どうしても不動の身体に刻みつけたかった。
 不動の喉から呻きが漏れる。久遠はその瞬間を待ち、固く目を閉じる。

 疲労が二人の身体を見たし、どちらも無口だった。
 しかし眠ろうとはしなかった。シーツの隙間に裸のまま横たわり、ただ黙って相手の体温を感じたり、時々触ったり、思い出したように二言三言のおしゃべりをした。
 夜明けが近くなりようやく、寝るかという言葉をどちらからともなく口にする。
「本当は」
 不動は呟く。
「寝たくねえけど」
「どうして」
「分かんねえ」
 不動は寝返りをうち、久遠を腕に抱きしめ言った。
「ほんと、分かんねえんだけど」
 既にそこにあるのは満足感でも達成感でもない。不眠の疲れ、思考の抜け落ちた無表情。
 自分を抱く腕の重みが心地よかった。久遠は瞼を閉じた。急に静かになった。自分が眠りに向かって墜落するのが分かった。だが眠ろうとする意識を、不動の重みがずっしりと抱きかかえていて、ああ自分は不動に抱かれていることを感じながら眠ることができるのだ、と幸福に思った。知り得るということは業ももたらすが、勿論そこには快楽もあるのだ。
 朝が来るまでの短い時間の中、久遠は不動の腕によって眠りの底に深く深く沈められた。



2011.5. 8 くどふど前提のふどくど