invisible deep cut







 ゆるやかに時間の流れる、金曜。それがもうすぐ土曜日に変わる。
 明かりをつけた。台所には、まだただよう甘い香り。片付けたテーブルの上には冬花の焼いたケーキはもう欠片も残っていないが、甘い香りが数時間前のあたたかな時間を思い出させる。
 久遠はレモン入りのペリエをコップに注ごうとしてふと考え込み、コップとそれを壜ごと持って、明かりを落としたキッチンを後にした。
 ベッドの上には不動が背を向け、横になっていた。
 小さな声で名前を呼び、ベッドに腰掛ける。不動は振り向こうとしなかった。久遠は冷えた壜を不動の額に触れさせた。
 ペリエの緑色の壜に不動は額をすり寄せた。それから、芯からの笑みではないものの疲れた後のようなそれを顔に浮かべた。
「みっともねえとこ見せたな」
 その声は嗄れていた。久遠は黙ってコップにペリエを注ぎ、不動の目の前で揺らした。
「起きてから飲みなさい」
 不動は重たそうに身体を持ち上げ、コップを受け取ると久遠に背中を合わせて座った。久遠の背にはぐっと重みがかかる。二十代後半の、脂ののりきったフットボーラーの体重が、背を押す。
 久遠は微笑んだ。不動の安心と、自分によせる信頼がその重みだと感じた。右手を後ろに伸ばし、相手の左手をつかまえる。
 コップの中身を飲み干したのだろう、身体の動きが背中に伝わる。
 溜息、腹の底から吐き出すような。
 指が軽く絡まり合った。
「情けねえ…」
 小さくこぼすような声で不動が呟いた。
「そんなことはない」
「白々しいぜ」
 後頭部がぶつかり合う。
「男、なのによ」
 指が強く久遠の手を握りしめた。
 久遠は俯き気味の視線のまま、後ろの様子をうかがった。
 ペリエがベッドサイドの明かりに照らされ、緑色の影をベッドの上に落としている。不動の声はまだ嗄れていた。しかし彼はその壜を取ろうとしなかった。指は絡まり合ったままだった。

          *

 誕生日、ということに久遠は頓着していなくて、帰宅した時フラットの明かりが全て落ちていたこと、そしてリビングのドアを開けた瞬間溢れ出した光とクラッカーの音に本当に驚いた。
 ハロウィンでもあるまいに、冬花と不動は仮装までして出迎えてくれた。冬花はピンクのドレスに髪をツインテールにして、更にはふわふわした猫の耳。不動はタキシード姿かと思いきや吸血鬼だったらしく、わざわざ口から血の垂れるメイクまでしていた。
 こうなると普段着のままの自分が浮いて見えるが、そこは冬花が猫の耳をつけてくれて、誕生日で祝われる自分がなぜこんな格好なのだろうと疑問が湧かなくもなかったが、パーティーグッズの必需品的な三角帽子をこの歳でかぶらされるよりはマシかとも思った。後でそう不動に言うと「大して変わらねーよ」と笑われたが。
 五十を目の前にした誕生日をそう祝うものだろうかと思ったが、娘も不動も楽しそうに祝ってくれるのは胸がじんわり熱くなるほど嬉しく、アルコールを少し多めに飲んだ。それから、不動が準備してくれた料理と、冬花のケーキと。
 交代でシャワーに入る間、冬花と不動は律儀に片付けまでしてくれている。普段は分担している家事もなにもすることがない、至れり尽くせりの夜。
 冬花から頬のキスを受け、おやすみの挨拶を交わす。この時、既に不動の姿はなかった。
 寝室に入ると、ルームランプに照らされた不動の背中が見えた。
 既に裸になった不動はベッドの上に胡座をかき、こちらに背を向けて座っていた。ドアを閉めるとその音に振り返り、笑いを浮かべる。
 久遠もまた服を脱いだ。脱ぎながら、何度か不動の背中に視線を遣った。
 背中の、脇腹に近い箇所に、不動は傷がある。
 出会った時には既にあった。彼の真・帝国学園時代のカルテにもあった。刃物によってつけられた傷だ。
 今は注意して見ないと分からないが、そこだけ皮膚の色が違う。白く細い線が、緩い弧を描いている。
 久遠は手のひらで覆い隠すようにそこに触れた。後ろから首筋や耳にキスをしていると、不動の手が伸びてきて傷に触れる自分の手を軽く握った。
「不動…」
「ん?」
「その、だな……」
 言い淀み、久遠は視線を逸らしながら言った。
「私が、抱かれてもいい」
「……は?」
 不動はぐるりと振り向き、久遠は逸らしていた視線を合わせる。
「どういう風の吹き回しだよ」
「どう、ということはない」
「っていうか誕生日だろ? サービスされる側じゃねえの?」
 しかし楽しそうに笑いながら不動は近づく。
「でも…、ま、それがお望みなら、俺もやぶさかじゃねえぜ」
「優しくしてくれるという約束を信じたまでだ」
「おう、任せとけ」
 キスをしながら不動が興奮しているのが分かった。二人の間では初めてのことに緊張もしていたかもしれない。久遠もそうだった。心臓が高鳴り、不動の手が触れるのにいつも以上の反応をしてしまう。
「シャワー長いと思ったら、なに、そういうこと?」
 紅潮した顔で不動が言う。
「丁寧に洗ってくれたわけ? 俺のために」
「言うな、野暮ったらしい」
「恥ずかしいんだろ、あんたが」
 くすくす笑いながら不動は久遠の身体を押し倒す。
 細い身体だと思っていたが、さすが現役のプロサッカー選手だ。ルームランプの逆光にその体躯を見上げながら、久遠は思わずキスをする。
 気づいて不動が明かりを落とした。
 暗闇の中、心臓の音が聞こえるかと思うほどに鳴る。久遠は促されるままに足を開く。太腿に、不動の手を感じる。
 コンドームのパッケージを破く音などが、やけにはっきりと聞こえた。久遠は心を決めて、目を瞑る。
 不動の息づかいが荒い。近づいてくる。小さく呻いている。
「あ……」
 まるで呼吸ができないかのような息。
 苦しげな呻き。
「……不動?」
 思わず起きあがると、不動の身体はぐらりと胸にもたれかかってきた。
 手を伸ばし、明かりをつけた。胸の中で不動は瞼を伏せ、冷や汗を流していた。顔色が蒼白になっている。
「不動」
「……やべ」
 気持ち悪い、と言うか言わぬかのうち、不動はベッドから半身を落とし嘔吐する。慌てて背中をさすると、すんでのところで引き寄せたのか、不動はゴミ箱の中に吐いていた。
「大丈夫か」
 それには答えず、不動はパーティーで食べたものを全部吐き出すと、それでもなおえずいて胃液を垂らす。
「もうやめろ」
 抱き起こしティッシュで口を拭ってやる。
 仰向けに寝かせると「見るな馬鹿」と小さな声で罵倒されたが、黙って受け流した。
 しばらくして息が落ち着いたので、キッチンに水を取りに行ったのだった。

 悪かったな、と不動が小声で言った。
「何故、お前が謝る必要がある」
「全部だよ全部」
「なにが悪いものか」
 久遠は返す。
「…ま、そうだな。これで冬花の安全は実証された訳だし」
「そういう言い方をするな」
「事実だろ」
「それ以前にお前も冬花も信頼している」
 手がほどける。
 不動が横向きになり、背中に頬を押しつけた。
「やっぱ、駄目だわ」
 ぽつりと呟かれた。
 久遠は黙って、背中でその言葉を聞いた。
「改めて、あんたのこと尊敬したよ」
 カルテ。十代前半から強要された性行為。力や金と引き替えに、不動は自分の身体を道具扱いできる少年だった。
 一体なにが行われたのか。
 それはカルテや資料から推測するしかない。それさえ現実には及ばないのだろう。恐怖は今も不動の身体と心の奥深くに巣くっている。あれから十年以上経とうとも…。
「…私が怖いか」
「怖けりゃこんな風にしてねえよ」
 久遠は不動の名を呼び、自分の膝の上に抱いた。それから進入を果たせなかった不動に触れ、手で高みに導いた。そう言えば、こんなことは不動が十代の時、まだ子どもだった時以来だと思う。
 一緒に、と不動が囁くので向かい合って座った。不動の手は震えながら久遠に触れた。
 昇りつめる際、不動は細い声を漏らし、それを恥ずかしがるように久遠の肩に顔を埋めた。久遠はキスのできる場所にどこでもキスをし、絶頂を迎え脱力した不動の身体を受けとめた。

 不動が口をつけたコップでペリエを飲む。当の不動は壜から口づけに呷っていた。
「私は諦めていないぞ」
 久遠は言った。
 壜から口を離した不動は驚いたように久遠を見たが、苦笑しながら返した。
「俺の科白だよ」



2011.3.18