ケーキよ、音楽よ、人の世の喜びよ







 四階までの階段を上る足がその日は少し重く、それは精神的なものではなく単純に疲れているのだと不動には解っている。確かにここ数試合スタメン出場するものの見せ場はなく、今日の練習でも手応えはよくなかったが、しかし。
 不動は階段の最後を爪先で駆け上がる。ドアの前にジャンプするように両足で着地する。鍵は開いていた。
 台所からなんともテンポのよい曲が流れてくる。あ、なんか昔聞いたことがあるな、と思ったがアーティストも曲名も思い出せない。顔を出すと、久遠が曲に合わせて肩を揺らしながら魚を捌いている。
「調子に乗って踊ってっと怪我するぜ?」
 声をかけると驚いたらしく、むしろそのせいで包丁を取り落としかける。
「…おかえり」
「ご機嫌じゃねーの」
「冬花のiPodが…コンポに接続されたままで…」
「悪かねーよ」
 きまりの悪そうに言い訳を紡ぐ久遠の頭をごしごしと撫でると、髪の毛が落ちるだろう、と必要以上に怒った。
 キッチンテーブルから久遠をからかっている間も曲は流れ続けていた。曲はテンポが速く英語の歌詞も早口だったが、どれも明るい曲調で聞き取れる言葉はポジティブなメッセージだ。不動が曲に合わせてつま先で床を叩くと、久遠が振り返って、ほらお前もだろうというような視線を投げてくる。不動は、あんたもだろうという視線を返す。
 冬花が帰宅したのはいつもより遅い時間だった。玄関から呼ぶ声が聞こえるのでドアを開けると、彼女はケーキの箱を両手で大事そうに抱えて立っていた。
「ただいま明王君、これ持って」
「…ケーキ?」
「奮発しちゃった。あら、今日はお魚?」
 冬花は鼻を掠めた香りに台所の方を見る。
「塩焼き」
「甘いのはミスマッチかしら。でも、いいわよね」
 コートを脱ぐと冬花は不動からケーキの箱を受け取り台所に向かう。不動はその背中をちょっと引っ張って止める。
「気づかないのか」
「え?」
 冬花は立ち止まり、台所から流れてくる音楽に、あ、と小さな声を上げた。
「私のiPod…。明王君?」
「監督」
「お父さんが?」
 踊りながらとちょっとした誇張表現を交えつつさっきのことを話してやると、冬花も楽しそうに笑った。似合わない、という言い方はひどいかもしれないが、いつも無表情な彼が機嫌のよさを表に出して浮ついているのを見るのは二人にとって楽しく面白いものだったのだ。
 誰の歌だっけと聞くと、スキャットマン・ジョンよ、と答え。
「スキャットマン?」
「猫じゃないわ」
「分かってる」
 それでも名前には何だか聞き覚えがなかった。
「結構昔の曲じゃね?」
「そうね。もう死んじゃった人だから」
 死というキーワードは不意に二人の間を静まり返った穏やかさで満たす。不動は冬花の唇に軽くキスをし、ようやく言い忘れていた「おかえり」を言った。
 三人は何故かダイニングに移動せず、キッチンテーブルの上にところ狭しと料理を並べ夕食にした。真ん中には冬花の買ってきたケーキ。ピンク色の生クリームで装飾されたそれを、久遠は大胆に切り分ける。一人頭三分の一。
「おいおい多すぎるだろ」
「私の目測に狂いはない。過不足なく三分の一だ」
「そういう意味じゃなくてよお、何も今夜全部食うことねーだろ」
「大丈夫。たまにはいいじゃない」
「お前ら、いつもは俺より食事管理厳しいじゃねーか」
「その私たちが食べろと言っているんだ」
 もしかして気を遣われているのだろうか。ここ数試合ちょっと調子が出ないだけで? ケーキで慰めようというのは自分のことを知っている久遠と冬花にしてはちょっとやり方が違う気がするから、単に冬花が食べたいのに自分も付き合わせているだけかもしれないが…。
 ピンク色の生クリーム。上にはみずみずしい苺が幾つものっている。茶菓子は美味い国だし、冬花が買ってきたものだから味を疑う訳ではないが。
 不動は一切れ口に入れた。口の中に入れた瞬間から全身を包み込むように広がったのはただの甘い香りではなく、久しぶりに食べる苺の甘酸っぱい香りと、それからリキュールだろうか。
 鼻から深く溜息をつくと、冬花が満足そうに笑った。久遠も表情を緩め、自分のケーキを一口食べた。
 コンポからはまだスキャットマンの曲が流れている。

   ――実際どんなことがあっても身を引いちゃいけない

   ――実際どんなことがあっても身を引いちゃいけない

「…もらいっ」
 不動は冬花のケーキから苺を一つ取り上げて口に入れた。
 突然のことに冬花はぽかんとして口を開けたが、不動が苺を食べるのを見るとまるで母親の慈愛のような表情を浮かべ、
「じゃあ私もっ」
 と久遠のケーキから苺を一つ取り上げて、あーん、と口に入れた。
 久遠はさっきから不動と冬花の二人に驚いていたから今更でもあったけれども、やっぱり驚き自分はどうすべきか苺の一つ減ったケーキと向かいの席の不動を見た。不動の唇の端には生クリームがついている。不動はそれを拭わない。
「…キスをするなら顔を隠しておくけど」
 笑顔で冬花が提案する。
「やめなさい冬花」
「何だ、してくれねーのかよ」
「お前もやめろ、明王」
 不動は生クリームを拭った指をしゃぶり、にやにや笑った。
 疲れは心地よさに変わっていた。階段を上る時は重かった足で、不動は床をぱたぱたと叩き鳴らした。



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