ホスピタリティな待遇を願います







 ぼやけた視界を埋めたのは緑の芝。
 それから、まばたき。
 人の顔だろうか。スタンドの光が眩しくよく見えない。
 また、まばたき。
 暗い。
 車輪の音が長く響いている。
 瞼が開かない。
 寝ていいはずがない、と不動は思っている。まだ試合中のはずだ。
 なのに何故、何も見えない?

 ひっきりなしに名前を呼ばれているような気がしているが、ピッチが遠のき、人の顔が見えなくなり、車輪の音も遠のき、なるようになれ、と瞼を閉じているのに更に瞼を閉じたような闇の中に落ちる。

 暗いと思ったらだんだん明るくなって天国だったらまだ早い、とちょっと笑った。
 時間と感覚のない、温度も感じられないそこにいたのは一瞬のような、一晩のような。

 明るい場所にいると思っていたら、頭の上から目の潰れるような光が降り注ぎ、直感的にそれは天国じゃないと感じる。
 それが痛みだと認識したのは、自分の肉体を思い出したからだった。
 肉体。痛み。
 しかしまだ思考は系統立たず混濁した中で痛みの明滅を感じていると、その向こうから何か穏やかでしっかりとした触り心地のものが流れてきて、そこに意識が集中する。
 体温よりも温度の低いそれに両手を突っ込んでもよく分からず、頭から突っ込んでみると耳がぴりりと生きる血流に痺れた。
 声が聞こえる。
 穏やかで低く心地のよい声が意識を撫でるように流れてゆく。
 耳の覚醒がそっと意識と肉体を呼び起こす。
 不動はようやく重い瞼を持ち上げた。
 視界がぼやけているのと白く邪魔されているのは包帯のせいだろうか。
 頭に包帯?
 まばたきを繰り返し、視界を取り戻す。
 視覚も脳の視覚野も一気に目覚めた。
 久遠だ。
 すぐ脇の椅子に腰掛け本を読んでいる。声に出して読んでいるのだ。
 ああ、やっぱりアンタだ、と言おうとしたが口が動かず、鼻から息が漏れた。
 久遠の顔が上がり、本を膝の上に伏せる。不動はもう一度鼻から息を吐いた。
「起きたか」
 と小さな声で久遠は尋ねた。不動はまばたきで応えた。
 久遠は立ち上がって看護婦を呼ぶ。
 そんなのいいのに。もう少し本を読んでくれればいいのに。俺のために読んでくれたんだろ、わざわざ声に出してさ。
 ばたばたと医師や看護婦がやってきて、久遠が後ろに下がる。
 不動は不満の視線を投げかけた。
 ちぇ、野暮なやつ。
 ウィンクしたつもりが両目が閉じる。
 そして心地よい眠りに落ちる。
 今度はそれが気持ちのよいものだと実感しながら、長い穏やかな眠りを貪った。

 しかし次に目を覚ました時、痛みは具体的になっていて、それは接触、転倒した際に全く無防備に落ちた頭と首。
 チームメイトが次々と見舞いにやって来て、むち打ちのカラーをつけて動けない自分と記念写真を撮る。やめろ消せと言っても身体がうまく動かせないので、写メは監督にまで送られた。監督は普通の見舞いをして帰ってくれたのに。
 冬花は、まだ不動が目を覚まさない時にやって来て泣いたらしい。顔を真っ青にして飛び込んできたと教えてくれたのはナースだ。
「お姉さん心配してたわよ」
 いつもは不動が兄のように間違われるのだが、この時は何故か印象が逆転したらしい。首が動かないせいで大人しくなったせいだろうか。
 冬花は不動のチームメイトと鉢合わせるたびに口説かれていたが、そこはエドガー・バルチナスも袖にした彼女らしく笑顔で断る。
 不動はそれを見てにやにや笑い、久遠は本気で渋い顔をする。デートのアポイントなら自分を通せ、と言って立ち塞がらないのは冬花ももう大人だし彼女のことを信頼しているからなのだが、不動はその鬼の形相が面白くてまたにやにやする。

 久遠は時間の許す限り病室にいてくれた。いつも本を持参し、最初は黙読していたのだが不動がつまらないと訴えると声に出して読んでくれた。最初のタイトルは『高野聖』。著者、泉鏡花。
「…何でそれだよ」
「この前もこれを読んだぞ」
 スタジアムから運ばれて最初に目覚めたあの時、聞こえていたのはこの古めかしい日本語だったのか。
「だからそのチョイス」
「私はもともと国語教師だ」
「うっそ、あれ、ちょっと待て」
「何を待つ」
「そうだったっけ、あんた…」
 驚きすぎて首がまた嫌な音を立てるところだった。
「ベンチの前に仁王立ちになってるとこしか思い出せねえ…」
「お前とは監督としての関わりしかしていない、当然だ」
 恋人としての関わりは?と聞き返そうとしたが、今こうして病室にいて本を朗読してくれようとしていること自体そうだと思い、枕の上に頭を落とす。
「じゃ、読んで」
 久遠がしおりを挟んだところを開こうとするので、指差す。
「最初から」
 彼は溜息をつき、最初のページまで戻った。

 喋る時間よりも朗読の時間の方が長かった。
 不動は物語の結末にこだわらず、その日の気分で本を決めた。だから久遠はいつも何冊かの本を携帯することになった。
 冬花が「朗読者ってベストセラーがあったわね」と話しかける。
「どんな話?」
「結末は気にしないんでしょ」
 と教えてくれない。
 しばらくするとただ寝ているのも暇だからと外に散歩に出るようになった。
 中庭のベンチで朗読をしていると時折小児科病棟の子どもも興味を持って聞きにくる。久遠の声の調子も少し変わって、その姿に不動は教壇に立つ時もこんなだったのだろうか、と自分の知らない姿を想像する。
 朗読が終わり久遠が帰る際の会話はいつもこれで締められる。
「あー、ボール蹴りてえ」
「今は身体を治すことに専念しろ」
 入院中、検査はしつこいくらいに行われた。頭に傷があったせいで、ちなみに治療のために髪を刈られてしまい、またモヒカンにしてやろうかと包帯の取れる日を待ちわびる。

 医師から帰宅の許可が出たのはしつこいくらいの検査の後だった。
「検査しすぎじゃね?」
「不安要素を残したまま復帰したいか?」
「そうじゃねーけどよ」
 ロボットのようなぎくしゃくした動きで帰り支度をする不動を手伝いながら久遠はたしなめる。
「自分の身体の管理をするのも」
「はいはい分かってます選手の仕事だろー?」
 よくできました、と頭を撫でようとして久遠は慌てて手を引っ込める。
「…残念」
 不動はにやっと笑い、鞄を取り上げて病室を出ようとしたが、またぎくしゃくした動きで部屋に戻るとドアを閉めた。
「すっかり忘れてた」
「何を」
「これ」
 ぎこちない動きで近づき、軽く唇を触れ合わせる。
「目、覚めた時からしようと思ってたんだよ。なのにあんたが医者だのナースだの呼ぶから…」
「それは…悪かった」
 久遠から唇を重ね、赦してくれ、と囁く。
 これ治ったら覚えてろよ、と不動も囁き返した。
 病院を出た階段の下では冬花がタクシーを用意して待っていた。
「お帰りなさい」
 冬花が表情をくしゃっとさせて手を振っている。不動もそれに応えようとした矢先だ。
 間近でフラッシュが光った。
 パパラッチだ。病院の中までは入ってこなかったが、まだカラーをつけたままの不動の姿を何としても写真に収めておきたいらしい。
 自分がむち打ちで入院していることは既に報道されていることだから、黙って通りすぎればよかったのだ。しかし階段を下りた先には冬花がいて、自分の隣には、おそらく同じフレームに収まっただろう久遠がいた。
 苛立ちは瞬発的に不動を襲い、彼を行動に駆り立てた。不動はパパラッチに向かって手を伸ばした。
 明王君!と冬花の叫ぶ声が聞こえた。それも遠かった。
 不動はパパラッチの手にしたカメラを取り上げようと手を伸ばす。
「明王…!」
 低い声。久遠が自分の身体を抱きとめ、押さえた。
「やめろ」
「あいつら写真を…!」
「放っておけ」
 しかし不動の怒りは収まらず、久遠の身体を押しのけて再び手を伸ばす。
 首が軋んだ気がする。
 構うかくそったれ!
「…そんなに事件を起こしたいか」
 抑えた、しかし叱りつける声が聞こえ、どん、と足元に衝撃。
 身体が浮く。身体が落下の恐怖にすくむ。
 しかも階段の上から!
 今度はむち打ちでは済まされない。骨折?
 サッカー。
 ああ馬鹿なことを!
 不動はぎゅっと目を閉じた。
 しかし落下の感触は一瞬だけで、すぐ力強い腕が身体を支えた。
 フラッシュが閉じた瞼の上からも分かる。連続してシャッターの切られる音。不動は恐る恐る瞼を開き、愕然とする。
「……何、やってんの?」
「見て分からないか」
 普通に佇むより幾分高い視界。
 背中と膝の裏を支える久遠の腕。いつもの無表情がすぐそばにある。
 パパラッチは嬉々として写真を撮っている。
「不動明王の退院の、大々的なアピールだ」
「な……!」
 久遠は不動を横抱きにしたまま、階段をしずしずと下りる。
 パパラッチだけでなく、タクシーの扉に手をかけてこちらを見上げている冬花も、これから治療を受けるためにやってきた患者も、顔を出したナースも皆、目を丸くして横抱きに抱きかかえられた不動を見ていた。
「ん……!」
「どうした。私はここでお前との関係をはっきりさせても構わないんだが」
「お…れが構うんだよ! 馬鹿!」
 階段を下りきるころには、冬花はもう笑い出していた。
「すごいすごいお父さん! キスはしないの?」
「するか馬鹿!」
 顔を真っ赤にして答えたのは明王。
「照れちゃって、明王君がいっぱいいっぱいなのって、可愛い」
「冬花……お前も後で覚えてろよ」
「あら、楽しみにしてるわ」
 久遠は結局、一度も不動を地面に下ろさず、そのままタクシーの座席に座らせた。
 ドアを閉めようとする久遠の襟首を掴み、不動は凄む。
「ホント、ただで済むと思うなよ、道也」
「私も…楽しみだが?」
 殴りかかる前に不動にストップをかけたのは痛む首だった。
 久遠は笑いながらドアを閉め、反対側から不動の隣に乗り込む。冬花はもうちゃっかりと助手席に座り、後ろを振り向く。
「おかえり、明王君」
 タクシーは動き出し、パパラッチのフラッシュが遠ざかる。ようやく視線を外に向けられると顔を背けようとした不動だったが首は痛むし、冬花の目が涙ぐんでいるのを見逃すにはタイミングが遅かった。
 だから渋々、小声で
「ただいま」
 と返した。
 久遠がバックミラーを見ると、運転手が二人の様子を見てにやにやと笑っていた。これを不動が知ったらまた怒るのだろうな、と思った彼は後ろから運転席をキックし、道を急がせた。



2011.2.20 入院あきお。お姫様抱っこという提案をいただいたので嬉々として…あれ…もっとラブいはずが