その朝の色を君がブルーと呼び窓を開けた







 浴槽になみなみと湯を張り、静かに身体を沈める。縁から溢れ出す湯の音は遠い波の音のように、まだ覚醒しきっていない冬花の耳をざわめかせた。半透明の厚いビニールのカーテンに囲まれて逃げ場を失った湯気が顔を包み込む。湯の面に広がった髪の毛は水気を含んでしっとりと沈む。
 時間が経つほどに夢の世界が遠くなる。輪郭が曖昧になり、リアルに感じていた感触が肌の表面から消えてゆく。
 昔よく見た夢の続きが、何年もの空白を経て不意に蘇ったのだった。暗闇の中で独り泣いていると幼い、しかし力強い手が自分を光の中に連れ出してくれる。太陽のような笑顔を持った少年に助け出され冬花の涙は止まる。そして大切なものを一つずつ拾い上げる旅に出る。手の中に拾い上げたものは落とさないように大事に抱き締める。しかし全てをこぼさないでいるのは容易なことではなかった…。
 湯の流れ落ちるのが止まりカーテンの内側は静かになる。外は目覚めたばかりの朝に動き始めた街の音。窓の向こうにシャッターの開く音や、自転車が疾走する軽やかな車輪の音。石畳の道路の上で跳ねフラットの四階、この部屋にも届く。
 裸足の足音が、届く。
 カーテンが開き、涼しい空気が頬を撫でる。冬花は眠気に首を傾けたまま、薄く瞼を開きカーテンを開けた手を見る。裸足が溢れ出た湯に濡れているのは浴槽に隠れて見えない。
「おはよう」
 低い声で不動が言った。まるで彼女の父そっくりの笑わない表情で見下ろしている。おはよう、と冬花は囁き返す。
「…眠いのか?」
「ゆめをみていたの」
 冬花の囁きは柔らかな響きを帯びて浴室の空気をわずかにざわめかせる。溢れ落ちる湯の音が冬花の耳を優しくくすぐったように。
「夢?」
 不動は浴槽の縁に腰掛ける。手が伸びてきて、頬に濡れてはりついた髪の毛をそっとかき上げる。冬花の傷一つない耳が露わになる。不動の指は尚もそこにとどまり、白い耳の形をなぞった。
 まどろみが世界を侵食したような優しさだった。冬花は、あなたの夢よ、と囁いた。
「俺の?」
「水のないばしょで、明王君をひろって抱きしめるゆめ」
 冬花が腕を持ち上げると、それは湯に濡れてたっぷりとした雫を落としていた。冬花はその手で不動の顎に触れる。不動は黙って身体を倒した。濡れた手は頬に触れた。
「まだ夢の中にいるのか」
 まばたきをし、冬花は瞼を開く。
「溶けたみたいな色ね」
 薄青い浴室の空気に朝の光がしずかに落ちる。夜明けの青が光をはらみ、浴室に満ちる水の粒子の一粒一粒までが見えるようになる。不動の表情が逆光の中にかすかに沈む。青い影の残った不動の表情は静かで、沈黙のようにあるいは眼差しのように冬花は名前を呼ばれる。
 冬花の白い手は湯船に沈む。彼女はわずかに首を反らし、伸びてきた不動の手を受け入れる。不動はさっきまで撫でていた冬花の耳に再び触れた。
 視線だけで湯の面を見下ろす。耳元に青い石のイヤリングが光っている。
「明王君…?」
「行きたがってたろ、骨董市」
 ここ一週間、風邪で倒れていた冬花はほとんどベッドから動くことができなかった。
「行ってきた」
 冬花は瞼を閉じ、そっとイヤリングに触れた。あたたかな指先に触れる石の冷たさは、触覚を通じて涼しげな鈴の音のように感じられた。
 忘れていた夢の続きだった。全てを抱き締めたままでいることはできなくてこぼしてしまった冬花の傍らに彼はいた。そしてこぼれたものは二人で拾い上げた。
「ありがとう…」
 ようやく風邪の治った朝のことだ。
 不動がドライヤーを使って髪を乾かしてくれた。父が起きだして紅茶を淹れてくれた。ジャムをねだると、コケモモのジャムをスプーンに掬って添えてくれる。
「窓を開けて」
 不動が窓を開けてくれる。
 素敵な青空だった。目を覚ますにも、たまった洗濯物をやっつけるにも最適な日になりそうだった。九月の風が爽やかに頬を撫でた。冬花は髪をそっとかき上げ、イヤリングの留まった耳を風に晒した。風の囁きはキスのように優しく耳に触れた。



2011.1.9