回帰する夜のモノローグ







「やさしい子どもだったころの話を聞かせて」
 冬花の笑顔に、そんなもんねーよと反射的に口をつきかけた言葉を喉の奥で留め笑顔に秘められた真意を探る。
 つまり俺とて生まれ落ちてすぐに天と地を指さした訳でも武蔵坊弁慶のごとく剛毛で生まれてきた訳でもなくて、ならばあの借金苦の始まる前のプチブル生活の詳細を知りたいのかと言えば仔細漏らさずだらだらと語ればいい訳でもないし、それ以前の思い出はひどく霞んでもいたからそのようなことはできそうもない。
 冬花が、ちょっとずつ社会に馴染むことを覚え始めた俺に無垢な頃の優しさを思い出させて今の精神と連結させようとしているのかと言えば、そんなお節介は今までしてこなかった彼女だからそれもおそらくないだろうと踏む。
 でなければ嫌がらせだが、冬花の笑顔からそれを酌み取るのは難しい。そもそも嫌がらせなどしそうもない。と言うと俺がまるで冬花を聖女のように扱い信じ切っているかのようだが、今このように考えてみれば意外とそんな幻想を抱いている自分でもあったらしく、俺はまさか今更母性とかそういうもんを求めてるんだろうかと疑う。ちょっと付き合いは長くなってきたので、冬花でも機嫌の悪い時はあるしむすっとして喋らない時はあるのは知っている。そういう時彼女は彼女なりにストレスを発散して割と時間をかけずに復帰するのだが、そういえばそれは冬花のあの過去に起因するものだろうか。かつては封印という形をとったストレスへの対応策は思春期に昇華され今に至っていると?
 ならばそう推測される冬花の真意だからこそ嫌がらせというのは考えにくく、大体人を不快にする行動をとるところを見たことがない。俺が見てないだけだと言われればそうだが、いやそれにしたって誰に訊いても答えは同じだと思うぜ。
 じゃあお節介でも嫌がらせでもないという前提でさっきの科白を振り返るに、やはりそれは不可解で、大体風呂上がりでほかほか湯気を立てながらにっこり微笑むそれが似合っているにしろ、「じゃあおやすみ」と言った直後の俺に向けて言うべき言葉と答えを得たい内容だろうか。
 そういうことを二、三秒のうちに考えて結局
「ん…」
 と曖昧な返事をした俺は半開きになった寝室のドアから中を見る。
 今夜は道也がいない。監督をしている大学チームの遠征で三日は戻らない。でも俺は二人が余裕で寝れるそのベッドに冬花を誘うのは、想像はつくと思うがそりゃもう気まずいレベルがハンパない。
 で、
「お前の部屋行っていい?」
 とか言う訳だが、冬花は当たり前のように
「いいよ」
 とあっさり承諾。
 風呂上がりの湯気。ほのかなシャンプーの香り(コンディショナーだろうか?)。タオルをターバンのように巻いて髪も上げているから、白いうなじが熱に火照っているのもよく分かる。開ケテオクレ、オ母サンダヨと声色を使う間でもない。扉は開かれシングルベッドは目の前で、冬花が机の明かりをつけるとランプシェードを越してあたたかそうな暖色の光が部屋に広がる。
 俺はドアを閉めてベッドに腰掛ける。冬花は化粧台の前に座ってドライヤーのスイッチを入れる。豪風轟音。ブラシをかけながら温風に舞う髪の毛はCMで見かけるように本当にふわふわと舞って、ぼんやり眺めているとちょっと掴みたくなる。
 ので、ぼんやりせず、最初の問いに答えるべく俺は俺のやさしかった子どもの頃を思いだそうとするが大体、借財づけになった頃より俺は強く生きようと心に決めて弱点はなくして痛みは見せない怒りは攻撃に乗せてあらわにぶつけると、向かい合ってきたのはマイナス感情のオンパレードだから、なんか変わらねえなあ、とため息さえ出ず過去の諸々をただ見下ろすのだった。
 優しさに縋れば弱くなり、優しい思い出に縋れば涙が込み上げ、優しくあれば付け入られ食い物にされるばかりだったので、自分の内側にも外側にも優しさを見いだせない。
 優しさとかそういう感情を持つことを恐る恐る始めたのはお前ら親子のお陰だと思ったが、多分そういう言葉が聞きたいんでもないだろうから感謝の念と愛情はまた別の形で表すとして、四度目だか五度目だかに回帰する最初の科白に答えるための思い出も言葉も持たない俺は結局黙り込んだまま冬花のベッドに腰掛け、やべえいい匂いする、とか男らしく頭悪いことを考えた。
 ねえよ、と答えれば早い。且つ、俺らしい。ねえよ。ぶっきらぼうに。でもそれを言うなら最初に言うべきだったのだ。もう冬花の部屋の冬花のベッドの上で暖色の明かりに照らされて髪はふわふわ匂いはいい匂いとか考えた後で答える言葉じゃない。
 無いなら、じゃあ逆にねだるか?
 冬花はその気になれば自分の思い出話をするから過去のアレは重い記憶にしてもタブー視はされていなくて、でも俺は今は別に冬花のやさしい子ども時代の話は聞こうという気分ではないし、冬花の昔と言えば円堂守が絶対絡んでくるから余計な嫉妬はしたくない。冬花の心を救ったのは父親となった久遠道也でもなく結局世界一のサッカー馬鹿だった訳で、俺なんざ手も出せない領域だから、いくら俺が母性を求めてにしろ家族的感情にしろ同類的感覚にしろ共感にしろ愛情にしろ冬花を好きだと思って独占しようとしても、これがほぼ永久に無理な問題なのだった。
 いや別にいいけど。東京、愛媛という地理的障壁を抜きにして考えても、ハリネズミよろしく身体中から刺々しさを発散していた俺が、弱り切っていた幼い冬花を相手にして救ってやることなどできるはずもない。久遠道也という冬花の父親、俺の恋人を間に置いてこそ、俺たちは今この関係を築けたのだ。
 父と娘、監督と教え子、選手とマネージャー、ひっくるめて恋人や家族という血は繋がっていないにも関わらず妙に濃く、そして意外と緩い関係の中で、冬花に触れられるということはそこそこ足りたものを心に与えてくれる。久遠がいなければ冬花にも出会わなかったろうが、久遠がいなければ冬花を自分のものにしようとしただろうとは思う。
 冬花のことを考えるのは心地よい。ふと無重力に陥ったような気持ちがして目を開けると、冬花の指先が肩に触れている。揃えられた指先は軽く俺の肩を押し、俺は押されるままにベッドに倒れ込む。スローモーションのように、ゆっくりと。
 ぼふん、と音がして倒れた。
「…何すんだよ」
「寝てたでしょ」
「寝てねーよ」
「ううん、寝てた。気持ちよさそうな顔でうとうとしてたわ」
 ベッドが背中に心地よく、俺は起きあがらない。冬花は俺の隣に腰掛け、俺を見下ろしている。手が伸びてきて額を撫で回し、髪に指を通す。されるがまま抗わないでいると冬花は
「猫みたい」
 と微笑んだ。
「にゃお」
「明王、明王にゃん」
 いつもならこんなからかわれ方はむっとするところだが、俺は目を細めて冬花を見上げるだけ。本当に猫だったら喉をごろごろ鳴らしてやるところだ。
 冬花も身体を傾けるとベッドに横になった。とさっと音がして、いい匂いが舞い上がる。ベッドの跳ねるわずかな反動。
 指先を長い髪に絡めると冬花は軽く瞼を閉じる。
「お前こそ眠いんだろ」
「明王君よりは眠くないわ」
「嘘つけ」
 冬花の髪の匂いは、ふと路地を曲がった時やキッチンに足を踏み入れた時に思い出す冬花の匂いだった。思い出すのは冬花の顔だけではなくて、仕草や言った言葉や冬花という存在全てだ。匂いにそれだけの情報量が入っているのか、匂いが引き出す情報量がすごいのか。今もベッドに横たわって髪をいじりながら感じているのは今の瞬間だけのことではなく、記憶さえ遡った俺と冬花の間の様々な出来事で、一瞬時間も忘れるし自分がどこにいるのか判然としなくなる。確かに俺は眠いのかもしれない。
 いつの間にか冬花の瞼は開いていて、ほんの少し微笑んでいる。無防備な顔だ。
「やさしい顔」
 冬花が言う。
「してるわ」
「うん」
「明王君が、よ?」
「まさか」
「本当」
 冬花はまばたきをしてからまた俺の顔をじっと見つめ、ね?、と言う。
「分かんねーよ」
「見えない?」
「自分の顔は見えない」
「私の目の中」
 何を言ってんだかと手を伸ばして額をはじいてやろうかと思ったが、不意に腕が伸びて冬花から俺を抱き寄せた。俺の顔は冬花の柔らかい胸に直撃する。
 おいおい、いいのか?
 しかし冬花は何も言わず、俺を抱きしめ胸に顔を埋めさせ、柔らかな光の下に俺を眠らせるのだった。
 俺は眠った。何度か夢を見、何度か目覚めた。いつの間にか毛布にくるまれて眠っていた。冬花の手は優しく俺を抱いていた。明かりはついたままだった。光と影が混ざり合い、瞼の裏を様々な記憶がよぎった。やさしくない子どもの俺が憮然として夜の中に棒立ちになり、一人で歩こうとし、転んで膝を擦り剥いて泣きそうになるけど泣かず歯を食いしばって周囲を睨みつけるが、それも全て今安心して眠る俺と俺を抱きしめて眠る冬花の中に落ちてくる。
 子どもの俺が眠り、夢の中の俺が眠り、俺が眠りの中に深く落ちて冬花の匂いだけが意識に残る。
 いい匂いだ。



2011.3.1