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この曇天の下に贈られた安らぎ







 休日と言うのに朝から冬花は沈み込んでいて、口数少なく朝食を用意し普段どおり家事をこなし洗濯を干し終えると放心したように空を見上げていた。霧との見分けもつかないような薄くぼんやりした灰色の空。声をかけると、もう十日以上も空を見ていないの、と彼女は呟いた。
 寒い日が続いていた。暖房をつけるにはガス代を考えて躊躇うような、しかしつけないままでいたら部屋の中でもダウンを着込んでしまいたくなるような。じっとしているとひそかに忍び寄って身体の芯にいつくような静かな寒さだった。
 冬花は不機嫌な自分を滅多に表に出さない。それは彼女の美点かもしれなかったが、誰も特別それを褒めることはない。男たちは彼女のその包容力にすっかり甘えてしまっている。久しぶりに沈んだ顔をする冬花のそばには不動しかいなくて、不動も彼女には散々世話になりっぱなしなのだ。恩がある。
 リビングには暖炉があった。火を入れることは滅多にないが使えない訳ではない。薪のストックがなかったため、発火剤と一緒に買いに出ることにする。
「ちょっと待ってろよ」
「……うん」
「あー…一緒に行くか?」
 彼女は黙って頷いた。
 薪を運ぶには車がなければ不便だ。タクシーを呼んでガソリンスタンドに向かった。途中スーパーに寄り、適当に買い物をする。ココアと、とにかく甘い物を。
 フラットに戻ると冬花をソファに座らせ、暖炉に火を入れた。久しぶりのことに時間はかかったが薪はなんとか燃え始めた。
「あったかい」
 冬花は結局ソファには大人しくしていなくて、不動の隣で火をつけるのを見ていた。
「原始のあたたかさね。人類が生まれたころから変わらない…」
 ソファに戻ろうとしないので、不動はクッションを彼女のもとに持ってきてやると自分は台所に消えた。ココアを入れ、買ってきた菓子の内、どれを出そうかと思う。本当ならケーキなんかがよかったのかもしれないが、不動は店なんか知らないし(当然、そういう店は冬花の管轄だ)何が喜ばれるのかも分からない。不動の近くにいる、またはいた女性は大体が気が強くて、彼に対してジャッジスルーを食らわせることも躊躇しないような性格ばかりだったのだ。冬花も思いの外気の強いところはあるが、やはり彼女の中心は柔らかくあたたかいものでできている。
 マシュマロを取り出し、ココアとマシュマロの組み合わせはどこかで聞いたようだと思い、袋のまま持っていった。皿に盛りつけるところまでは、不動も気が回らない。
 ココアを手渡すと冬花はありがとうを言った後で続いて手渡されたマシュマロの袋と不動を見比べ、その日初めてくすっと笑う。
「甘やかしてくれているの?」
「悪いかよ」
 冬花は立ち上がるとラグを持ってきて暖炉の前に敷いた。
 ココアを飲みながら冬花は身体を小さく丸めて火にあたっている。ちょっと肩を抱き寄せると抗わずそのままもたれかかってきた。
 抱き締めていたクッションに顔を埋め、冬花は呟く。
「お日さまが懐かしい」
 そして頬ずりをした。
「晴れた日に布団や毛布を干すの。そして夕方の前に取り込んで…あの匂いが好き」
「知ってるか?」
 少し意地悪そうな声で不動は言う。
「あの匂い、ダニの死骸の匂いなんだぜ」
「知ってます」
「…なんだ」
「トリビアでも言っていたものね。私は学校で聞いたけど」
 彼女は抱き締めたクッションの匂いをかいだ。
「同じ研究室の友達がその匂い苦手だったの。何の匂いか分かったら気持ち悪くなっちゃったんだって」
「乾いた死体の匂いか」
 冬花はちらりと不動を見上げた。
「不思議な言い方」
「そうか?」
「乾いた、死体の、匂い」
 彼女のウィスパーボイスはそれを一言一言はっきりと、感情のない美しい声で読み上げた。
 不動の肩にかかる重みが増した。冬花は目を開けていたが、一層脱力して不動にもたれかかっていた。不動は足を広げると後ろから冬花の身体を抱き、頭の上に顎を乗せた。
「乾いた死体の匂い」
 低い声で繰り返す。
 冬花が尋ねた。
「誰のこと?」
「因縁」
「…影山零治」
 冬花が口にだす彼の名前は冷たい死体のようだと不動は感じた。冷たい死体、冷たい手のような声だ。
 影山がいなければという未来をシミュレートしたことはない。あの男を利用したつもりで結局利用されたまま使い捨てられた身だが、彼がいなければ暗い路地裏から出る機会もなかったと、今はそのことを事実として不動は受け止めている。確かに海に沈む潜水艦の悪夢は今でも見るが、不動にとって悪夢はそれだけではない数えてもキリのないものだったし、今はこうやって抱き締められる冬花のぬくもりや久遠の存在がサッカーとともに不動に生きる証を与えてくれている。影山は死んだ男だ、決して消えない過去の一部であるとしても。
 しかし影山がいなければ冬花は実の両親と共に普通の生活を送れたはずだし、久遠のサッカー人生も全く変わっていただろう。影山の手は悪魔の手だった。この全く他人であった三人を一つの絆に結びつける契機を作ったとしても。
 人間だった。
 悪魔のような人間だった。
 冬花の両親を奪った人間だった。
 久遠の勝利と十年を奪った人間だった。
 敵味方問わず多くの選手を傷つけた人間だった。
 罪を犯した人間だった。
 孤独な人間だった。
 サッカーを愛した人間だった。
 内、幾つが不動に当てはまり、また久遠にも当てはまるだろうか。
「まだ赦せないか…?」
 不動はそっと尋ねた。冬花は暖炉の火を見つめ、自分の身体を抱く不動の腕を細い手で掴み抱き締めた。
「もう死んだ人よ。……それに私のパパとママももうずっと静かに眠っています」
 一呼吸置き、冬花は再び口を開いた。
「お父さんの愛情は本物。私にもお父さんって呼べるのはあの人だけ。それに私明王君のこと…」
 しっ、と小さな声で言い、不動は冬花の唇に指を当てた。
「…明王君?」
「俺、お前のこと好きだぜ」
 ぎゅっと抱き締めると冬花の身体はしっかりと不動の腕の中に馴染んだ。
「私も」
 そう囁いて冬花は瞼を閉じた。


 大学のサッカーチームで監督をしている久遠が帰宅したのは夕方のことで、台所に火の気配はなかった。帰宅の時間は知らせてあったから、いつもであれば今頃夕食の準備ができているはずだった。
 今日は不動もオフだったはずだがと荷物を降ろし、リビングを覗くと暗い部屋には暖炉だけが赤々と燃え、その明かりに眠った冬花を抱き締めて眠る不動という彼の娘と彼の恋人の姿が見える。一つ屋根の下で暮らすようになってからは特に弟妹のように仲の良い二人ではあると解っていたが、あまりにも予想外の光景に久遠は面食らう。
 起こさないようにドアを閉め、暗い台所に戻った。明かりをつけると、何の準備もされていない綺麗な流し。キッチンテーブルの上にはお菓子の袋が散らかっている。久遠はそれを戸棚に仕舞い、久しぶりに自らエプロンを着けた。仕事疲れはあったが、文句を言う気分はなかった。
 食材の買い置きはあるし、娘を男手一人で育ててきた経験からも台所に立って困るということはない。ただ静かな屋根の下、台所で一人を感じながら料理をするのはとても久しぶりだと思った。
 鱈があったのでソテーにしようかと思ったが、使いかけの茸があったので野菜と一緒に炒めてと考え直す。あんかけにすれば美味そうに見えるだろう。今から米を炊き始めるから、そのくらいの手間をかけてもいい。味噌汁は、生憎豆腐がなかったので玉葱とベーコンを入れることにする。それならスープでもよかったかもしれないが、あんかけの味見をしていたら無性に味噌味が恋しくなった。
 炊飯器から湯気が立ち上る。久遠は味噌汁の火を弱く維持したまま、いつあの二人を起こしに行こうかと考える。飯が炊けたら夕飯だと起こしていいのだし、今までだって寝坊しそうな子どもを起こしたことはあるのだが。
 コンロの弱火を睨みつけじっと佇んでいると背後から、おかえり、と声がかけられた。不動が立っていた。
「…冬花は?」
「起きてる。リビング片づけてる」
 不動はしばらく入り口にもたれかかっていたが、なあ、と久遠を呼んだ。
「何だ」
「あんたも覚えといてくれよ」
 首のチェーンにかけた指輪を取り出し、不動は握り締める。
「俺もあんたを愛してんだよ。今はあんただけだ」
 そこで不意に自分の言葉に気づいたらしく、声を荒げた。
「って言うかずっとあんただけだよ。知ってんだろーが!」
 不動は火を消せと命令した。久遠はコンロの火を止める。
 こっち来いよ、と不動は言ったが、言いながら自分から近づき久遠に正面からぶつかると両手で強く久遠の手を握り締めた。抱き締めることができなくなったので、久遠は俯き加減の不動のこめかみと頭にキスをし、愛している、と囁いた。
「信じている、不動。私はお前の全てを信じる」
 泣かすな、と不動は呟いた。
 廊下の暗がりから冬花が現れ微笑みを泣きそうに崩し早足で近づいてくると、黙って不動の背中から不動と久遠を抱き締めた。不動が強く掴んでいた手を離し久遠の背に回した。久遠は腕を伸ばして不動と冬花を抱き締めた。
 台所にはあたたかな匂いが漂っていた。
 誰かの腹が鳴り、誰かが泣き笑いのように笑った。
 炊飯器が炊き上がりと音を立て、今度こそ三人で笑った。



2011.1.19