あの野に置き忘れたスティグマ







 線路のある遠い野原を歩く夢だった。
 初めて見る景色だったが、思い出の中で何度も繰り返されたもののようにも久遠には思えた。カーテンの隙間から朝の光が漏れ、半分引っ張ると朝日はまだだったが空は雲一つない快晴だった。青が日の出の白けた色に変わるまで今少し時間があった。久遠はベッドに腰掛け、裸の背を丸めた。
 昨夜、不動は部屋を出て行こうとしなかった。一度、そういう意思表示を見せられた後は、久遠も追い返すことはせず自分のベッドで眠らせた。ただ、どう扱っていいのかは分からなかったが。結局、シャワーも浴び新しい服に着替えたのに全部脱いで不動の方から跨ったのだった。抵抗しないのは久遠の方だった。ただ不動の望むままにそれを叶えた。
 十代半ばの少年を相手に羽目を外しすぎだと言えば言い逃れしようもないセックスだったと思う。快楽だけを一心に追求して、常に握っているはずの主導権さえ手放した。二人とも互いの、そして己のコントロール下になかった。不動はまだ眠っている。久遠が起きたことにも気づいていない、深い眠り。起きたらきっと声が嗄れているだろう。
 煙草を欲しいと思ったのは数年ぶり、いやもう十年近くも吸っていないのではないだろうか。とにかく久遠は、今あのがさついた煙の匂いが欲しくてたまらなかった。火をつけ、肺に吸い込む一瞬だけ何もかも忘れる。深く吐き出し煙たい視界に現実を透かす。誤魔化したいのだろう。そして大人らしいズルさを取り戻したいと思った。一歩離れて俯瞰する現実、冷笑さえ伴わない冷徹な心境。日が昇り、自分はベッドの上の少年をどう扱えばいいのだろう。これは今までの朝とは違う。おそらく違う。違うはずだ。不動の太腿には自分の精液が昨夜のままこびりついている。
 一切の呪縛は空である、と説いたのは仏教だったろうか。自縄自縛であるかと久遠自身も思っていた。確かに自分がサッカー界を長年離れることになったのはあの男の策略に起因することではあるし、離れている間も自分がサッカーを研究し続け今代表監督の地位にいることは自らの意思による。選手たちを守りたかったから離れた。サッカーから離れられないから今ここにいる。これは決して復讐ではない。影山という存在は一つの要因に過ぎない。しかし不動の口からその名前が出た時、久遠は冷静ではいられなかったのだ。
 オルフェウスがイタリア代表の座を奪還すべく戦った試合で、助太刀に入った鬼道を呪縛から解き放つ契機になったのは不動のプレーだと聞いている。円堂、佐久間からも聞いたし、鬼道本人の口からもわずかながらにそれらしい言葉を拾った。不動本人は鬼道の態度が気に入らなかったからやっただけだとしか言わないけれど。
 そんな不動だから彼はとっくに影山の呪縛からは逃れているのだろうと思っていた。だが本当にそうだったのだろうか。真・帝国学園に残されていた資料の内、不動の資料には珍しいものがあった。カルテだ。選手選抜のためのそれではない、れっきとした治療記録だった。むごいほどの性的暴行を加えられた現実を、この十四歳の少年はもう消化してしまったと言えるのだろうか。
 ベッドの中で不動が唸り声を上げる。久遠は一瞬躊躇したが、肩を掴んで不動を起こした。不動は目を剥き、一瞬抗うような姿勢をとった。しかしすぐに目の前にいるのが誰かを認識したようだった。
「…シャワー」
 ひとこと言って不動はベッドから出た。身体に残る性交の痕に頓着する様子もなかった。彼はシャワールームのドアを開け、監督の部屋ってのは贅沢だよな、と軽口を叩いた。久遠は何も返事をしなかったが、不動はそんな久遠の様子を振り返った。が、彼もまた何も言わなかった。
 シャワーの水音を聞きながら、久遠は不動の掠れ声を反芻する。本当に気にしていないのか。ああいうセックスは経験があるのか(十四なのに!)。それとも覚えていないのだろうか。腰の動きが速くなると無我夢中でしがみつき、名前を呼んだことを。
「影山…」
 死んだ男の名を呼んだことを。


 縁があったと言うよりは、互いに自ずから相手を求めたのだと久遠は認めざるを得ない。FFIからこちらもう何年経ったことか。それぞれの首に首輪をかけて乱暴に引き寄せあうような関係から脱することができたのは、冬花のお蔭だった。実の娘ではないにしろ、やはり娘という存在に自分と不動の関係を知られるのはかなりばつが悪かったが、あの不動さえ抱き締めた冬花の懐の深さには感謝するよりない。
 で、継続することのできた関係の中で知った不動の面はたくさんあるが、一つ時々久遠に早朝の冷たさを思い出させるのは、不動が我知らず影山の名を呼ぶことは稀にあるということだ。FFIの最中、宿舎の自分の部屋で聞いたのが最初。それから一年に一回程度。鬼道との間に地理的距離が生まれてからはしばらく聞かなかったが、昨夜久しぶりにその名を聞いた。二年…三年ぶりだろうか。
 真夜中に目覚めた不動はしばらく荒い息をついていたが、自分が今いる場所は分かっているようだった。過去や記憶とごっちゃにしている訳ではない。しかしその目は熱にうかされたようで、絶対に手の届かないものへそれでも手を伸ばすような熱意が見えた。不動は自分から久遠の上に跨り腰を動かした。その目に久遠を映しながら、しかし彼は確信を持って一度、影山の名前を呼んだ。
 まさかロンドンで、こんな遠く離れた地に来てまで、と軽い衝撃を受け一瞬萎えそうになったのを不動を押し倒すことでなんとか維持した。不動は自分の目を見ていた。前髪をかき上げ、いつも隠れた左目もじっと凝視した。その後はずっと、終わるまで声を殺していた。
 今朝は目覚めると不動はもういなかった。冬花がコーヒーの準備だけしていて、朝の挨拶の後はすぐに仕事に出てしまった。フラットには久遠一人になった。大学には午後から行くことになっている。
 日本から持ってきた資料の内、開けていない段ボールがあった。必要あると思ったのではなく、ただ自分の身のそばから離せないのだ。久遠はそれを開け、フォルダを一つ取り出すとコーヒーを片手にそれを読む場所を探したが、結局キッチンに戻り窓の下に椅子を据えた。
 不動明王、十三歳から十四歳にかけてのカルテ。傷の状態が詳しく書かれている。これを読み返すのは十年ぶりのことだった。性的暴行の痕跡。
 影山だったのだろうか。何度も否定し、それでも尚何度も繰り返した問いだった。繰り返すたびに久遠は否定した。あの男の何から何まで知っている訳ではないが、これだけは確信が持てる。影山零治は不動を駒として不要と切り捨てる冷酷さは持っていても、こういったやり方で弄び傷つけるやり方は取らない。まして手駒として利用価値のある間は、勝利の確実さを揺るがすようなことはしないだろう。だがレイプでなくても不動は影山と関係を持ったのだ、確実に。
 昔のことを、まして死んだ男のことをとやかく言うのは女々しい。嫉妬深さに久遠は我ながら呆れている。それは過去の肉体関係ではなく、不動が全治数週間の傷を負うことになったその事件から不動を救い出したのは恐らく影山だったのだろうという事実が、久遠にひやりと突きつけられるのだ。
 この十年の時間と全ての告白と得た喜びと引き換えにしてもいいから、その時自分が(たとえ不可能だったとしても)この自分が不動を助けたかったと、久遠は叶わぬ望みをその朝も繰り返した。
 コーヒーはすっかり冷たくなっていた。


 線路の続く遠い野原を歩いていると足元で音がして左足に蛇が巻きついている。色の白い蛇は青々とした緑の草原と暗い色の自分のズボンという色彩の中でも馴染んで見えた。蛇はそのままするすると久遠の足をよじ登り、太腿で鎌首をもたげたので久遠は不意に不安になる。すると後ろから肩を叩かれて、振り向けば右腕に不動がしがみついている。十四歳の不動は冷笑し
「なに怖がってんの?」
 と舌を見せて笑う。舌先は蛇のように二つに割れている。
 飛び起きると、なに、と眠そうな不動の声が隣から聞こえた。彼は手を彷徨わせベッドサイドの明かりを点けると時計を掴み、まだ三時じゃん、と不満そうな声を上げた。
「寝ろよ、明日も早いんだから」
「……ああ」
「あんたさぁ、昨日からおかしくない?」
 眠いと言いながらも不動は起き上がり、久遠と目を合わせた。
「…悪夢でも見た?」
 久遠は唾を飲み込み、首を振った。
「もしも、の夢を見ていた…」
 もしも影山がいなければ不動はサッカーを続けられたのだろうか。もしも十年前のあの時、真・帝国学園が勝っていたら不動は今でも影山の手駒だったのだろうか。モヒカンと、タトゥーと、先が二つに割れた蛇のような舌。
 不動は息を吐くと、下から久遠を見上げた。
「俺が影山の名前、呼んだからだろ」
 思わず息を飲む。勿論、不動にも気づかれたろう。
 覚えてるよ昨夜のことは、と不動は小さな不明瞭な呟きをした。そしてそのまま膝に顔を埋めた。
「ゆるせよ」
 篭った声がひとこと、言った。
 久遠は息を吐こうとして堪えた。次にどうすればいいのか分からない、途方にくれた気持ちが蘇った。煙草を欲しいと思い、こんなところで煙草など!と打ち消した。
 隣で不動は俯いたままだった。小さな明かりのせいか陰翳が濃く、実際より痩せて見えた。
「すまない……いや…」
 久遠は自分の思いを慎重にすくい上げながら言葉にした。
「赦す赦さないではない…私は、お前を愛している」
 思わず出た言葉に内心驚きながらも、声は震えることなく最後までそれを言い切った。
 不動はしばらくじっとしていたが、やがて糸が切れたように久遠にもたれかかった。
「明日も早えのに…」
「……ああ」
 久遠は明かりを落とした。そしてベッドの中で不動の身体を抱き締めた。それはとっくに少年の身体ではなかったが、手に、身体に触れる全てでそれが不動明王だと感じ取った。
 キスもせず、ただ抱き締めあって眠った。


 翌日、仕事を休んでアウェーの試合を冬花と二人応援に行った。列車の車窓からどこまでも広がる野原が見えた。空は抜けるような青空だった。
「どうしたの、お父さん」
 囁くように冬花が尋ねた。
「…どうして」
 冬花は何も答えなかったが、久遠には分かっていた。もしかしたら泣きそうな顔をしていたのだろう。



2011.1.18