Hold on me, Magical girl !







 夕方、時間になっても冬花は台所で準備を始めなかったのでリビングを覗くと、テレビだけが賑やかについている。日が落ちたと感じるにはまだ明るいが、それでも明かりの点いていない部屋にテレビの画面だけ光っているのは少し眩しく感じた。冬花は眠っているのかもしれなかった。
 ソファに近づくと冬花は確かに眠っているようで、身体はクッションに支えられ半ば倒れるように傾いでいた。素足がこちらを向いていた。ペディキュアを塗ろうとして半ばで止めているようだった。右足の薬指までラメの入ったブルーに染まっている。容器は蓋が完全に閉まっていない。
 不動はソファの傍らに佇み、しばらくテレビと横たわった冬花を見比べていた。テレビから流れているのは日本のアニメで、不動はそんなにテレビなど見なかったけれども多分自分たちが小学生の頃放送していたはずだ。フリルやリボンが過剰なほどついたピンクを基色にしたドレス。髪の色までピンクだもんな。
 夕飯の支度は自分がやってもいい。いつも冬花に任せっぱなしなのだから。折角休んでいるところを叩き起こして腹が減ったと主張するのは気が引ける。
 リモコンを取り上げテレビのスイッチを消すと、不意に暗くなったように感じる空気の中で冬花が瞼を開いた。
 冬花は目を開いても微動だにしなかった。その場でじっと息を殺して、何かが過ぎ去るのを待っているかのようだった。
 瞳がゆっくりと動いて不動を捉えた。
 おはよう、と小声で言ってやった。途端に冬花は気が抜けたように大きく息を吐き、一度ぐったりとクッションに抱きついた。
「ご飯……ちょっと待って、すぐに起きるから」
「別に俺が作ってもいいぜ?」
 不動は申し出たが、冬花は首を横に振った。
「仕事したいの」
 仕事と言えば久遠が監督を務める地元大学チームのメディカルスタッフとして働いている冬花だが、今日のように休みの日も半日は医療ボランティアとして街に出ている。
「…疲れてるんじゃねーの?」
 冬花はやはり首を横に振ったが、なかなかソファから起きあがれなかった。
「違うの。眠りが浅くて、夢見ちゃったから疲れただけ」
「疲れてるんだろ」
 ぽんぽんと肩を叩いて冬花の身体をソファに落ち着かせる。冬花は喉の奥から不機嫌な猫のような唸り声を漏らしたが、不動がリビングから出るとのろのろ身体を起こして台所についてきた。
「無理すんなよ」
「無理じゃないの、別に。でも明王君に甘える」
 不動がエプロンをつける後ろで冬花はキッチンテーブルにつき、またぐったりとつっぷした。
「そこじゃ寝心地悪いだろ」
「いいの」
「何だ、寂しいのか?」
 からかうつもりだったが、冬花は存外素直に
「そうよ」
 と答えた。
「…どうしてほしい?」
「リクエスト。クリーム煮がいいなー」
 小麦粉、バター、ホワイトソースから。肉かと思ったら、冷凍庫に入っていたホタテだった。野菜もたっぷり。冬花好みだ。
 あまりに静かなのでコンポの電源を入れた。彼らのフラットではリビングでも各個人の部屋でもなく台所にコンポがある。流れてきたのは不動の知らないクラブミュージック。冬花のipodが接続されたままだ。
「さっきのテレビ、知ってる?」
 冬花がぽつりと言った。
「日本のだろ。アニメ」
「小学生の頃、観てたの」
 不動の記憶も間違っていなかったらしい。
「アニメって、おもちゃが出るでしょ。変身ステッキとかベルトとか」
「仮面ライダーとかな」
「魔法少女ってね、ドレスも売ってあるのよ」
「へえ」
「持ってたの。買ってくれたの。…クリスマスプレゼント」
「…道也が!?」
「そう」
「へー……!」
「驚くでしょう? 私、恵まれて育ったのよ。パパとママと暮らしていた時も…」
 実の両親、冬花が幼いころ例の事故で他界した小野の両親のことだ。
 ため息が聞こえた。
「あの頃のこと、急に思い出すことがあるの。私が長い間閉じこめて、閉じこめたことも知らなくて忘れていた記憶とね」
 冬花は両手の人差し指をETのように触れ合わせた。
「びっくりするタイミングでシナプスがくっつくのよ」
 不動が黙っていると冬花は、ピンクのドレス、魔法のステッキ、ツインテールにするために髪を伸ばして、両脇にリボンをつけるの、とぶつぶつ呟く。
「思い出したら悲しくなったの」
 急に熱の冷めたように冬花は言った。
「………」
「悲しいっていう感情なのか…よく分からない。少し悲しい。悲しいのは本当」
 コンロの火を弱め、不動は隣の椅子に腰掛ける。冬花はつっ伏したまま不動を見上げた。小さな掠れ声が言った。
「お父さんも怖かったんだなあ、って今、分かったの」
「何が」
「多分、お父さんは私を抱きしめるのが怖かったんじゃないかしら。だからプレゼントだったのかなあ。パパがしてくれたみたいに抱きしめられたり、膝の上にのせてもらったりした記憶がほとんどないの。でも、私がうなされると一晩中でも手を握ってくれたのよ」
 ああ、ドレス、と冬花は呟いた。
「あの頃は単純に嬉しかった」
「ならいいじゃねーか」
 不動が額を撫でると、冬花はその手を取った。
「今はドレスもリボンもいらない。魔法のステッキもいらない。あの時のお父さんを抱きしめてあげたい」
「…今だって遅かねえだろ」
「明王君、嫉妬しない?」
 弱々しく冬花は笑った。
「し・ね・え」
「えー、してよー」
「逆かよ!」
 冬花はころころと笑い出す。手を伸ばしてくすぐると子どものような悲鳴を上げて更に笑いながら逃げようとする。テーブルに手をついて逃げ場を塞いだ。
 不意に笑いがやんで、真下から冬花が見上げる。真面目な顔だったので、自分も真面目な顔をして見下ろした。すると間を置いて冬花がまた、ぷっと笑った。
「こんな風になっても明王君は襲ってくれないんだもんなあ」
「襲われてえのかよ」
「そんな危険なこと言わないわ」
「俺だって男の本能は持ってるんだぜ?」
 冬花は笑わなかった。
 音楽が流れ続けている。鍋からはクリーム煮のいい匂いが漂っていた。
 不動が退くと、冬花は起きあがって髪を直し、聞こえないくらいのため息をついた。
 衝動的に手を伸ばし、冬花の身体を抱きしめた。乱暴に抱き寄せられた彼女は不動の胸で悲鳴を上げ、しかしその両腕が自分を抱きしめていることを知ると、もう、と安堵の息を吐いて緊張をといた。
「冬花」
「…なに?」
「お前が俺を抱く時は耳元で何も言うなよ。黙って、俺を安心させてくれ」
 冬花は不動の背に手を伸ばし、答えた。
「分かった」
 ドレスどころかスカートでさえない姿の冬花。右足はペディキュアが途中。左足は色も何もついていない素足のまま。長い髪を留めているのはただの髪ゴムで、飾り気はネックレスもピアスさえない。
 香水さえつけていない、と不動は冬花の額にキスをしながら思った。しかし、その髪や襟元からはいい匂いがした。
 久遠を抱きしめるように力任せにやるのではなく、柔らかく壊れやすいものをかかえるように抱いた。
 不動の胸に顔を押しつけ、冬花が呟いた。
「クリーム煮、焦げちゃう」



2011.2.24