他愛もなく愛について







 自動ドアの向こうには夕靄が漂い始めていた。通りの景色は急に彩色をなくし、同時に春のぬくもりも失われたかのようだった。巨大なチェス盤の上にビルや人影が低いざわめきをまとって立っているような、茫漠とした印象だった。紙袋を抱えて一歩先に外へ出た冬花は輪郭の曖昧な白黒の景色に怖じたのか歩道に佇んでいた。後ろから出てきた不動がぽんと背中を叩くと、その瞬間にスイッチが入ったかのような顔をして歩き出した。
 冬花の春用のニットは見た目にはあたたかそうだったが、夕靄と共に忍び寄る寒さは冬の名残を色濃く残していた。寒くないか、と尋ねると、平気、と首を振ったが、しかし足は一歩不動に近づいて肩の触れる距離で歩いた。
 角を曲がると視界が西に拓け、そこは夕靄がまだ薄い。冬花は小さく嘆息して空を見上げた。
「バニラ・スカイよ」
 不動も顔を上げる。バニラと言うとアイスクリームのクリーム色を思い出すが、夕靄を透かして見える空は淡いピンクと薄いオレンジを溶かして白い空に薄く塗ったような色だった。
「映画か?」
 聞き覚えがあったので尋ねる。
「そう。トム・クルーズ」
「面白い?」
 冬花は一瞬口を噤み「面白かったわよ」と語尾を上げ気味に答える。
「何だか含みのある言い方じゃねえか」
「そう?」
「トム・クルーズ?」
「それにキャメロン・ディアスとペネロペ・クルス」
 顔はぼんやり浮かぶが、どんな映画に出ていたかは分からない。チャーリーズ・エンジェルは先日チームメイトと行ったボーリングの空きレーンのモニタに映っていたから思い出せたけれども。
「どんな映画だよ」
 そうねえ、と冬花は買い物の紙袋に顔を押しつけるようにして考えた。
「結局、見た目も大事ってことかしら」
「…お前その映画嫌いなのか?」
 彼女の映画感想にしては珍しい物言いだ。冬花は肩をすくめて答えなかった。
「三角関係の話?」
「一人相撲の話かも」
 そう答え冬花は、うん、と自分で納得したかのようにうなずく。
「そうね、愛とは何かって問いかけるかもね」
「そーゆー映画苦手」
「映画じゃなくて、映画を観た自分の心が、よ」
 買い物袋を抱えなおし、冬花は顔をのぞかせる。
「自問自答するの」
「じゃ、お前はどう考えたんだ?」
「え?」
「愛とは何か」
 不動は一生のうちに自分がこんな科白を発するとは想像もしていなかったが、意外と深刻なものでなくそれはあっさりと口から出た。
 悩むだろうかと思われた冬花は笑顔になり、こちらもあっさりと答える。
「ケチャップよ」
 どういう意味かと尋ねようとしたが、目の前の信号が変わり始めていたので思わず駆け出し、冬花の真意は分からないまま目の前にフラットが近づく。やはりエレベーターのついていないそこを四階まで上がり、買い物袋を抱えたままの冬花に代わって不動が鍵を開けた。
 キッチンの上に荷物を置いた冬花は、ああ重かった、と肩を叩く。
「なら言えよ、持ってやったのに」
「お願いする前に持ってくれなきゃあ」
「生憎と、英国紳士とはいかないんで」
 いいわ、と冬花は笑う。
「怪我をしている選手に無理はさせられないから」
 別に怪我というほどではなかったが、先週から妙に足が張って、今度の試合は久しぶりにホームで冬花と久遠も観に来るはずが欠場となってしまった。
「大したことねーよ、これくらい」
「四十歳までプレーするんでしょう? もっと身体を大切にしなきゃ」
 冬花は紙袋から次々に食材を取り出す。最後にビン入りのケチャップがどんと置かれた。
「それだ」
 不動は片隅の丸椅子を引っ張ってくるとそれに腰掛け、冬花の背中に尋ねる。
「愛はケチャップだって?」
 冬花はエプロンをかけ、ボールに割った卵を泡だて器でかき混ぜる。金属同士の触れ合う規則正しい、ぎりぎり耳障りでない音がシャカシャカと何かの拍子を刻むように続く。
「例えば明王君はトマトが嫌いだけど、ケチャップは好きでしょう。そういうこと」
「意味分かんねえ」
「私だって適当に言ったんだもの」
 言い終えてとうとう冬花は笑った。何だよそりゃ、と不動は呆れる。
「違うわよ、馬鹿にしてないわ。ただ愛とはケチャップである、なんて、ちょっと意味が分からなくて哲学的じゃない」
「哲学ねえ…」
「でも、あながち出任せじゃない気分なのよ、今」
 冬花はできたてのオムレツの上に、買ってきたばかりのケチャップでハートを描いた。出来上がったオムレツは二つ。隣のオムレツには星型を。
 窓の外は夕靄が濃く立ちこめ、すっかり暗くなっていた。二人はオムレツを持ってリビングに移動しソファに並んで腰を下ろす。
「じゃあ、明王君にとって愛って何?」
 先日も聞かれた問いだな、と思った。チームメイトの一人――いつもCDを貸してくれる男――がゲイだと分かり、その時問われた。明王はその時と同じように分からないと答えようとして止めた。
 今日は仕事が遅くなる、と大学から電話が入っていた。久遠はその電話を冬花の携帯電話にかけ、冬花は携帯電話を不動に渡してそれを聞かせてくれた。夕食は食べてくるらしいが、不味いフィッシュ&チップスに引っかからないことを祈る。
 本人が目の前にいる時はそれが何なのか改めて考えはしない。ただ感じ取るだけだ。久遠が目の前にいないからこそ不動は考えた。そしてそれを尋ねるのがシャワー室でカミングアウトしたタイミングの悪いチームメイトではなく、冬花だからこそやはり考えたのだった。
 オムレツを食べながら落ち着いて考えても、正体の掴めないそれを明王は分からないと言うしかないようだった。そもそも自分が久遠を愛している、と言語化するだけでも目の前の皿もろとも世界を引っ繰り返したくなるのだ。
「……明王君ったら照れてる」
 冬花の真髄を突く一言に明王は軽口で答えようとしたが、いつも簡単に口からこぼれるそれは出てこなくて、代わりに口の中のオムレツを飲み込んだ。
「例えば、信じる…?」
 皿をテーブルの上に置き、冬花はハートを描いたオムレツを切り崩したまま固まっている不動に向き直る。
「たとえセックスが介在しなくったって、私が明王君を愛してるって言ったら」
「おま、え…」
 不動はつっかえる喉をどうにもできず咳き込み、冬花が背中を撫でてくれてようやく落ち着いた。
「お前、その言い方…」
「明王君は今の私の言葉、信じた?」
 冬花は明王の手から皿を取り上げるとテーブルの上に避難させ、水を一杯手渡す。不動は冷たい一口でようやく心を落ち着けると、ああ、と言った。それは先の冬花の問いへの答えでもあった。しかし正確には信じたのではない。信じたいと強く望んだ。
「私は信じて欲しいって心から思ったわ」
 人差し指を伸ばし、冬花はオムレツの上の欠けたハートをなぞる。赤い指先を口に含み、彼女はちょっと微笑した。
「ケチャップは料理を美味しくして、生活に些細な幸せをくれるでしょう。私、そういうものが愛だって信じてるわ。だからお父さんと明王君の側にいると、私は幸せなのね」
「…じゃあ俺はケチャップか?」
「私、嘘はつきません」
 ケーブルテレビがトム・クルーズ主演の映画を流している。先に食事を終えた冬花はさっき舐めた人差し指をさけ、小指でリモコンのボタンを押しチャンネルを変えた。
「いいのか?」
「見た目の好みも大切って話」
 ケチャップのついたままの唇で冬花の胸にキスをすると、赤い染みを見下ろした冬花が半分怒って半分笑って不動の頭を叩いた。



2010.12.19