花と、今宵のチケットと
少し寝坊してしまい、寝すぎの頭でぼんやりしたままキッチンに向かう。いつもならコーヒーができているのだが今朝はもう空っぽで不動は自分で淹れなければならない。ポトポトという音を聞きながらキッチンテーブルでうとうとしていると、忙しない足音が駆け抜けた。それは一度では済まず、ドアを開けては静まり、またぱたぱたと右へ左へ走り出す。 「…冬花?」 声をかけると、あっおはよう、と冬花が顔をのぞかせた。 「昨日はお疲れ様。よく眠れた?」 「寝すぎて頭働かねえ」 カップも準決勝で延長戦まで持ち込み負けてしまった。久遠は仕事だったが冬花はスタンドに来て応援してくれたのだ。 ふふ、と笑って引っ込もうとするので不動は呼び止める。 「何してんだよ、さっきから」 「探し物。メガネ」 「お前、メガネなんかかけたっけ」 「ううん、お父さんの」 ふーんと一度流そうとして目が覚める。久遠のメガネ? 「昨日試合を観に行けなかったでしょう? お父さんったら自分が監督してるチームみたいに試合のビデオを見直してたのよ。本気で夜更かししちゃったみたいだから、今朝慌てて忘れたのね」 「待て。監督がメガネ?」 「あら」 冬花は口元を手で押さえ、内緒だったのね、と笑った。 「内緒って何だよ」 「お父さん、デスクワークの時はメガネをかけるのよ」 「で、それが何で内緒なんだよ」 「明王君には知られたくなかったんじゃないかしら。歳をとったみたいで」 「老眼…?」 「お父さんの名誉のために、遠視って呼んであげましょうか」 そこまで言った冬花は、あった、と声を上げた。 彼女はもう足音は立てずキッチンに踏み込むと、コーヒーメーカーの隣に置かれたメガネケースを取り上げた。中には特に洒落っ気もない黒縁のメガネが入っている。冬花はそれを取り出しちょっとかけてみて、あ、酔っちゃう、とすぐに外した。 「貸して」 手を出す明王に冬花はそれを渡す。明王もメガネをかけてみた。景色が滲んで色が膨張するようにぼんやりと見えた。 冬花に返すと、彼女はもう一度それを覗き込んでから息を吐き掛け、ケースに入っていたハンカチでレンズの埃を拭った。 「図らずもお父さんの秘密をばらしちゃったわ」 「…なあ、冬花」 メガネをケースに仕舞った冬花は顔を上げる。明王は少し考えて口に出した。 「俺が知ってること、監督には内緒な」 「どうして?」 「お前、欲しいものとかねーの?」 「ふふっ、買収?」 でもそうね、明王君が折角その気になってくれてるんだし、と冬花は考え込む。 「私、まだあまりロンドン観光ができていないの」 「どこ行きたい? …メイフェア?」 「ブランドのお買い物しに来たんじゃないもの」 冬花はころころと鈴を転がすように笑い、冷蔵庫のカレンダーを見た。 「チェルシー・フラワーショー」 FAカップが終わってのんびりしている頃テレビなどで大々的に報じているのを、不動も見たことがある。不動にとってイギリスと言えばフットボールとフィッシュ&チップスだったが、ガーデニングの盛んな国なのだ。その中でも伝統的なイベントらしく、開催期間中はとにかく人でごった返している。不動にも花の美しさはまあ分かるが、わざわざ庭を見に行こうとは考えたことがなかった。 冬花はチケット二枚、と指をVサインの形に立てた。 「監督と?」 「明王君とよ」 久遠のもとへメガネを届けるため、冬花が部屋を出てゆく。残された不動は新聞を引き寄せ、チケット購入の電話番号を探した。 フラットの四階に庭はない。キッチンの窓から見下ろせる景色はロンドンのどこにでもあるような通りで、冬花が足軽に駆けて行く。長い髪が五月の風に吹かれてふわりと舞う。不動はコーヒーを片手にその後姿を見送り、溜息をついた。 すっげえ人、と呟くと冬花が、明王君ってゴールデンウィークの渋滞情報とか笑ってテレビで見てたでしょう、と当ててみせた。 「明王君はお父さんのこと、サッカー以外全部疎いって言うけど、明王君だってそうだわ」 「みんな行くみんな食べるみんな見る、みんなっていうのが嫌なんだよ」 「あまのじゃくなんだから」 チケットは入場時間も分けられていた。二人は夕方にやって来た。周囲の会話を聞いてみると、これでも人が少なくなった方らしい。 庭、と言うと花壇か、せいぜい枯山水しか思い浮かばなかった不動にとって、目の前に広がる庭は野放図にも見えた。しかし冬花曰く、そこにも製作者の意図が込められているらしい。 「俺にはさっぱりだ」 「そこでゆっくりしたいとか思えたらいいんじゃないかしら」 冬花は途中まで写真を撮ろうと苦心していた。不動も記念写真を撮ってやろうかと提案したが、彼女は結局カメラを仕舞った。どうせテレビでも特集してくれるし、と彼女は言う。 「それに目で見るだけの方がお父さんにも詳しく話してあげられそう」 それでもフラワーアレンジメントの、花で一杯のオブジェの前では綺麗、と溜息をついていたから一枚だけ撮ってやった。 「一緒に写りたかったわ」 小さく呟かれたので、二人で花壇の縁に腰掛けカメラを持った腕を一杯に伸ばす。ほら、と肩を引き寄せると冬花は照れたように笑った。 土産物と言ってもガーデニング用品や専門雑誌が主だ。他にはあちこちでもらった花や野菜の種。冬花は植木鉢と小さな花かごを買った。植木鉢は不動が持ってやった。折角の観光帰りに女が持つ荷物ではないと思ったからだ。黙って持つと冬花がちょっと驚いて、明王君ったら英国紳士みたい、と言う。 「あいつと一緒にすんな」 「ミスター・バルチナス?」 FAカップの優勝トロフィーを手にした男だ。 先日、大学で会ったわ、と冬花は何故か笑いを引っ込めて言った。 「お父さんのメガネを届けに行った日」 「ああ」 「お茶に誘われたから断ったの」 「どうして」 冬花は今度こそ芯から驚いた顔で明王を見た。思わず乱暴な言葉が口をついて出ようとしたらしいが慌てて手で押さえ、一言「もう」とむくれる。 「十年前のことまだ赦してない訳でもねーだろ?」 「そうだけど…」 「分かったよ。じゃあ次に会ったらデートの誘いは久遠道也か不動明王を通せって言っとけ」 そう言ってやると、冬花は満足そうな微笑を浮かべ不動の腕を組んだ。 少し遅い帰宅をすると、久遠がフラワーショーをニュース映像で見ていた。冬花は花かごをリビングに飾った。 「楽しかったか?」 「ええ。でも明王君は疲れたみたい」 「一度行けば十分だ」 「毎年お庭は変わるのよ?」 よく分かんねえ、と手を振ったが冬花は、来年は三人で行きましょう、と久遠に笑いかけていた。 冬花が五月のお礼、と差し出した封筒には二枚のチケットが入っていた。 「テムズ川ディナークルーズ?」 「私たちより長く住んでるけど、明王君もロンドン観光とかしてないんじゃない?」 特にみんな行くような所は、と付け加える。 確かに観光客だらけのような場所には、不動はほとんど足を向けなかった。ましてやテムズ川クルーズなど、観光客、カメラ、記念写真と苦手なものが揃っている。 冬花はキッチンの窓辺に置いた小さな植木鉢に水をやりながら、みんなが行くっていうことはやっぱり素敵だから行くのよ、と言った。 「平日だけど、その日ならオフでしょ?」 「よく把握してんな」 「明王君は私の家族ですから」 誇らしげに冬花は言った。 あんまりラフな格好で行ったら浮いちゃうわよ、という冬花の忠告と一緒にチケットを手渡すと、久遠はきょとんとして目の前のチケットを見つめていた。 「…ディナークルーズ?」 「美味いもんは食えそうだし、いいんじゃねえの」 セッティングをしてくれたのが娘だからなのか、それとも単純に照れているのか、久遠は珍しく感情を露わにした。顔が少し赤い。 「待ち合わせはトラファルガー・スクエアな」 「この…波止場ではなく?」 久遠が目を細める。メガネをかけていないので、チケットに印刷された文字がよく見えないのだ。久遠は未だに不動の前ではメガネをかけようとしない。 「ベタな観光もいいんだってよ」 クリスマスは飾られたツリーを見に特に大勢の人間が訪れるが、そのシーズンでなくとも年中観光客でいっぱいの場所だ。不動はちょっとした企みをもってその場所を選んだ。久遠は冬花の言葉もあってか素直に頷く。 船の出発時刻より随分余裕を持った待ち合わせ時間を設定した。 後でカレンダーに久遠が書き込んだ時刻と名前を見た冬花が物言いたげな目で不動を見たが、不動は敢えて何も言わないことにする。折角秘密を教えてもらったのだ。こちらもサプライズでいきたいではないか。 約束の当日、仲の良いチームメイトにいつものように車で送らせると、久遠は広場の噴水脇で鳩の大群に取り囲まれていた。 「無口な男は動物にも好かれるらしいな」 「羨ましいのか?」 鳩はすっかり人に慣れているらしく、退こうとしない。久遠は鳩を踏みつけないよう噴水を離れ、苦笑した。 「まさか、こんな私を笑おうとこの場所に?」 「ちげーよ」 不動は久遠の手を掴むとすぐにエンバンクメント・ピアには向かわず、店の立ち並ぶ通りに連れて歩いた。 「何だ…?」 「あんたさ、俺の顔ちゃんと見えてんの?」 久遠は少し黙り込むと、何か気に障ることが?と低い声で訊いた。 「そーじゃなくてさ」 不動は急に立ち止まり、久遠に向かってぐいと顔を突き出す。 「遠視ってのは近くのものが見えねーんだろ?」 「私は……」 ぽかんとした久遠はしばらく目の前に突き出された不動の顔を見つめていたが、やがて「私のは老眼だ」と諦めたように笑った。 「まだ早いんじゃねーの?」 「気遣ったのは冬花か?」 首をすくめると久遠は隣に立って歩き出す。まるで違う方向だったので、不動は調べておいたメガネ屋に久遠を引っ張った。 「メガネは間に合っているんだが」 「もう少しデザイン考えろよ」 基本的に実用性しか考えない。例えばキッチンの窓辺に置かれた植木鉢は冬花の手によるものなので気がつくが、サッカーと冬花、そして明王以外のことに久遠は全く無頓着だ。 店では女性店員と不動がそれぞれに意見を言い合ってようやくフレームのデザインが決まった。久遠の意見は一言だけ。色は黒。久遠のネクタイ姿にそのメガネはよく似合った。 「いつもより偉そう」 ニヤニヤと笑うと久遠は監督の顔をして「からかうな」と言う。 店を出ると久遠は立ち止まって辺りをきょろきょろ見渡した。 「遠くも見えなくなったのか」 からかうのにも応えず、しかし手は不動の腕を掴んでいる。と、視線の定まった先は洋品店だ。久遠は不動の腕を引き、店に向かってずんずん歩く。 「おい、船が」 「すぐ済む」 久遠は細い黒のタイを買い求めると不動の首に回した。 「おい」 「冬花の忠告にあっただろう」 それにも頓着せず不動はノーネクタイでやって来たが、久遠の手によってタイを結ばれてしまう。しかしそれも照れ隠しであろうことは首元の赤いので分かった。不動は折角きっちり絞められたネクタイを人差し指でわずかに緩めた。お似合いで、と初老の店員がひとこと言った。 テムズ川へ向かって伸びる一本道を歩く間、街には静かに夕闇が落ちてきた。街灯がともり歩道を照らし出すと、急に夜になったように感じられる。時間には間に合いそうだったが、夜に急き立てられるようにわずかに足が速くなった。 波止場には既に多くの乗客が集まっていた。平日だが外国人観光客の姿もちらりと見える。しかし多くは初老以上の夫婦で、ゆっくりとした動きで船に乗り込んでいた。 船は天井も含め全面がガラス張りで深い青に染まった夜空に所々ライトアップされた景色が浮かび上がる。食事を終える頃には明かりの数も増しているのだろう。船が動き出すと青い景色もゆったりと流れた。 ウェルカムドリンクに口をつける前に不動は「メガネ」と久遠を指差した。 「かけなくても不便はない」 「メガネかけてるあんたと食事してえの」 久遠は買ったばかりのメガネを取り出しかけてみせる。 「これでいいか?」 不動は満足気に笑ってグラスを差し出し「乾杯」と言った。 グラスが小さく澄んだ音を立てた。 冬花がセレクトしてくれた料理は彩りもよく、また美味かった。久遠にとってはイギリスにやって来て初めて食べた美味い外食ということになる。 バンドの生演奏が始まり、ナイフやフォークの音、ひそかなおしゃべりと交じり合う。久遠は、すっかり慣れた手つきでワインを飲む不動をじっと見つめ、やはりネクタイをして正解だった、と小さな声で言う。不動も、あんたのメガネだって、と小さな声で言い返す。メガネの向こうの眼差しは優しく、川辺の景色を眺める横顔は穏やかだった。 ライトアップされたタワーブリッジが近づいてくると観光客がカメラを取り出して写真を撮り始める。しかし二人は席に着いたままそれを眺めた。 不動はふと、冬花がここにいたらどうだったろうか、と考えた。しかし彼女はまたカメラを仕舞って言ったかもしれない。この目で見る方が覚えていられるような気がして。 「なあ…メガネがあってよかったろ?」 声をかけると、久遠は一度メガネを外して目の前の光景を見比べる。 「…ああ」 しかし、と久遠は付け加えた。 「お前のことは、いつでもちゃんと見えていた」 「ベッドでも? めちゃめちゃ至近距離じゃねーか」 「メガネをかけたまま、しろと?」 日本語の会話が周囲に分からないのをいいことに、二人はくすくすと笑った。 「いいんじゃねえの、メガネのあんたと」 「偉そうな私と?」 「イイ男に抱かれるのは気分がいいもんさ。あんたも試してみればいい」 「私が? 誰で試す」 「俺に決まってんだろーが」 それはそれは、とアルコールのせいか久遠は大仰なリアクションを返した。 「優しくしてもらわなければ…」 「まかせとけよ、プリンセス並の待遇でしてやるからよ」 バンドには女性のヴォーカルが入り、老夫婦が一組二組とフロアに立ち踊り始める。次第に踊るカップルの数は増え、席についている人間の方が少なくなる。 不動はテーブルの下で久遠の靴を蹴った。久遠は軽く肩をすくめるだけだ。 「ここでエスコートするのはイイ男だろ」 「サッカー以外は何もできないと私を評したのはお前の方だろう」 「つまんねえの」 「お前こそ、誰でもするようなことには反発するんじゃなかったのか?」 「さてね」 ワインを呷り、不動は川面に揺れる光を見た。既に折り返した景色はライトアップの数も増え、人工的に鮮やかな光ではなく暖色の柔らかな光が石やレンガ造りの歴史ある建物を照らし出していた。 船は最初のエンバンクメント・ピアに着き、二時間半のクルーズは終わった。空はよく晴れていたが風が強いせいで少し肌寒い。 いつもよりアルコールを摂った不動は上機嫌で桟橋に降りた。手はしっかりと久遠の手を掴んでいる。駅までの道のり、不動は決して手を離さなかった。ただ握り締めるのではなく、右手から左手に持ち替えたり、指輪をした久遠の左手と固く握り合わせてみたり、久遠の腕をとったままくるくると回ったりした。 久遠も、いつもであればそんな不動をたしなめたのであろうが、今夜はそれを止めるようなことをしなかった。それは何もワインのせいではない。 「明王」 呼ぶと、不動は猫のような仕草でするりと久遠の腕の中に飛び込んでくる。 「さっきまで、呼ばなかった」 「こうなることが分かっていたからな」 二人は街灯の明かりからわずかに逃れてキスをした。 「メガネしてたらぶつかるかな」 「後で試そう」 それからは並んで歩いた。が、駅の明かりの下に入る少し前、不意に久遠が不動の身体を引き寄せ強く抱き締めた。不動も何も言わず、その背中に腕を伸ばした。そのまましばらくじっとしていたが、やがて久遠は腕をほどき、自分のジャケットを不動の肩にかけた。不動は小さな声でサンクスと言った。 地下鉄の中で久遠は少しの時間居眠りをした。不動は彼の体重が自分にかかるのを感じながら、そっと久遠の手を握った。地下鉄の暗い窓の中に自分たち二人の姿が映っていた。それは東洋人の見分けのつかない誰かから見たら親子のようにも見えたかもしれないし、勘のいい者なら二人が恋人だと気づいたかもしれない。 不動は繋いだ手の内側から、久遠の薬指の指輪をなぞった。そして支えあうように、自分も相手に向かって身体をもたせかけた。
2011.1.8 またさんの名言「道也ロンドンにメガネはいかがですか」
|