morning grace
いつもは保険としてかけているだけの目覚ましの音に覚醒を促され、それでも包まれるぬくもりが心地よく瞼を開けずにいると、明王、と声をかけられその声の柔らかさになだらかな目覚めの坂を上った。肌に触れる毛布と薄っぺらな羽根布団の他、体温を直接伝える人肌。腕に抱き締められる心地よい重み。瞼を開け寝返りを打つと胸板が目の前に。そこに額を押しつけ、あと五分、と呟く。 「…いいのか?」 「だいじょうぶまにあう」 じゃあ朝食をとベッドから出て行こうとする身体を抱き締め、あと五分と繰り返す。抱き返す腕。一晩を一緒に過ごした者の匂いがベッドに馴染んでいる。久遠と共に目覚める朝は初めてではなかったが、好きだと心から伝えた相手と眠るベッドの中はこんなに安全で穏やかなぬくもりに満ちているのだと不動は初めて知った。 昨夜はワインが空になったのをキリに久遠に横抱きにされてベッドまで運ばれた。その腕が十年前と変わらず力強いのに、目元にはわずかに皺もあることを間近で知る。しかしそれすら愛しいのだと抱かれたまま目元にキスをすると、久遠は声に出さず笑い優しく不動の身体をベッドに横たえた。ぶかぶかの指輪はキスの途中で外れそうになり、仕方なくベッドサイドに置いた。 指輪。 不動はぱちりと目覚め、久遠の身体を越して手を伸ばす。目覚まし時計の隣に置かれた指輪を手に取り、左手の薬指に通す。ひやりとした感触。ぶかぶかだが、しっくり馴染んで感じる。 半分身体を起こした不動に久遠は腕を絡みつかせ、腰にキスをしておはようと言った。 「朝飯作ってくれんの?」 「ちゃんと挨拶できたらな」 「おはよう」 不動はかがみこむと久遠の顔を両手で包み込み、おはようともう一度繰り返して額にキスをした。久遠は、ふ…と小さく笑った。 朝食にも例のミニトマトは出現したが、半分にスライスされたものをパンにサンドして出されたので最初の一口は気づかずに食べた。気づいて久遠を睨むと、してやったりという風に笑っている。悔しかったので全部食べた。 練習の後で指輪を買いに行くと言うと、今度は久遠がわずかに照れた顔を隠そうとするのでちょっと胸がすく。バスで行ける分かりやすい待ち合わせの場所を決めて、午後不動から迎えに行く。 「汗くさい格好で来るなよ」 「流石にスーツはない」 「ついでに買ってやろうか」 返事は額を小突いてくる軽い拳だった。 いってきますの挨拶で部屋を出る。いってらっしゃい、という穏やかな声が送り出す。久遠の指が玄関脇のサッカーボールを軽くノックする。不動はそれに手を振って階段を下りてゆく。通りから見上げると、五階の窓を開けて久遠が顔を出す。不動はまた手を振る。ちょっとキリがないなと思いながら、結局人とぶつかってもしばらく手を振りながら後ろ向きに走った。 コーチには浮ついていると言われたが、練習はいたって調子がよかった。発散されるのを待っているパワーが身体の中に満ちていて、足も身体も軽かった。チームメイトの数人が何かあったのかと声をかけたが笑うだけで教えてはやらない。 午後、なるべくいつもどおりの足取りでクラブハウスを出る。サイドバックの5番が後ろから追ってきてしつこいなと思ったが、貸しっぱなしのCDを返せという話だった。すっかり忘れていたが、そいつの車に乗り込み待ち合わせの近くまで送らせることに成功した。ついでに車の中でかかっていたCDを借りる。 約束の時間よりも早く着いたのだが、久遠は待ち合わせ場所に立っていた。スーツはないと言ったがコート姿が様になっているのは十年も前から知っている。わざと背後から近づき驚かせようとしたが、ちょうどのタイミングで振り返られ腰をかがめたところを見られてしまう。 「何を企んでいた」 笑みの中に少しの意地悪さを含んで久遠が尋ねる。 「驚かせようと思って?」 不動は答えながら久遠の隣に並び、肩を組む。 「行こうぜ」 「失敗だったな」 「うっせえ」 時々は歩く区画の、滅多に足を踏み入れることのない店で久遠の指輪と、自分の指輪を下げるためのチェーンを探す。指輪は双子のように同じものを探すことに執着はしなかった。そもそも店が違うのだし。 しかしガラスケースの中にはひどく似たデザインの指輪があって、不動がもらった指輪も装飾も石もないシンプルなものだったからそのタイプのものはどれも似て見えたと言えばそれまでだったが、それでもこれだとしか思えないものだったので一発でそのデザインに決める。久遠の指のサイズに合ったのも運がよかった。 支払いは店員が「お父様へのプレゼントに?」と尋ねるほどの年齢差のある不動がしたものだから、夕食はレストランでと久遠は言った。不動は笑う。 「美味いもん食えると思ってるのか?」 これまで数度のロンドン訪問を思い出した久遠が息を吐き、肩を落とした。白い息が薄曇りの空に上った。午後を過ぎて冷えてきた。降るのかもしれない。 予想通り、フラットの近くまで来たところで霧雨が舞い降りる。フラットまでの直線を競走し久遠も本気を出したようだが、勿論不動が勝った。階段の上で息をきらせて上って来る久遠を待ちうけキスで出迎える。玄関を開け、思わずその気になりかけたが、先に鳴った腹が二人を牽制した。笑いながら夕食の準備をした。今日は不動の番。リビングで待っていていいと言ったが、久遠はキッチンテーブルで待っていた。 雨のせいで早めに日が暮れた。明かりをつけ、コンポの電源を入れる。サイドバックから借りっぱなしのCDが入っていた。今日借りたCDに入れ替え、借りっぱなしだった方はバッグに入れる。これで返すのを忘れないだろう。今日借りたCDがどうなるかは別として。 食事と、エールは少し。昨日と一昨日は飲みすぎた。不動は何という理由もなく久遠の左手薬指に触れた。二人で選んだ指輪がしっかりとはまっている。まだ自分の薬指で揺れている指輪と触れ合わせる。ごくごく小さな音が落ちるのも、不動の耳には聞こえる。 シャワーの後素裸で佇む不動に、久遠はチェーンをかけてくれた。指輪は鎖骨の上に当たりひやりとした確かな感触を不動に与えた。 ベッドの上でもつれ合った後、そのまま眠ってしまわず二人はうつぶせになりとめどなく話をした。もう数日で帰ってしまう、それまでの予定。物件探し。 「三人で住むつもりか?」 久遠が軽く驚いている。 「そうじゃねーのかよ」 「いや…、私…と言うか冬花は最初からそのつもりだった」 「なら問題ねえじゃん」 「お前もそう考えていたとは…」 「意外とか? 俺も冬花のこと好きだけど?」 「お前が言うと不穏だ」 拗ねるなよと左手を噛んでやる。おとなしく噛まれている久遠は笑みを噛み殺している。余計な仏頂面になっているので頬を抓ってやった。 明日の朝食。フライトの日の天気。冬花へのお土産。段々眠気が増してくるが、まだ喋っていたい。久遠の手が優しく肩を叩いてくるので余計に眠くなるからやめろと言おうとした。でもその時にはもう眠りかけていたのかもしれない。 「Stop? 何だって…?」 久遠が聞き返すのに答えることができない。 世界一安全な場所、約束の指輪をした人の腕の中。毛布を肩まで引き上げられる。全ての感触がぬくもりの中に溶ける。指輪をした手が抱き寄せる。お喋りの余韻。雨の音。久遠の寝息。自分の寝息。 おやすみも言わずに眠った。
2010.12.12
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