newmoon ring







 春を前に奇跡的なほど青く晴れた空がロンドンの屋根の上に広がっている。午後の日はうららかで、風は少し寒かったが久遠は窓を開けることにした。爽やかと言うには冷たいが、それでも鼻の奥から頭までが掃除でもされたかのようにすっと澄んでゆく。その気になったので、走りこむことにした。
 キッチンテーブルの上に置かれた合鍵を手にする。移籍により単身イギリスへ渡った不動から最初に届いたのは電話でもメールでもなくフラットの地図を書いた手紙とこの鍵だった。冬花はバナナとトマトの二種類のキーホルダーを買ってきて、どっちがいい?と訊いたので久遠はトマトを取り、バナナのキーホルダーをロンドンに郵送した。特に言葉は添えなかったが、不動がそのキーホルダーを部屋の鍵につけていることはすぐに知るところとなった。
 マネークリップで留めたポンド札を数枚尻のポケットに押し込む。先日の釣り銭がポケットの底に残っていたらしくクリップと触れあうカチャカチャいう音がした。帰りに夕飯の買い物をしてもいい。不動はわりに自炊しているらしいが、冷蔵庫の中は昨日のちょっとしたパーティーで空になっていた。つまり久遠が来た祝いにたらふく食べてたらふく飲んだ結果ということ。折角だから土産にとワインを用意していたが、結局飲んだのはエールで、しっとりとした乾杯とはいかず食べて飲んで好きなことを好きなだけ喋り、意識朦朧としながらベッドにもつれ込んだ。不動は、ソファで寝ろ、と久遠を蹴ったが酒の勢いもあり不動に抱きつくようにして眠った。今朝起きてみるともぬけのからで、久遠が抱いていたのは毛布だったけれど。
 玄関脇にはサッカーボールが一つぶら下がっている。もうボロボロの、古い型。久遠はそれを覚えている。それを不動に買って与えた日のことは今でも忘れていない。軽く指の背でボールをノックし、外へ出る。鍵をかけ、エレベーターのない建物の階段を五階分降りる。
 標識に従って公園に向かう。途中スーパーの位置を確認し、何を準備しようか考える。昨夜、皿の上にのっていたのはまあ肉と野菜のバランスは取れていたように思うものの、サラダと言えばよく見かけるあの野菜が欠けていた気がする。嫌がらせをする訳ではない。不動のことを思えばだ。
 石とレンガで作られた街中に緑は突如として現れ、窓を開けた時に感じた清々しさが全身を包む。日本では教師と監督の仕事の合間にグラウンドを走る程度だったから、同じ走りこみにしてもまた違う気分だった。全く自分のために走っている。ピッチに立つ者としての体力を維持したいとか、教師、監督としての面目、娘の視線や不動の皮肉を思った訳でもなく、ただ走りたいから走るというのは一年に時折あるかという程度の稀な経験で、更にボールがあればと久遠は玄関脇のサッカーボールを思い出した。ボールを蹴る楽しみを、この身体は覚えている。
 そう考えているところへ、目の前の広い芝生の上にボールを蹴る少年の一団がある。久遠は立ち止まってその様子をしばらく眺めた。十年前、自分が日本代表監督として率いた少年たちと同じ年頃。無邪気で屈託のないプレーは十年前の記憶を喚起させる。当時の日本代表が立ち向かっていた状況はおおよそそんなもので乗り切れるものではなかったが、例えばキャプテン円堂の目は常に濁りなくサッカーをする喜びに溢れていた。
 久遠は再び走り出す。不動は…、と考えた。無垢さが全てではない。不動はサッカーをしたくてたまらないことは彼なりの表出の仕方で自分に伝えてきたし、自分もまたそれを感じ取ってきた。例えば不動は考えたことがあったろうか。とうとう自分が不動を使う時に感じた気持ちの昂りを。不動なら結果を出すと確信し、目の前でその通りの光景を見ることができた喜びを。昨夜も互いの現状や思い出話を浮かぶままにとめどなく喋ったものだが、このことはとうとう触れなかった。全て分かってもらえているとは思っていない。ただ無理に擦り合わせる必要のない感情だとも思う。この喜びはやはり久遠のものだからだ。
 野菜を中心に買い物を終え、部屋に戻ると鍵はかかっていたが中から人の気配がした。久遠は鍵を開け、ただいま、と声をかける。笑い半分の、おかえりと言う声が部屋の奥から飛んだ。
「何を笑っている」
 久遠はキッチンテーブルの上に買い物の袋を下ろしながら声のした方向に尋ねた。テーブルの上にはバナナのキーホルダーのついた鍵が転がっている。それを壁の掛け釘に引っ掛け、自分の鍵をその隣に並べた。
「妙だと思ってさ」
 不動が顔を出し答えた。一日の練習の後のさっぱりした顔。
「俺の部屋にあんたが帰ってきて、なのに俺が、おかえりだって」
「じゃあ私が言ってやろう」
 食材を取り出す手を休め正面から「おかえり」と言ってやる。不動は照れを無理やりに歪めた顔で隠し、やめろよ、と小さく言ってそっぽを向いた。小さな勝利感に、久遠は胸の中で笑みをこぼした。
 夕飯まではまだ時間がある。久遠はキッチンを借りる旨、不動に声をかける。
「何? 何作んの?」
「当ててみろ」
「いい。楽しみにしとく。頑張って」
 不動はひらひらと手を振りリビングに消える。彼の見なかったキッチンテーブルの上には葉物野菜が多く並んでいた。他にマッシュルーム、鶏肉。流しから厚手の鍋を出す。米も炊く予定だ。リゾット風にすることも考えたが、ここは純和風に白米のままとしよう。気が向けば鍋の最後に投入してもよい。今日こそはと思った土産のワインは冷蔵庫に冷えている。
 問題は、と取り出したのはトマトだった。鍋に入れるつもりで買ったトマト缶と、もう一袋はミニトマト。軽く思案したが、缶詰は棚のストックの隣にそっと添え、鍋はベタな味付けでいくことにする。もし不動が食べなくて大量に残るのも悲劇と思った。まあ、無理に食べさせると考えなくもなかったけれど。なんせ去年の誕生日でこの世に生を受けて四半世紀が経ったのだ。もう好き嫌いという齢でもないだろう。
 時計では夕方になりかけの時刻だったが、空はあの奇跡的な青を薄め既に夕暮れがかっていた。薄い水色が、地平線から夕日の橙に染まる。鍋はことことと音を立てる。窓の下ではひっきりなしに車の音がするが、静かな夕方だと思った。
 リビングに運ぶと言うと、不動はこちらに来た。食事を摂るのはいつもキッチンテーブルだと言う。
「折角の鍋だぞ」
「残念。うちには畳もちゃぶ台もねーの」
 狭いキッチンテーブルに向かい合う。爪先がぶつかり合う距離だ。鍋と、湯気の立つご飯と、ミニトマトのサラダ。
 鍋は不動に好評だった。自分で作ってもいいと言い、久遠にレシピを訊いた。メモはしなかったが頭に入れたらしい。次は海鮮入れてもいいよな、と言う。確かにエビなどが入っていれば美味いかもしれない。
 そして鍋も空になった食卓に久遠は懐かしい光景を見る。皿の上に残されたミニトマト。
「…食べなさい」
「ご馳走様」
「食べろ」
「…………」
 不動は黙って皿の上で赤くつやつや光るそれを見つめていたが、不意に手を伸ばし久遠の皿にそれを移した。久遠は狭いテーブル越しに不動の肩を掴む。もう片手でミニトマトをつまみ口に入れようとすると、不動は本気で暴れた。
「子どもじゃあるまいし」
「大人気ねえっつうんだよあんたも!」
 無理やり口に入れてやれば吐き出すことはせず、涙目で飲み込んだ。
「…何故そんなに嫌いなんだ」
「理由なんざねえよ。嫌いなものは嫌いなんだよ」
 潤んだ目を見ていると呆れもし、半日飛行機に乗ってやって来たのはこんな不動のためだったと可笑しくもなる。口直しにとワインを注ぐと、さっきの出来事は嫌がらせというよりアクシデントと捉えたのか、不動はさして機嫌を損ねた風でもなく落ち着くように溜息をついて一口飲んだ。
 久遠はテーブルの下で不動の爪先を小突いた。不動はそれに呼応し二度小突き返した。ワインを飲む合間に爪先をぶつけ合う。口に出す言葉はない。窓の外は青を濃くし、既に夜の群青に染まっていた。西の空の端に屋根に隠れた三日月が見えた。
「不動…」
 呼ぶと視線だけで応え、足は静かに落ち着かせる。手を伸ばしピアスをつけた耳に触れる。伸びた髪が軽く耳にかかっている。そこを撫でると動物めいた仕草で安堵を示し、軽く瞼を伏せた。
 煎じ詰めれば好き嫌いという話だった。自分はいい齢をしたおっさんであるし、不動もサッカーで食っていく覚悟の下ロンドンで生活するいい大人だ。それでもこのおっさんが若者とは言えいい大人に会うために大陸横断の規模で飛行機に乗りやってくる理由と言えば、簡単な一言だった。
 軽く頭を撫でて手を離した。不動は目が覚めたように瞼を開き、窓の外を眺めた。建物と建物に挟まれた狭い空が見えた。三日月はがりがりと屋根に削られ細く欠けている。久遠はテーブルの上を片付け、その間不動はキッチンテーブルについたまま長い足を伸ばし爪先を揺らしていた。小さな鼻歌をBGMに久遠は皿を洗った。
 背を向けたまま、玄関脇のサッカーボールの話をした。
「物持ちがいいんだよ」
 と不動は言う。
「あの時、私が言ったことを覚えているか?」
 一世一代のプロポーズだ。
 不動は黙っていた。手を拭いて振り返ると、耳が赤く染まっている。久遠は、明王、と呼んだ。不動は黙って振り向いた。じっと見つめていると、不動は笑った。
「もう怖くねーよ」
 久遠はポケットに手を突っ込んだ。平たい小さな箱が入っていた。不動の向かいに軽く腰掛け、目の前で箱を開いた。銀色のリングは不動の眸の上にも映った。久遠は不動の左手を取った。不動は自ら薬指の隙間を空ける。そっと指輪を落とすとそれはぶかぶかで、指の付け根まですとんと落ちて揺れた。
 通りを走る車の音がやけに大きく聞こえた。気まずく沈黙する久遠は軽く俯き、不動の視線を避けた。不動の指のサイズくらい分かっていると思っていたのだ。まだ知らないことがある。そのことに新鮮な驚きも感じつつ、しかしそれを楽しんでいる余裕はなかった。
 しかし不動の手はぎゅっと久遠の手を握り締め、そして彼は言った。
「あんたの分は?」
 いや、と小さな声で囁くと手が引き寄せられ左手の薬指の上にキスが触れた。
「本気なんだろ、あんた」
「…ああ」
「何でそんなに恥ずかしそうなんだよ」
 さっきまでの態度はどこ行った、と不動はちょっとからかう。
「すぐに入籍とか、ゴシップで騒がれそうなんだけど」
「待つ」
「俺、四十過ぎてもプレーするつもりだぜ」
「プレーしろ」
 久遠はようやく顔を上げた。目の前の不動の顔は予想以上に赤かった。久遠はその目をしっかり見つめて言った。
「お前のプレーを見せてくれ」
 不動は薬指のリングに軽く唇を触れさせ、これ首から下げるわ、と言った。
「だから買い換えるとか考えてねーから、俺」
 すっかり大人の男の顔で言われたので、久遠はただ低い声で、ああと応えた。
 窓の向こうに三日月はすっかり沈んでしまい、二人は気づいたように部屋の明かりをつけた。リビングに移動しようとはせず、狭いキッチンテーブルを挟んでワインの続きを飲む。裸足になった爪先を触れさせる。
「じゃ明日、練習終わったらあんたの分買いに行く?」
 不動は何度目かになる仕草で、頬に指輪を擦りつける。
「買いに行くのか…」
「そういうもんだろ、指輪って」
 その時電話が鳴って、近づきかけていた二人の顔は離れる。不動は軽く舌打ちをし、電話に出た。
 冬花だった。
 不動の機嫌は直り、彼は自慢げに指輪もらったと話をした。
「よかった。あれ私とお父さんで選んだのよ」
 冬花は言う。
「じゃあ、もう話も聞いたのね?」
「話?」
「春から私とお父さんもそっちに住むって話」
 不動の形相が変わり、物凄い勢いで久遠を見る。
「春から私とお父さんがそっちに住むって話?」
 復唱する不動に、久遠はうなずき電話の向こうの冬花は、そうよと答えた。
「お父さんはそっちの学校でサッカーを教えることが決まったし、私も春で研修が終わるからメディコとしてそっちに……、聞いてる?」
「…聞いてねえよ」
「だから、お父さんはロンドンの大学でサッカーを…」
「いや聞こえてるけど聞いてねーよって話だよ」
 久遠は何となく漏れ聞こえる言葉から、すっかり話し忘れていたことを思い出し「そういうことだ」と不動に小さく言った。
 不動はぽかんと口を開ける。受話器の向こうからは冬花が「もしかして嫌なの?」と心配そうな声を出す。
「…嫌じゃねえよ」
 ようやくその一言を口に出した不動はくしゃりと顔を歪め、手で表情を隠した。
「嫌じゃねーし」
「私は楽しみよ。お父さんも」
 潤んだ視線がちらりとこちらを見る。久遠は冬花が何を言ったかはよく聞こえなかったが頷いてみせた。
「…お前ら親子って突拍子もねえよな…」
「明王君に言われるのも何だかなあ」
 受話器からこぼれる冬花の笑い声。
 しばらく話し、待ってる、という言葉で不動は電話を切った。切って盛大に溜息をついた。
「…なんで早く言わねーんだ」
「……プロポーズで精一杯だったんだ」
 不動はぐったりとテーブルの上に突っ伏し、頭の上で手を組んだ。久遠はその手を引き寄せ、左手の薬指にキスをする。
 足の甲に不動の足の裏がそっと乗せられた。久遠はそれをあやすように軽く揺らした。
 もう言うっきゃねえよなぁ、と突っ伏したまま不動は呟いた。
「あんたのこと好きだよ」



2010.12.9