chromatic world
真夜中のキッチンの床を素足で踏む感触を気に入っている。幼い頃は恐ろしかった闇も静寂も足の裏がひたりと吸いつく感じも、今はどれも気に入っている。秋冬は言うまでもなく夏でさえ、季節を問わずひやりとした空間。何も見えない闇の中で妙に冷静な心地になれる。俺は手探りでダイニングテーブルに触れ、歩数を計る。二歩、三歩。足の裏にマットの感触。流しの上に手をつく。 闇の中にまず窓の輪郭が浮かび上がる。それから金属がかすかに反射する夜の中を漂う光。水道の蛇口。シンクのカーブ。洗い立ての皿の曲線。コップを一つ取り上げ水で満たす。透明には見えない。黒でもない。青く透けたそれを呷る。冷たい水が喉から胃へ落ちてゆく。 腕を下ろし、神経を伝わってきた冷たさにもう一度見た景色は黒と白のグラデーションの中に全て収まっている。例えば暇つぶし半分で古いサッカーの映像を見たりするのだが、褪せたカラーよりもモノクロの方がよほど目に馴染んで見えるのは、遺伝子の中に刷り込まれているんじゃないだろうか。原初から両目が見てきた夜の色。 白黒の光景が記憶を手繰り寄せる。明かりを点けるかわりにテレビで流した深夜映画。そこから放射される光もやっぱりモノクロのグラデーションで、照らされた鼻先がやたら白いのとか、自分を包む腕の黒の力強さ。白黒の記憶に刷り込まれた匂いや体温。気配を全細胞が覚えている。 足音。思い出す身体の重さ。歩数を数える。足のサイズを思い出す。玄関に並べた靴。夕方の景色。何も知らないふりをして三人で食べた食事と、風呂上りに並べてみた裸足。 振り返る。目の前に黒い影。モノクロの中に落ち着く輪郭。笑わない男。 真夜中に目覚めたのは示し合わせたのではない。でも分かっていた。手をシンクの縁についたままキス。手を伸ばすのは久遠。体温。手から感じる重み。瞼を伏せる。 求めるのは大体俺の方。日の照っている内は百パー俺。でも真夜中、不意に始まるそれはいつも久遠の方から。 キスだけ、と決めている。勿論今夜は冬花もこのマンションにいるから。廊下の向こうとは言え高層住宅の防音をどれだけ信頼していいと思う?でも久遠のキスはキスだけで終わるようなものではなくて、飢餓感と言ったらがっつきすぎの印象があるだろうか。喉が渇いてしかたない風に俺に手を伸ばす。あるいは、久遠には俺の輪郭が見えていないのかもしれない。抱き締められる、きついほど。 どうしたんだよ、と囁いて腕を伸ばし背中を抱いてやる。まるで夜を怖がる子どもだ。年齢的にはまだ十代の俺がよっぽど子どもと言うのには相応しいんだろうけど。 耳元に唇。息と、触れるキスが軽く離れ「私のベッドに来ないか」と躊躇いはないけど掠れた声。 「本気かよ」 俺のアパートならまだしも、この久遠のマンションでは台所でとも言えない。たとえ口でしてやるだけだって。 「明日まで我慢できねえ?」 「お前はどうだ?」 質問で返すのは汚いが、実際俺だって平静じゃないのはお互い密着した身体だからよく分かっている。 「…どうしたんだよ今夜は」 冬花がいるのは分かってて会う予定を入れた。飯食って、擬似家族じみた団欒なんかしちゃって、俺たちそれだけで満足する予定だったんだけど、大体真夜中の目覚めはその全てを狂わす。 声を殺すのは俺の十八番。与えられるものを全て身体の奥に深く沈めて指先で語る。久遠の広い背中が俺は好きだ。強く爪を立てると、久遠は低く呻いて鼻先で俺の唇を探り当てキスをする。動物みたいだなと思った。 翌朝、誰よりも早く起きて洗面台の前でチェック。噛み痕はギリギリ鎖骨の上でお互い慣れているとは言っても昂ぶったままやっているから、こういうのはいつも綱渡りだ。シャツのボタンを上まで留め、冷たい水で顔を洗って昨夜のことは昨夜の思い出と仕舞いこむ。朝飯前にはいつもの顔に戻るのも、言葉通り朝飯前。 でもちょっとだけ驚いたのはキッチンの昨日俺が佇んでいたあたりに冬花が立っていること。シンクに軽くもたれかかり、静かに首を揺らしている。コンロの上にヤカン。湯の沸くチリチリという音がする。 「おはよ」 入り口から声をかけると冬花の顔が上がって、いつもの柔らかい笑顔を作る。 「おはよう、明王君」 飲む?と尋ねられたので何の気なくああ、と返すと冬花が淹れたのは紅茶だった。冬花は食器かごに伏せられた中から自分の分ともう一つカップを取り上げ、湯気の立つあたたかい紅茶を注ぐ。まだ昇らない朝のほの明るい中で、ポットの中身は確かに赤い。その色彩に、ああ夜が明けたと思う。 「どうぞ」 差し出されたそれを受け取る。何故か椅子に座るという意識がなくて、そのまま冬花の隣に並びカップに口をつける。冬花もふうっと吹く息で湯気を飛ばし、一口飲む。 「ミルクは?」 「え? 明王君ミルク入れるの?」 「じゃなくてお前が」 冬花はいつもコーヒーなんかに砂糖は入れないが、ミルクはたっぷり入れる。ラテも好きで、名前は知らないけど泡を作るやつがここの台所にはある。ほらあれだ、食器棚の中で銀色に光るアレ。 「紅茶は、これでいいの」 軽く目を伏せて湯気と立ち上る匂いを吸い込んだ冬花が言う。 「これだけで美味しいから」 「ふーん」 「匂いが好きなの、紅茶は」 「味より?」 「そう。匂いを覚えてるの」 カップを傾け、くっと飲み込む。白い喉がわずかに反る。それから顎が静かに元の位置に戻りわずかに引き気味になって、開いた唇からほおっとあたたかい息が吐き出される。 「明王君」 伏せられていた瞼が静かに持ち上がる。しんと冴えた瞳。口元は刷く程度の笑みがかすかに。 「私って贅沢ね」 声の細い冬花の、存外にはっきりとした言葉。 早い朝の中でそれは形になって俺の目の前に現れたかのようだった。俺はその言葉が胸にひやりとして、すぐに返事をできない。 ふふっ、と冬花は唇を綻ばせて笑った。 「娘かつお姉さんかつ、お母さんの気分」 複雑だな、とでも返事をしたものか?でも俺はやっぱり返事をしない。喋ってボロが出るよりマシだと思ったのだが、でもこの沈黙はいっそ言葉よりも雄弁な気がする。 「…緊張しないで」 冬花の声が揺れた。 「明王君が緊張するから…今更ドキドキしてきちゃった。知ってるわ。だって、知ってるわよ、もう何年も前から」 「…何年も」 「明王君が玄関で吐いて私にキスしてって言った時から」 「中間の出来事省くなよ」 でも確かにそんなことがあった。あれは忘れられない日だ。冬の寒い日。街路樹の葉も全て落ちた夕暮れの景色。あの時の寒さが蘇ってきて、俺は紅茶を飲み干す。はあっと胸の奥から熱い息が上ってくる。 冬花はほとんど空になったカップを手の中で弄びながら言う。 「私、もう明王君には遠慮してないもの。子どもができた気分」 「…弟じゃねえんだ」 「弟がよかった?」 冬花はまたくすくすと笑い、ね?贅沢でしょ私と言って俺に向かって背伸びをする。紅茶に濡れたあたたかい唇が首筋を掠める。 「でも、ずるい」 小さな声が呟く。 「お父さんとは私が結婚したかったのに」 その問題発言に俺は何故か大いに頷いてしまった。だよな。俺たち三人の距離感ってマジでそんな感じ。 カップを持たない腕で抱くとまた「ずるい」という呟きが漏れて「だから明王君は私の子どもに決定なの」と頑なな声がした。 「ママって呼ぶか?」 「呼んでもいいわよ?」 廊下の向こうでドアの開く音。久遠だ。俺は腕をほどく。冬花はわずかに身体を離したが、また急に伸び上がって俺の唇を奪う。 「一つだけ返してちょうだい」 イノセントという言葉の似合う笑みを浮かべ、冬花は言った。 「きっとお父さんはしてくれないから」 冬花、と低く呼び冬花が瞼を伏せるのを待つ。そして軽く重ねる。 おはようと言いながら久遠が入ってきた時には冬花はエプロンを羽織って朝食の準備に取り掛かる。俺は椅子に腰掛け、新聞は?と偉そうに言う。案の定久遠は朝から眉間に皺を寄せ、自分で取って来いと言う。 「はいはい」 席を立ち、擦れ違い様に肩をぽんぽんと叩いてやると久遠がちょっと驚いたように振り返った。 「…何だ?」 「何でもねーよ」 こんな朝が何でもない朝になればな。まあ、ママのお許し次第ってことで。
2010.11.30
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