ハタチ、タス、イチニチ
痛みの中を静かに一定のスピードで沈んでゆく。重なる青が濃くなり黒に近い密度で身体を包む。温度のない海の中を沈んでいけばこんな風景が見えるのだろうかと俺は思う。光のない穏やかな青の世界。痛みに痛みを重ねた触覚は飽和状態でそれが何なのかもう認識されない。そう、最初は確実に痛みだった。鈍痛。痺れ。感覚が麻痺していく。誰にも助けてほしくない。ただ眠りたい。 夢の中で俺は眠る。映画の話のように夢の中で夢を見る。サッカーと関係のない人生の中で俺は久遠道也と出会わず街で擦れ違っても気づかない。夢の中の夢にいる俺はそれが久遠だとも知らないが、夢の中で夢を見ている俺の意識はあれが久遠道也で自分が久遠に気づかないことを見て知って寂しくなる。けど同時に心が平らな水面のように静まって、こんな穏やかな生活が世界のどこかにはあるのか、と思う。欲しくはないが、羨ましいかどうかは分からない。夢の中の夢の中の俺は何度も久遠と擦れ違い、とうとう久遠の葬式まで見かける。俺は鯨幕に沿って歩きながら家の前に出ている看板で久遠道也という名前を見て、それをくおんと読み違える。それが何度も擦れ違った男だとは気づかない。俺は人生の最後まで久遠を知らず、久遠は夢の中の夢の世界から消える。夢の中の夢を見ている俺は世界が穏やか過ぎる無音に包まれたのを知って目が覚め、俺が見ている夢の世界に戻る。 夢の世界は濃い青の闇の世界で飽和した痛みは消えている。足元には鋏が一丁落ちている。俺はそれを拾い上げ、重なった銀色の刃の切っ先を手のひらに押し当てる。ぐっと感触。もっと強く押し当てれば痛い。痛みがある世界。新たな痛みの世界。俺は何故ここにいるのか。手のひらから広がった痛みは痺れとなって全身を麻痺させ、じわじわと侵食する痺れが四方八方から眉間を目指して上ってくる。全身が痛みに侵食され尽くす瞬間、つんざく音が眉間に刺さる。 アラームの最初の一音の間に目覚め、瞼を開き、手を伸ばして携帯電話を掴みアラームを止めた。 暗い、見覚えのない部屋と思ったが単に見慣れていないだけですぐ久遠のマンションだと気づく。でも俺は自分が何故ここにいるのかすぐには思い出せなくて、今日が何月何日なのか以前に自分が今何歳なのかも思い出せない。何故ならさっきまで俺は十四歳で試合に出られない焦りともがきの中にいてstruggleという英単語を思い出してテストがとか当たり前のように考えていて、だから俺今いくつだよ。 で今久遠のマンションにいる理由を考えて記憶を整理して手始めに自分が寝ているベッドの上に久遠がいないので、ああそういう夜だったんだ昨夜と思ったら順序正しい記憶の整理じゃなくて全部がどばっと蘇る。 昨日ハタチになりました。おめでとう俺。 ようやく飲ませてもらった酒は苦かったけど、酩酊で痺れていく感じは何も考えずにすむのが楽でいて考えない自分が怖くて嫌だった。久遠はいつも以上に黙っていてテーブルの向こうから俺を眺めてばかりいた。俺たちはリビングでくつろぎつつでもなく、ダイニングキッチンの蛍光灯のやけに青白く照らし出す下でちびちび飲んでチーズと柿ピーを食って、とここまで考えて俺は思い出すんだけどもしかして泣いてないか?俺。 ベッドから抜け出し、寝室の扉を開ける。廊下は部屋よりも一層暗い。風呂の隣の洗面台で顔を確認する。目は少し赤い。アルコールのせいかもしれないし本当に泣いた証拠かもしれない。ついでに顔を洗ってダイニングキッチンを覗くと昨日のビール瓶とコップとつまみを食った皿がテーブルの上に一列に並んでいて何じゃこりゃと思う。底の方に少し残ったビールは勿体無かったが排水口に捨ててコップと皿を洗う。洗いたてのコップで水を飲むと全身の細胞に浸透して身体がキュッと目覚める感触。 空のコップを伏せ、濡れた手をTシャツの裾で拭いながらリビングに足を踏み入れるとまたちょっとアルコールの匂い。ソファの上には久遠。触ると身体が冷たい。ビクッとするけどそういう意味じゃない。何も掛けずに寝れば身体も冷える、そういうことだ。寝室にとって返して毛布を一枚掛けてやる。と、その途端に久遠は瞼を開く。 「…起きてたのかよ」 「今、起きた」 「もう少し寝れば」 時間は早かったし今日は日曜だしリビングの背の低いテーブルの上にもビール缶が乗っていた。 しかし久遠は身体を起こして顔をしかめながら肩や首を回し、シャワーを浴びてくる、と言う。俺は持ってきたばかりの毛布を寝室に戻ってベッドの上に放り、冷蔵庫からは勝手にペットボトルのスポーツ飲料を拝借してテレビをつける。日曜日の朝なんか知った番組はやってなくて、アニメとかこんなんやってんだと思いながらザッピングする。戦隊モノとか変身とか世界を救うとかテレビから夢と希望が溢れてくる。 テレビの中で夢見る希望に満ちた未来に今いるのだろうか?俺は昨日ハタチになった。トップチームで走ってボール蹴って夜は堂々と酒を飲めるご身分、名実共に大人になりましたが今これは希望に満ちた未来ですか。 CM効果みたくスポーツ飲料は胃から全身に浸透。でもさっきの水一口の方が美味かったかもなとか思いながら俺はテレビもつけっぱなしでふらふらと廊下に出て風呂を覗き「背中流す?」と湯煙の中に聞く。 「なら入って来い」 何それ今までなかった反応。俺はすぽーんと服を脱いで狭い風呂の中に踏み込む。全身を包むあたたかい湯気。シャワーの音。壁の方を向いてシャワーを浴びていた久遠がスポンジを渡してくる。俺はボディソープを染みこませ久遠の広い背中を流しながら再び何じゃこりゃと思う。あれ?こういうのが目的だったっけ? いつまでたっても久遠の背中が広く見えるのは自分が痩せ型だからだろうか。久遠の身体は結構ガチッとしていて、もうこの齢になれば腹くらい弛んでそうなのに、ちょっとした皺くらいしか見当たらない。 「あんた鍛えてんよな」 何気なく言うと真面目な声で「お前にみっともない身体は晒せない」と返ってくる。うわマジで?オレのため?って言うかあんたのためか。まあそれにしたって嬉しいには違いなくて、俺は目覚めて初めて笑顔を作りながら、へえ、と小さな声を漏らし手のひらを久遠の背中に当てる。 「ジムとか行ってんの?」 「そんな暇はない。学校で走りこみだ」 「あんたさ中学サッカーもいいけど、こっち来る気ねえの?」 俺は前から尋ねたかったことを言う。今だから言う。多分さらっと言えた、はず。 何せ俺はこのことを尋ねたい気持ちも大きかったが怖くもあった。例えば久遠がクラブの監督なり何なりになって俺がサッカーしてるピッチの延長線上にいて、そしたら多分今までみたいな関係とはいかないんじゃないかと思うのだ。それとも十四の時に既にそういう関係を持った、しかも半ば誘った俺が言うことじゃないか?だってもう大人ですもん。 昨日ハタチになったので。 久遠はシャワーヘッドを取り背中の泡を流すと湯船に足を片方突っ込む。そしてこっちに尻を向けたまま「一緒に入るか?」と言う。 「無理だろ」 「昨日の体位みたいになれば」 「…あんたまだ酔ってる?」 ざぶりと湯の溢れる音。足元をあたたかい波が押し包む気持ちのよい感触。俺は久遠が今までいたポジションに立ち頭からシャワーを浴びる。同じシャンプーを使って髪を洗い、さっきのスポンジで今度は自分を身体を擦る。背中を流してやろう、と久遠は言ったが湯船から出る気はないらしく、俺は浴槽の前に背中を向けてしゃがみこむ。 「俺夢の中で泣いたんだよねー」 背中を流されながら俺は何故か口から出任せの嘘を吐く。 「何で悲しかったか知ってる?」 「何だ?」 「覚えてねーの」 痛みの飽和した痺れが全身を覆って何もかも消してしまった。俺に急激な覚醒を促す直前まで俺を苦しめ続けたあの夢は何だったっけ。俺はその夢の重さに起きた後も身体が重かったのだ、水を一杯飲むまで。 「昨日俺泣いたっけ?」 「…いいや」 「嘘吐いたろ今」 久遠は答えない。昨日ハタチになりました。それで?久遠は初めて会ったあの日から五つか六つ齢を取って、あん時は俺も中学生だから大人は全員オッサンだったけど、やっぱり今こうやって見れば久遠はそれなりにオッサンになっていて中学サッカーの監督やってて俺とは違うピッチ。時々週末に会って寝たり寝なかったり、これからも同じような生活パターンを続ければ今度からはそこにアルコールが入ったり入らなかったり。俺たちはこのままでいいのでしょうか?と思わず丁寧な言葉でどこかにお伺いを立ててみる。神様的などこかに。 「もしかしたらあんたと別れる夢見た」 そう言うと胸のあたりが苦しくなって鈍い痛みが絞めつける、のは俺のセンチメンタルなそれじゃなくて久遠の両腕が浴槽から伸びてきて俺をがっちりホールドしているからだ。 大人になっても分からないことはあるんだなあ。当たり前か。一昨日まで十代で昨日ハタチになって一日で全部が劇的に変わる訳じゃない。世界の終わり&ビッグバンみたいなものじゃなくて、毎日二十四時間を俺は二十年重ねてきて、そんで二十年と一日経った背中に久遠がいて多分それだけなのだ。 俺は口を開く。 「別れるって嘘。あんたが死ぬ夢」 「やめろ不吉な」 声がマジだぜ?道也? 「ならどんな夢見る?」 希望に満ち溢れた未来的な?トップチームで走り続けてあんたが代表監督になってそんでもう一度世界一。それも悪くない。代表っていうのはリアルに悪くない。あんたが監督っていうのはどうだろ。夢が何でも叶うのは怖い。何でも好きなだけ夢を描くのも。うおお十代の、特に十四の俺ってマジで怖いもの知らず。欲望のままに突き進んだよなあ。まあサッカーに関しちゃ今でも欲望のままにやらせていただいてますが。あんたとの関係。恋愛とか名前をつけたくないけど、あんたのこと欲しいし手放したくないこういう関係。この先どんな夢が見れる? 背中が重くなる。久遠がぐったりともたれかかっている。喋らない。身体に力が入っていない。湯当たりをしている。 健全な日曜日をやり直すにはちょうどいいハプニングだと思いながら、ガチッとして重い久遠の身体をリビングまで引き摺っていってソファに横たわらせ笑いを含んで股間をバスタオルで隠してやり、出しっぱなしのスポーツ飲料のコップを手に持たせるが口に持っていけないらしいのでストローを差してやる。まるで子どもだ。 「目の前がさーっと青くなった。どこまでも青くなって最後は真っ暗になった」 久遠が唇をあまり動かさずうわごとのように言う。俺はそんな風景を思い描いて何だか静かで穏やかな場所だなと思う。それを欲しいとも羨ましいとも思わなかったけれども。 テレビでは政治家とジャーナリストが集まって今後の世界を憂慮している。不安な未来の電源を落とし、俺は久遠の顔を覗き込んで笑いかけた。
2010.11.28
|