anything I love







 地下鉄を降りる。駅に停車する直前の、明かりが消える瞬間や、ブレーキに軋む音が好きだ。誰にも言ったことはない。言う必要もなかった。語る相手もいなかった。娘でさえ知らない、自分だけの好きなもの。
 エスカレーターを使わず長い階段を上り、地上に出た瞬間の空気が好きだ。季節によって匂いが違う。階段を上りきってかぐ空気に、季節を知る。今年もまた夏が近づいてきた。フットボール・フロンティアの様子を食い入るように見つめた去年。あの中から自分の選手を選び出すと思うと、全ての瞬間に無駄はなかった。伝説のキーパー技を体得したGK。炎のシュートを放つFW。天才司令塔と名高いMF。その中に、彼はいなかったのだけれど。
 住宅街へ向かうバスは出ているが、徒歩で帰る。流石に靴を履き替え、ランニングで帰ることまではできないが、それでもバスで漫然と揺られるよりマシだろう。
 じっとりと汗がふき出た。湿気も高い。公園の草むらからは虫の声が響く。田舎であれば蛙の声も聞こえるだろう。明日は雨だそうだ。
 マンションの七階まではさすがにエレベーターを使う。鍵を使って玄関を開ける。靴が二足並んでいる。あたたかな光が廊下まで漏れている。
「お帰りなさい、お父さん」
 冬花が出迎え、鞄を持った。
「今日はカレーよ。辛口」
「不動が?」
 うなずく冬花について行くと、ダイニングキッチンの向こうに不動の姿があった。
「おかえり」
 ぶっきらぼうな声だが、屈託はない。かつてのぎこちなさも消えて、作業しながらではあるが挨拶をする。
「ただいま」
 返す自分の方が今だに意識をするほどだ。
 帝国学園の寮は門限がそれなりに厳しいはずだが、不動はそれを抜け出してはちょいちょい久遠のもとを訪れる。恐らく、走り込みなど適当な理由をつけているのだろう。事実、ここまでは走ってくるらしいから嘘ではない。
 三人でカレーを食べた。一つのテーブルを自分と冬花と、それから不動が囲む風景もいつの間にか慣れたものになっている。冬花が水を飲もうとすると、余計に辛くなるぞ、と不動が止める。そんな軽口や笑いのこぼれる会話さえある。
 その後、不動が先にシャワーを浴びた。これもいつも通りのことだ。その間に冬花が皿を洗う。
 冬花は流しに立ちながら、氷を口に含んでいた。
「ひりひりするわ」
 曖昧な発音で言う。カレーは美味いが、辛かった。久遠も氷を一つ口に含んだ。
 シャワーから上がった不動はもとの服をまとい、マンションを辞する。冬花が「これ」と不動の口に氷を含ませる。
 外まで、久遠は見送った。エレベーターに乗り込むと、下がる一瞬、明かりが瞬いた。
「…不動」
「ああ?」
 不動はさっきの冬花のような曖昧な発音で応える。
「辛口が好きなのか?」
「夏は辛口だろ」
「夏が…私も嫌いじゃない」
 ロビーに到着し、箱が揺れる。二人は並んで外へ出た。
 街灯の周りに羽虫が群がっている。虫の声がする。夏、雨の季節も過ぎれば夏の本番も近い。
「夏の匂いがする」
「草の匂いだろ」
「私は…」
 久遠は並んで歩きながら言った。
「地下鉄が好きだ」
「ふうん」
「さっきのエレベーターのように、地下鉄で不意に明かりが明滅するのも。改札を出て感じる空気も好きだ」
「…珍しいな」
「そうかもしれない」
「違え。あんたが喋るのが」
 ぴたりと立ち止まり、不動が見上げた。襟首を掴んで引き寄せられる。キスと一緒に、小さくなった氷の欠片を押し込まれた。
 不動の後ろ姿はみるみる小さくなる。現役十代のサッカープレイヤーの足だ。あっと言う間に見えなくなった。
 最後まで見送り、踵を返した。マンションへ向かう足。体力作りを考えるようになった帰路。かつては冬花のためだけに帰っていた。いつかピッチの側に戻るのだと決めて体力を維持し続けていた。好きなものの話など、する時間がなかった。
 不動。時間が、この一歩が、いつの間にかお前のためになっている。
 久遠は街灯の照らす夜道を振り返った。気をつけて帰れと言うのを、否、また来いという一言を言い忘れた、と思ったのだった。



2011.5.25