monochrome in 6:00 am/pm
Near death experience。 二つの言葉が混同して、また色のない景色を歩いた。 機械仕掛けの神と臨死体験。 俯瞰でモノクロームの景色を見た。自分と父が住み、週末ごとに不動の訪れるこのマンションを遠い空と宇宙の間から見下ろし、ふと視界の端に射した光を見ると朝日が見えたので家に帰ることにした。細い銀色の階段をマンションに向かって下りる。決して急いではいないのに地上の景色は急に近づいてきて、まばたきの後には自分の寝顔が目の前にある。 冬花は瞼を開く。天井は薄明るく見えた。彼女は静かに起き上がり洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗い、濡れて雫のしたたる顔を見つめる。目はまだ夢を見ているようだった。瞳の中にはモノクロームの俯瞰風景が映っていた。 濡れた指で鏡の中の瞳に触れる。水が一滴、鏡の上を伝い落ちる。冬花も感情も置き去りに、ただ重力にだけ忠実な涙のように。 冬花はもう一度顔を洗い、タオルに顔を埋めた。乾いた感触が柔らかく顔を包み込む。 現実の手触りだわ。 もう一度鏡を見ると、そこにはただ自分が映っていて、伝い落ちるのはただの水の一滴でしかなかった。 朝の早い時間の中では、光景はまだ彩色を取り戻していなかった。しかしゴミ箱に落ちているそれは鮮やかに冬花の目を引いた。 私の口紅。 ルージュは根元から折れて、空っぽのゴミ箱の底に横たわっていた。 滅多に使わない色だったので棚の上に置いていた。細い円筒形の、赤いルージュ。この前の週末、家を出るまでは棚の上にあった。出かける際につけようかどうか迷って、そのまま手を触れずに部屋を出た。 冬花はゴミ箱の底からそれを取り上げ、折れてほんの少し残ったルージュに薬指を触れさせる。それは体温に溶けてわずかに指先を汚す。 日曜日の朝は、いつも色がない。これからどんな色でも塗れるように。冬花は赤い指先を唇の先まで持っていったが、不意に躊躇った。 冬花、と呼ぶ声。 指が唇から離れる。 顔を上げると、不動が立っている。 「それ折ったの、俺」 彼は悪びれる様子ではないが、ただ事実を淡々と告げるように言った。 「明王君?」 信じられないというのは素直な気持ちで、そのまま声に出た。 不動は、あとで買い物付き合うわ、と眠そうな声で言いトイレに消える。冬花は既にその役目を果たすことのできないルージュの形骸を、ゴミ箱の上に落とすのではなく、その底にそっと置いた。 デパートの一階には圧倒的に女性の姿が多く、冬花に付き添う不動の姿はその特徴的な外見からも目立つものだった。何人もの女性が擦れ違い様に不動を振り返る。しかし不動はそういった視線を全く意に介さず、忠実に冬花の隣を歩いた。 ルージュを選んでいる間も店員が、彼氏さんですかぁ?と甘い声できく。冬花は曖昧な笑顔を浮かべ、不動は答えなかった。 選んだルージュの色に合わせて冬花は化粧をされた。不動にはつまらないだろう、と冬花はちらりと彼を見たが、不動は黙って化粧をされる自分を眺めていた。 チークその他も店員は甘い声で勧めた。不動は払うと言ったが、冬花はピンク色のルージュだけを買った。 「俺が折ったんだぜ?」 「いいの」 冬花は首を振る。 「あの色、私にはあんまり似合わなかったし…」 じゃあ昼を奢る、と言うのでドトールに入った。 レジ横に置かれたチェブラーシカのマグカップを可愛いと指差すと、不動は躊躇わずそれを会計の中に加える。 「そんな…悪いわ」 「口紅より安いじゃねーか」 暖色の抑えた明かりの下で向かい合って座ると、そう言えば気にしたことはなかったが不動と二人きりになることは滅多にないのだと思う。いつも二人の間には久遠がいる。しかし冬花は、何ら気負う必要がなかった。目の前で不動は大口を開けてミラノサンドを頬張る。不動もリラックスしている。 「女の子の買い物、つまらなかったでしょう?」 「お前が楽しかったんならいいんじゃねーの」 「…優しいのね」 その言葉に不動は鼻で笑った。 冬花がトルテを食べ終え紙ナプキンで口元を拭うと、さっき店でつけられたルージュが落ちた。彼女はそれを小さく畳んで皿の端に置いた。 「口紅」 不動が言う。 「落ちたな」 「いいのよ」 微笑む冬花に不動は手を伸ばす。 「さっきの、貸せよ」 「えっ…」 「口紅」 冬花はルージュの入った小さな紙袋をぎゅっと握り締めたが、不動は手を突き出したまま動かさない。視線も真っ直ぐに自分を見つめていて、冬花は穏やかな照明の下で不動の視線の強さにたじろぐ。綺麗な目。怖いくらい。 ルージュを取り出し手渡すと、不動はそれを少し出して、ピンク、と呟いた。 折れたルージュはほとんど真っ赤だった。深い赤、確か名前はバレンタインレッド。 不動の手に促され、冬花はわずかにテーブルの上に身を乗り出す。不動の手は存外に優しく冬花の顎の線を支え、ルージュは優しく唇に触れた。冬花は自分の身体が一瞬震えるのを感じ、目を閉じた。 不意に自分達の姿が俯瞰の風景として見える。モノクロームの中、ルージュのピンクだけが淡く光のように明るく見える。 冬花はそっと不動の顔を覗き込む。 造形の良い不動の顔は静かな表情をたたえていた。瞳は半分伏せられ、ルージュを塗られる自分と同じように唇がわずかに開いている。 明王君の顔って綺麗よね、皆振り向いた。 赤い口紅、きっと不動には…。 冬花は不動に向かって薬指を伸ばす。 瞼が開く、目の前に不動の顔がある。 「…ありがとう」 冬花は微笑み、不動からルージュを受け取る。それはもう店の紙袋には入れずポケットの中に仕舞った。 不動はまたミラノサンドに噛みつく。ハニーマスタードが唇の端についている。冬花は、明王君、と呼んで紙ナプキンを持った手を伸ばした。不動は目を瞑り、子どものように口元を拭われるにまかせた。 午後から空は曇った。 不動はそのまま自分のアパートに帰ってしまった。 帰宅すると父はいなかった。 冬花は洗面台で化粧を落とし、鏡の中の濡れた自分の顔を見つめた。 夕方の光が射さず、洗面所は薄暗い。 冬花は濡れた手でポケットの中を探す。冷たい円筒形の感触。 「ああ…」 小さく呟く。 「明王君、帰っちゃった」 モノクロームの景色の中、鏡に向かってルージュを握り締めている自分がいる。しかし、銀色のワイヤーで作った神様の手が宇宙と空の間から冬花を下ろしてくれる。 混同していた二つの言葉がほどけて別々の言葉となり、冬花の世界も重力が重力たり色彩が色彩たる世界を取り戻す。 冬花は濡れた唇にルージュを押し当てる。 「似合うって、言って」 そっと目を閉じて囁いた。
2011.2.2
|