never understand in 4:17 am
(1)午前4時17分。 (2)そこそこ悲しく、淡く幸せだ。 (3)どちらの意識が溶け合ったのかは分からなかった。久遠は深い眠りの中にいた。不動はベッドから抜け出すとバスルームに向かった。洗面台の広い鏡が暖色の明かりに照らされて、しんと目の覚めてしまった自分の姿を映していた。 明日に予定がある訳ではなかった。今からこのマンションを出てしまってもよかった。都内に借りているアパートはクラブハウスに近い場所だったから、久遠の家からは些か遠い。まだ電車も動き出さない時間だが、不動には自慢の足があるし、別に急ぐ必要もない。冬の夜明けの匂いをかぎながら歩いて帰ればいい。 ハタチを過ぎていれば酒でも飲んだのだろうか。午前4時17分だ。しかし身体も心も、もう一眠りを欲していなかった。洗面台の前はひやりと寒く、時々その寒さに気づくように身体がぞくりと震えた。 廊下に落としたカメラが定点のまま自分を観察するかのように不動には自分の姿が見えた。裸足の膝、下着一枚の少し痩せた身体。冷たい眼差しが鏡に映った自分の眼球を射抜く。唇と鼻先に宿った冷血な印象。自分の名を名乗る時でさえ、最初から悪魔が用意した嘘を吐くかのようだ。 暖色の明かりに照らされながら手はひどく白く見えて、持ち上がったそれは棚からでたらめに物を取り上げて指先で弄る。銀色をした、小さな、冷たいような物。細い円筒形の、ルージュ。キャップを外す。視線が軽く見下ろして指先が回転する。口紅が現れる。 唇は冬花の名を呼ぶが、その声は聞こえない。指先を紅の上に指を押し当てる。わずかにきらめく赤が指先を染める。 (4)そこそこ悲しい。 (5)定点で観察するような視点の中で、不動は自身の行為を別人のもののように見ている。身体を絞ったのはいいが痩せすぎか?膝が白いのは何故だろう。右足には青痣がある。先の試合でイエローをもらったプレーが自分に与えた追加料金。奇妙だ。洗面台の広い鏡を照らすのは暖色の明かりなのに、不動の身体はひどく白々と見える。青痣もまるで雪にインクを落としたかのようにはっきりと、白に沈む。 寒さを感じていないのだろうか、身体は震えていない。勿論だ、寒さは関係がない。ここに立っている理由は午前4時17分。まだ1分だって経っていない。夜明けを、この世の誰も望んでいないかのようにマンションの久遠の部屋は暗く静かだ。冷たく、完璧なほど静かだ。 呼吸の音も聞こえないので、心臓のありかがわからなくなる。定点の視点から胸を撫でれば、流れている血が眠っているかのように冷たい。ルージュも氷のように冷たいのに、指先を押し当てると簡単に溶けて指を汚した。人差し指の先。中指の先。不思議な色だ。鼻血の赤はもっとどす黒かった。 (6)必要なだけ悲しい。 (7)午前4時17分に必要な分だけの熱量で指先を唇に押し当てる。ルージュをなすりつけると、そこだけ奇妙に熱かった。不動は何故そんなことをしたのかを知った。定点の視点が持ち上がり、呼吸の音がした。廊下に久遠が立っている。 久遠は廊下の闇の中に佇んでいる。暖色の明かりの下で白々と照らされている不動をじっと見つめている。 不動は左手を真っ直ぐに伸ばす。その指先に抓んだルージュを、そっと、確かに、素早く手放す。 廊下の闇から腕が伸びてきて不動の左手から手放され落下するルージュを受け止める。久遠の右手はそれを掴み、握り締める。不思議な赤は久遠の手を真っ赤に汚す。不動はそれを黙って見下ろしている。久遠は下からじっと睨みつけるかのように不動の目を見上げていた。 躊躇いのない足取りが不動に近づく。拳は不動ほ頬を掠めて洗面台の上に伸びる。乾いた音と共に洗面台の白い曲面の中にルージュは落ちる。 赤い色のべったりとついた久遠の手は不動の唇に触れるが、手のひらいっぱいを押しつけられはみ出た指先が鼻血を拭ったかのような赤い線を鼻の下から頬に描いた。不動は今や混線した視界に頼らず、肌でそのことを感じ取っていた。ルージュを手放した左手で頬を拭い、手のひらになすりつけた赤い色を舐めとる。鉄の味はしない。久遠の匂いはした。 べろりと舌を出すとそこに久遠が噛みついてきて、キスを交わしながら半ばもどかしく下着を脱いで踏みつける。久遠は何も喋らず、暖色の明かりの下でやけに暗い視線が腕の強さと同じように不動を縛りつけて離さなかった。 「…縛れよ」 食むことをやめない唇を引き離し、久遠の耳元に囁く。 囁きを聞いた久遠の視線は鉄のような強さと冷たさで耳や首筋に刺さる。不動はルージュで赤く汚れた唇を久遠の耳に押し当て、もう一度囁いた。 「縛って、後ろからやればいい」 うなじを強く噛まれる。下半身が乱暴にまさぐられ、片足が抱え上げられた。久遠の赤い右手は不動の膝の裏にも赤い手形を残した。痛みさえ伴う挿入だった。 (8)誰にも理解できない程度に幸せだ。 (9)時間を尋ねるともうすぐ5時だと言われた。風呂上りの身体をソファの上にだらしなく横たえ、窓を見ると街の輪郭が夜の中に青く浮かび上がっている。 ぐい、と首を反らすと台所に立つ久遠の裸の後姿が逆様に見えた。 「…また、したい?」 「ああそうだ」 直截な返事が返ってくる。そう言えばセックスはもう数えられないほどしてきたが、裸の背中を見ることはほとんどなかったと思った。自分が後ろから相手を攻めてやろうとでも考えない限り。 「あんた、男に狙われたことないの?」 「何故そう考える」 「いいケツしてんなと思って」 久遠は振り向かなかったので、不動は逆様の視界の中でげっぷが出るほど久遠の裸の後姿を堪能した。 起き上がり、痛くなった首をさすっていると久遠が近づいてくる。隣に座るので、膝の上に乗ってやった。キスのできる距離で相手の目をじっと見つめた。熱い息が掠める。お茶の匂い。熱を含んだ、湿った息。唇の上を掠めるように、噛みつくふりをする。何度かそれを繰り返すと、久遠がじれたように不動の頭を引き寄せ唇を重ねる。 夜が明ける前にもう一度。朝日が昇るのが心底面倒だ。何をすればいいのか、不動には本気で分からなかったから。 (10)時計は既に動き出していて午前5時2分を過ぎている。
2011.1.20 おとはる様リクエスト「あきおのふとした仕草や佇まいに艶を感じて余裕のなくなる道也」
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